零章 ボクは母親を喰らう獣となった(2)

 「はい、どうぞ」

 ボクの目の前に湯気を立てる料理の数々が並べられた。ローストしたナッツとドライフルーツのグラノーラ。マメのスープ。ふわふわのオムレツ。それに、たっぷりのミルク。

 ラ・ド・バーンの典型的な家庭料理。多くの家庭で母親が日頃から子供たちのために用意し、ふるまう。

 そんな、飾り気のない素朴な料理。

 でも、こんな当たり前の料理でもイシュタ人居住区ではご馳走だ。

 寒さの厳しい居住区では木と言えば針葉樹しか育たない。実をつける果樹を育てることはできない。当然、木の実の収穫なんて不可能だ。

 居住区での食べ物と言えばトナカイのミルクから作るチーズとニワトリの卵。それに、木に巣くうイモムシ。

 とくに、虫たちがみんな羽化してしまい、イモムシが手に入らない夏場はほとんど毎日、チーズと卵ばかりの食事となる。ナッツとフルーツが山盛りのグラノーラに湯気を立てるマメのスープときただけで、みんなよだれを垂れ流して欲しがることになる。

 ボクはためらわなかった。目の前に並べられた料理の数々を見たとたん、矢も楯もたまらずにむさぼり食った。

 お礼も言わない。

 『いただきます』も言わない。

 なにも言わずにむさぼり食った。

 お腹が空いているかどうかさえわからない。

 ボクを突き動かしていたものは『食べられるときに食べておかなければならない』という野生の本能。獣となっていたボクは、その本能に支配されてただひたすらに食べ物を胃のなかに押し込みつづけた。

 ボクが飢えに駆られ、思わずウィッチタブルーの脚に食らいついたあと――。

 かのは怒らなかった。

 動揺することさえなかった。

 ただ、最上級の瑪瑙めのうを思わせる漆黒の瞳で、食らいついたままのボクを見下ろしていた。そして、そっとしゃがみ込むとボクの体を抱きかかえた。

 ボクは抵抗しなかった。

 いや、できなかったんだ。

 かのの腕に導かれるままに牙をはなし、かのの腕のなかで小さく丸まった。

 優しいとか、愛情深いとか、そんな表現ができるような態度ではなかったけれど、このときのかのの仕種には抵抗できないなにかがあった。

 そして、ボクは母ネズミの毛にくるまれて眠る子ネズミのように眠りに落ち、そのままイシュタルの巫女の住み処である神宮へと連れてこられた。

 気がついたときにはテーブルの前に座らされ、目の前には湯気を立てる料理の数々が並んでいたのだ。

 ボクはいったい、どれだけの間、食べつづけていたのだろう。それこそ、何日もぶっつづけで食べていた気がする。

 まさか、そんなはずはないと思うけど、いまにいたるまでボクのなかにはそんな感覚が残っている。

 ようやく、生に執着する本能が満足し、人心地ついた。そのときには、テーブルの上には大小、何十枚もの皿が文字通り山積みになっていた。

 むさぼるのに必死で気がつかなかったけど、ウィッチタブルーはボクが皿を空にするつど、追加の料理を出してくれていたらしい。ボクが満足するまでいくらでも食べられるように。

 目の前に積まれた皿の数にボクは唖然あぜんとした。そんなに大量に食べたことが信じられなかった。

 目の前に積まれた皿の数は、こちらは錯覚でもなんでもなく、まちがいなく数日分、もしかしたら、一週間分以上もあっただろう。

 いまにいたるまで何日も食べつづけていたような感覚をもっているのは、この皿の数を見て受けた衝撃のせいかもしれない。

 「こんなに……」

 食べたの?

 ボクは怖々こわごわと、ウィッチタブルーに視線でそう尋ねた。ウィッチタブルーはボクの食欲を責めるでもなく、淡々と言った。

 「なかなかのものだったでしょう?」

 それからクスリと笑うと、からかうように、皮肉交じりのように付け加えた。

 「わたしの脚ほどおいしいはずはないけど」

 ……信じられないと思うけど、こういう台詞を平気で言ってしまえるのがウィッチタブルー。

 『女』という生き物の精髄を極限まで込めて作られたような人。

 『自信』と銘打たれたターコイズの彫像。

 台詞だけ聞けば『傲慢にもほどがある!』と、いきどおる人も多いだろう。

 でも、ウィッチタブルーを一目見ればそんな思いは吹き飛んでしまう。どんな傲慢な台詞も許してしまう。そんな台詞を吐く資格があると思ってしまう。

 それがウィッチタブルー。

 スラリとしたしなやかな肢体。

 驚くほど長い手足。

 小さい顔。

 そのなかでネコのように輝く大きな瞳。

 肌は手足の先に至るまで真っ白で、唇は輝くように紅く、まっすぐな長い髪は漆黒の滝のよう。

 地球のおとぎばなしで言う『雪のように白く、血のように紅く、黒檀のように黒い髪』という表現そのままのその姿。

 一言で言って『おいしそう』。

 嫉妬にかられた継母が心臓をえぐり出して食べたくなるのも無理はない。

 そう納得させるほどの美しさだ(ただし、ウィッチタブルーが主人公ならあんなお話にはならない。ウィッチタブルーの心臓を食べようなんてしたら、お城から追い出されるのは逆襲を受けてボロボロにされた継母の方。そして、最後の一行は『いつまでも幸せに暮らしました』ではなく『世界中で暴れまわりました』になる)。

