第9話 首長竜の保護政策

 環境省の本庁で、野口は落ち着かなかった。

 一刻も早く――沼津で現地調査を行わなければならない。

 静岡県の担当者とはWeb会議で意思疎通が取れており、調査計画そのものは順調に進んでいる。

 だが、現地調査に行けていない現状が、何よりもまずい。国民から怠慢と見なされかねないからだ。


 化石の中の存在だった首長竜が――突然、日本の海に現れた。

 駿河湾で絶滅したはずの生物が生きている。その報は世界を駆け巡り、環境省には連日、問い合わせが押し寄せていた。

 官邸からも首長竜の保護政策について、直接の照会が入っている。

 地味な業務が多い環境省が、ここまで脚光を浴びるのは異例と言っていい状況だった。


 事の発端は、地元の少年がYouTubeに投稿した一本の動画だ。

 当初はフェイク扱いだった。だが、著名な研究者の証言で状況が一変した。

 すでに再生数は五千万回を超え、国際ニュースとして取り上げられている。

 化石の中の生物が、なぜ突如として駿河湾に現れたのか――その理由は誰にもわからない。


 駿河湾は深海で、古くから謎の多い海域だ。だが、それにしても今回の発見は常識を超えている。

 駿河湾そのものに、何らかの特殊な環境的要因があるのではないか。

 国内外の学者たちは、連日議論を交わしていた。


 しかし、野口にとって「なぜ現れたか」は本質ではなかった。

 現に――絶滅したはずの生き物が、日本にいる。

 ならば、環境省はそれを保護しなければならない。

 駿河湾は漁業が盛んな地域だ。サクラエビ漁の網に絡まるなどの被害も想定される。


 少年が投稿した動画は、首長竜の性質を知るうえで貴重な資料になっていた。

 後追いのYouTuberたちも首長竜の撮影には成功していたが、ここまで接近できた例はなかった。

 おそらく、彼らが好物であるイカを持っていなかったことが理由だろう。野口はそう仮説を立てていた。


 最新の動画では、猫を連れた少年が『首長竜の好物探し』と題した企画を行っている。

 結論は――イカならなんでも大好き。

 人間が食べないようなアンモニアを多く含む深海イカでも気にせず、むしろその方が好まれるようだ。


「……この動画に出てくる猫、ヤマネコに見えるな」


 野口は少し気になった。

 映像の猫の大きさや模様は、対馬に生息するツシマヤマネコによく似ている。

 だが、そんなはずはない。ツシマヤマネコは、長崎県と環境省が厳重に保護しており、孤島の対馬から静岡県の片田舎に運ばれてくるなど到底考えられなかった。

 


 県の担当者によれば、戸部漁港付近では漁師たちが面白がって餌を与え、首長竜が沿岸に居着いているという。

 本来なら野生動物への餌付けは避けてほしい行為だ。

 だが、それが漁業者との摩擦を和らげているという皮肉な一面もある。

 漁港の周辺は浅瀬が多く、大規模な漁が行われていないのだ。


 地方自治体や各省と保護についての政策協議を進めているが、実質的な主導権は環境省にあった。

 ――問題は、野口がまだ現地に行けていないことだった。

 課長に出張申請を出してから一週間、返答がない。

 理由は単純。宿泊費だ。

 出張サイトを見るたび、沼津の宿泊料金が高騰していた。

 アンモナイトの再発見で観光客が押し寄せ、さらに首長竜騒ぎが拍車をかけていた。


 沼津市中心部のビジネスホテルが一泊六万円。

 静岡のような地方都市では、宿泊費の上限は一万数千円。これでは経理が通るはずがない。


「課長、沼津の出張に関する特例措置は通りそうですか?」

「野口くん、なかなか経理が首を縦に振ってくれなくてね」


 前例主義――それが役所という場所だ。

 どれほど現場の準備が整っていても、理解不能なところで仕事が止まる。


 環境省は早々に、この生物に暫定名『ヌマズサウルス』を与え、保護動物に指定した。

 世界中の視線が日本に集まり、課内の士気はこれまでになく高まっている。


 野口の心は焦りを隠せなかった。

 机上の調査だけでは意味がない。早く現場に行かなければ――。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 三日後、野口はついに沼津の地を踏んだ。

