第11話 天使の再臨と裁きの光
アキトは、グスタフの巨大な亡骸に背を向け、塔へと帰還する道を歩み始めていた。達成感と悪魔の承認の興奮が、彼の冷めない血の匂いとともに彼を支配していた。
その時、プレ・エモーションが発動しない、純粋な物理的な異変が、彼の背後で起きた。
ゴッ…、ゴゴゴゴゴゴ……!
倒れたはずの猛牛のグスタフの巨体が、地面を軋ませながら、ゆっくりと、しかし確実にもたげ上がった。
アキトは振り返った。グスタフの脇腹に深く突き刺したはずの傷口から、黒い魔力がどろりと溢れ出し、即座に肉体を再構築し始めている。その目は、すでに理性や怒りすらなく、ただ「獲物を潰す」という純粋な本能に支配されていた。
「なんで…ぼくはちゃんとやったのに…!」アキトは震えた。
ゾルグの声が、冷静に聞こえる。「ふむ、あの猛牛、やはり刺しただけでは死なないか。逃げろ、アキト」
ゾルグは魔界の瘴気によって力が削がれており、この距離では即座に援護ができない。リリアンは、この予想外の事態に「面白くなってきたわね」とただ興味深く塔の上から見物しているだけだった。
グスタフは、完全な再生には至っていないものの、その突進力は健在だった。
ドォォン!
グスタフは咆哮とともに大地を蹴り、アキトに向けて突進した。その動きは、先ほどの作戦で読み切れた「単純な怒り」とは異なっていた。アキトを殺すという本能的な行動に切り替わったグスタフの動きには、最早「感情」や「計画」が存在しない。
アキトは、プレ・エモーションを活用して何とか逃げ回る。しかし、アキトの意志とは裏腹に恐怖はアキトの身体を硬直させる。
(読めない! 読めない! なぜだ! 殺意はここにあるのに、奴の動きがバラバラだ! どこへ逃げる!? 次はどこに来る!? どうすればいい、だれか、助けて!)
彼の脳内は、予測できない未来への恐怖で真っ白になり、異能が逆に彼を麻痺させた。かつていじめっ子の突然の暴力に晒された時と同じ、思考停止状態に陥る。
ついに恐怖に捕らわれたアキトは、ただ本能的に体を横に投げ出すことしかできない。
ゴッ!
グスタフの鋼の拳が、アキトのいた場所を直撃し、地面を深く抉った。拳から放たれた衝撃波がアキトの全身を襲い、彼は数メートル吹き飛ばされ、地面を転がった。
「ぐっ…あ、あああ…!」
アキトの腕の骨が軋み、激痛が走る。視界がかすむ中、グスタフは再びその巨大な角を下げ、「トドメを刺す」ための最後の突進体制に入った。
絶望がアキトの心を覆い尽くす。ゾルグもリリアンも、この危機を救うことはできない。彼は、復讐を果たすことなく、ここでただの肉塊として消える。
グスタフの角がアキトの胸に到達する、コンマ数秒前。
キンッ――!
澄んだ金属音と、魔界の空気を一瞬にして浄化する純粋な光が、旧・魔王の庭を包み込んだ。
「アキト、あなたはわたしが守る」
ミカエラだった。
彼女は、純白の翼を鋭い刃のように使い、グスタフの頭部と角の間に滑り込み、その突進を受け止めた。グスタフの突進の勢いとミカエラの聖なる力が激突し、爆発的な光と衝撃波が発生する。
ミカエラは悲痛な顔で、グスタフを押し返し、アキトの前に降り立った。
「ゾルグ、リリアン! あなたたち悪魔が、アキトの命を駒として弄ぶことを、断じて許さない!」
ミカエラの瞳は、怒りではなく、悲しみと決意に満ちていた。彼女はアキトを一瞥した。アキトは、血に汚れ、恐怖で完全に硬直している。
「この魔族は、既に再生能力と本能に支配されている」
ミカエラは、手に聖なる光の剣を出現させた。その光は、この魔界の瘴気の中でさえ、揺るぎない絶対的な力を放っていた。
グスタフは、ミカエラの存在すら認識せず、ただ目の前の「敵」を排除しようと、再びミカエラへ向かって突進した。
「裁きの時です!」
ミカエラは、感情を完全に切り捨てた、執行者の顔になった。彼女は回避することなく、グスタフの突進を真正面から受け止めた。聖なる剣は、グスタフの分厚い胸板を一気に貫通し、彼の内部に宿る全ての魔力を浄化し始めた。
キィィィィィン!!
グスタフの巨体が、内側から光に包まれ、悲鳴をあげる間もなく、塵となって崩れ去った。彼の魔族としての存在は、完全に消滅した。
アキトは、助けられた安堵と、ミカエラが示した圧倒的な力に、その場に崩れ落ちた。
ミカエラは、静かにアキトに振り返った。
「アキト。あなたは、悪魔の道具として、自らの命を危険に晒した。これで終わりよ。わたくしが、あなたをここから連れ出す」
ミカエラが、アキトに手を差し伸べた。その手は、かつて教室で彼を心配してくれた優しさに満ちた手だった。
しかし、ゾルグの声が響く。
「させるか、天使。貴様が仕留めた獲物は、我々の正当な戦利品だ」
ゾルグとリリアンが、塔の頂上から降りてきた。彼らの視線は、ミカエラとアキトに集中している。アキトの魂は、悪魔の支配と天使の救済の狭間で、再び引き裂かれることになった。
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