 ウィッチタブルーはその完璧な肢体を巫女装束に包んでいた。袈裟懸けに白いストライプの入った青い小袖こそでに、吹きあがる緋色の炎をあしらったはかましろ足袋たび浅沓あさぐつ

 ボクは知らなかったけど、青い小袖こそでと緋色のはかまという組み合わせは『木曜の巫女』の正装。

 ウィッチタブルーはイシュタルの巫女であり、イシュタルの巫女とは『木』を司る巫女なのだ。だけど、それにしても――。

 完璧な肢体を巫女装束に包んだかののなんと魅力的なことだろう。

 『レモンと石鹸の香りがする』ように清楚。

 『磨き抜かれた大理石を見ている』ように上品。

 そして、『王家の墓に並んだ彫像』のように気品高い。

 『女』という存在の理想を突き詰めたようなその姿。栄養不良のやせっぽちで、ボサボサの荒れた髪が首まで覆っているボクとはなにもかもがちがう。ちがいすぎる。

 輝くようなその姿は『薄汚れた田舎の子供』に過ぎないボクにはまぶしすぎた。

 「よく食べたわね。当たり前だけど」

 ウィッチタブルーはボクを見てそう言った。

 「当たり前?」

 ボクは思わず聞き返した。

 とても『当たり前』とは思えなかった。目の前に並んだ皿の数はとてもじゃないけどボクひとりで食べきれる量とは思えなかった。

 おとなの男性、それも、プロの格闘家だって一度にこんなには食べられないだろう。それをボクがひとりで食べた。それを『当たり前』だなんて言われても納得できない。

 「あなたは、わたしの血を飲んだ。そのためよ」

 「どういうこと?」

 「木は成長をつかさどる。木曜の巫女はその場にいるだけでまわりの生命を賦活ふかつし、はぐくむ能力がある。まして、生き血ともなれば不老長寿の秘薬。

 一口飲めば体中が活力に満ちあふれ、若さを取り戻す。いまのあなたの体は、わたしの血を飲んだことでいちじるしく活性化し、一気に成長しようとしているのよ。そのために、膨大な栄養を必要としているというわけ」

 言われたとたん、ボクは恐ろしくお腹が空いていることに気がついた。

 信じられなかった。

 下手をしたらボクの体ぐらいある量の料理を平らげたばかりだというのに一瞬、餓死の恐怖に襲われたほどだった。

 体中の細胞が栄養を欲してキュウキュウと鳴いていた。

 ウィッチタブルーはそんなボクの様子を見て追加の料理を運んできてくれた。

 ボクはまたもお礼も言わずにむさぼり食った。結局、先ほどと同じぐらいの量の料理を平らげて、今度こそ本当に人心地つくことができた。

 それにしても、このときだけでいったい何日分の料理を平らげたのやら。これがウィッチタブルーの血を飲んだ結果だというなら、たしかにものすごい効果だ。

 「それにしても……」

 ウィッチタブルーは深い溜め息をついた。

 巫女装束に身を包んだ絶世の美女がこんなうれいを含んだ表情をして見せたのだ。もう、一枚の名画のように魅力的。実際、写真に撮って売り出したら飛ぶように売れるだろう。

 「……ここまでひどいことになっているなんてね。噂を聞いてとめるために急いで戻ってきたんだけど、さすがに間に合わなかったわ。まったく、ホルムストラップのやつ……」

 「ホルムストラップを知っているの?」

 ボクがそう尋ねたのは、ウィッチタブルーの言葉のなかに怒りだけではなく懐かしさが感じられたからだ。

 「幼なじみよ。まあ、幼なじみと言っても本当に小さい頃、何年か一緒に遊んで過ごしたって言うだけなんだけどね。一六年ぶりに会って驚いたわ。あの頃と全然かわっていない。幼稚な正義感を振りかざすばかりで考えなしで……大体、父親のスマラグドからしておかしかったのよ。『待遇改善』ぐらいならともかく、よりによって『聖なる森の返還と全イシュタ人の帰還』を要求するなんてね。いまではもう帝国の首都となっている聖なる森の返還なんて、やりたくてもできないに決まっているじゃない。そのせいで、こんなひどいことになって……」

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