 東海道新幹線で三島へ降り、在来線に乗り換えてすぐの港町。

 結局、宿泊費の上限問題は解決せず、静岡県が所有する職員寮を借りることで落ち着いた。


 今回の出張目的は二つ。

 県主導の学術調査に同行して人脈を築くこと。

 そして、近く来日予定の国際調査団に向けた事前の下調べである。


 沼津駅では県の職員が待っていた。

 

「今から行く戸部漁港は県が管理する第二種漁港で、水揚げ量は県内十位以内に入ります」


 県の職員が基本的な情報から説明してくれる。

 戸部地区は平成の大合併で沼津市に編入された地域。

 アンモナイトの生体が四体見つかったのも、この漁港だという。


 港では調査チームが待っていた。

 海洋学者、古生物学者、そして動画にも出演していた――沼津水族館の菖蒲谷館長が、笑いながら手を差し出した。


「環境省の野口です」

「どうも、館長の菖蒲谷です。東京からわざわざお疲れ様です」


 県が手配した調査用の漁船に乗り込む。

 菖蒲谷館長は、あの動画の撮影後も何度か現地調査を重ねているらしい。

 出没する海域はほぼ一定で、船のエンジンを止めていると、向こうから姿を現すという。


「あいつらは、漁船に近づいてくるので、まず間違いなく会えますよ」


 館長は断言した。

 案内された海域で船を止めると、彼は細かく刻んだイカを海へと撒き始めた。


「今は漁船が少ない時間帯なので、海中に潜っているでしょうけど……匂いを流せばすぐ来ますよ」


 言葉通り、十分も経たないうちに海面が盛り上がった。

 波が割れ、|もの首長竜が姿を現した。


「あれ、小さいのが一匹増えてますね。子どもを産んだのかなぁ」


 館長の前回調査では二匹しか確認されていない。

 野口の手元の資料にも、幼体の記録はなかった。

 だが、目の前には二メートルほど小さな首長竜が口をパクパクしていた。

 報告書に書くことがまた一つ増えた。


「いきなり二メートルとは……卵胎生と考えるのが自然でしょうね」


 一人の研究者がそう呟く。

 エラスモサウルスの仲間で、卵胎生を示す化石が見つかった例があるという。


「キュイ……キュイ……」


 調査班が議論しているうちに、痺れを切らしたのか、大人の首長竜が船体を軽く揺らした。

 餌付けされているためか、人間に対する警戒心がまるでない。


 用意していたイカを海へ投げる。

 動画で見たよりも迫力がある。

 水面に浮かぶ体の一部だけでも巨大で、その全長は海の上からは窺い知ることができない。

 口は、人間一人を丸呑みにできるほどだった。


 

 環境省として、どう保護政策を立てるか――それが最大の課題だ。

 近くの入江を封鎖して保護区にする案が上がっているが、彼らが回遊性を持つなら意味がない。

 水族館で飼育できる大きさでもない。


 今できる現実的な策といえば、海保の巡回を増やし、不審船の接近を防ぐことくらいだ。

 最も懸念されるのは、彼らを狙う組織的犯罪者の存在だった。


 餌やりを禁止するのは簡単だが、そうすればこの広い海のどこへ移動するか分からない。

 生態の解明は、環境省が音頭を取らずとも在野の研究者たちが進めてくれるだろう。


 野口は小さく息を吐いた。

 教科書や図鑑の中の存在ではない、本物の首長竜が目の前にいる。

 それでも彼の仕事は――

 前例のない事例を、前例に当てはめて処理することだった。

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