そろそろ戦争するのも飽きてきた
藍条森也
零章 ボクは母親を喰らう獣となった(1)
「これを食べなさい、アイズリー」
そう言いながら母さんがボクの目の前に差し出したもの。それは、自分の内臓。爆風によって飛んできた破片によって切り裂かれた腹からこぼれ出した、自分自身の内臓だった。
ボタボタと音を立てて血を流す傷口からはみ出した内臓。まるで、首をくくられて庭先にぶらさげられているニワトリのように腹からぶらさがっているそれを、母さんは自らの手で引きちぎり、ボクの目の前に差し出したのだ。
「これを食べるのよ、アイズリー」
母さんは重ねて言った。
顔はすでに血の気を失い、真っ白になっていた。それでも、その両目だけは、生命の最後のかけらを燃やして
――これを食べなさい、と。
ボクのすぐ目の前。
そこには母さんの手に握られた、母さん自身の内臓があった。血にまみれ、まだドクドクと脈打っているそれを見ながら、ボクは呆然としていた。
「食べるのよ、アイズリー」
――食べる?
――母さんの内臓を?
――できるわけない、そんなこと!
でも、母さんは重ねて言った。
「食べるのよ、アイズリー。これを食べて、力をつけて、そして、逃げるの。どこでもいい。逃げて、逃げて、逃げ延びて、生きられる場所を見つけるのよ」
母はそう言ったきり、もう二度と動かなかった。ボクの顔をジッと見つめ、血にまみれた内臓を突き出したまま。
――ああ、そうか。
ボクはぼんやりと思った。
――母さんは死んだんだ。
――死んじゃったんだ。
ボクは、理性よりも本能でそのことを悟った。
時間がとまっていた。世界のすべてが灰色に凍りつき、動くことをやめていた。
その世界を再び動かしたもの。
それは足音。ボクたちを追ってやってくる『敵』の軍勢が大地を踏みならし、近づいてくる音だった。
――このまま、ここにいれば殺される。
そのことはわかっていた。
殺されないためには逃げるしかなかった。
逃げるためには体力をつける必要があった。焼けつくような喉の渇きを癒やし、飢えて動く力を失った体に栄養を補給しなければならなかった。
このとき、そのための方法はひとつしかなかった。だから、ボクはそのたったひとつの方法をとった。
生きるために。
殺されないために。
そのためにボクは母さんの内臓を食った。母さんの血で渇きを癒やし、母さんの肉で栄養を補給し、再び立ちあがった。
そう。一二歳の女の子だったボクはこの日、生きるために母親を食らう獣となったのだ。
逃げた。
ボクは逃げた。
どこへ?
どこでもいい。
『敵』に見つからないところ。
水があり、食べ物があり、生きていけるところ。そこを目指して逃げ出したのだ。
いったい、どこをどう逃げたのか、さすがにそれは覚えていない。でも、とにかく、殺されずにすんだのだから『敵』に見つかることなく逃げおおせることができたことだけはわかっている。
気がついたとき、ボクは廃墟と化した狭い路地裏に隠れて座り込んでいた。
雪が降っていた。
着ているものはボロボロにすり切れた部屋着一枚。持ち物と言えばたった一冊の日記帳。栄養不足で痩せこけた体を抱きしめ、ただうずくまっていた。
誰にも助けを求めることはできない。
誰にも見つかるわけにはいかない。
駐屯軍に見つかれば殺される。
イシュタ人に見つかれば通報される。
誰にも頼らず、誰にも会わず、ただひとりで、いや、ただ一匹で生き延びなくてはならない。でも――。
戦うための牙も爪ももたない無力な獣には、狩りひとつすることはできなかった。ネズミ一匹捕まえることはできず、食べられるものと言えばその辺に生えている雑草だけ。母の内臓から得たエネルギーはとうの昔に使い果たしている。無力な獣はお腹を空かせてただ、座り込んでいた。
雪が降っている。
雪が体に降りつもり、水がしみ込んでくる。でも、ちっとも寒くない。あまりにも体が冷えすぎて『寒い』とすら感じられなくなっていた。
『お腹が空いた』とも、いつの間にか感じなくなっていた。空っぽになりすぎた胃はもはやすっかりあきらめ、食物を求めて鳴くことすらやめていた。
――もうじき死ぬんだ。
誰に教えてもらわなくても、そのことははっきりとわかった。
『敵』には殺されずにすんだけれど、このままここにうずくまっていれば遠からず、寒さと飢えで死ぬことになる。
――いやだ!
理性ではなく、本能がそう叫んだ。
その思いが火花のように頭のなかに飛び散った。
いやだ、
いやだ、
いやだ!
このまま死んでたまるもんか!
なんのために母さんの内臓を食った?
なんのために、母を食う獣になってまで逃げ延びた?
生きるためだ。
すべては生き延びるためだ。
だったら、生きてやる。どうせ、獣になったこの身なら、とことんまで獣になって生き延びてやる。
なんでもいい。
いま、目の前を通るものがあれば、それに食らいつく。動物だろうが、人間だろうが、関係ない。
それ以外のなんだっていい。残された力のすべてを振りしぼって食らいつき、その身を食らうのだ。そして、生き延びる。なんとしても……。
やがて、足音がした。
目の前に近づいてきた。
ボクはもうなにも考えなくなっていた。ただただ、反射的に足音の
覚えているものは口のなかいっぱいに広がる血の味だけ。
おいしかった。
暖かく、ぬめりとした血が口いっぱいに広がった。血のなかに含まれる滋養がボクの体のなかを駆け巡り、蘇らせた。
そのときになってようやく寒さに身が震えた。
飢えに恐怖を感じた。
失われていた感覚が戻ってきていた。
気がついたとき――。
漆黒の
それが――。
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