本編
瞼に光が当たっている。薄らと開けると白かった。白い部屋。
「目が覚めたみたい」
女の子の声。聞いたことある声だ。視界がぼやけていた。誰かに覗き込まれている。だんだんと焦点が合っていき――。
あっ、望月だ。
望月槐。
刹那、病室での出来事がフラッシュバックした。
「お前っ」
彼女の襟首に掴みかかる。悲鳴なんか上げても構うものか。
「よくもやってくれたな! 俺を切り刻んだっ!?」
「君、落ち着いて!」
眼鏡かけた医者っぽい中東系の若い男が俺を押さえにかかる。抵抗したが、別の誰かから白銀の銃口を突き付けられ俺は動きを止めた。
「蘇った途端これだ」
カウボーイハットを被った奴がくぐもった低い声を発した。そいつはポンチョを纏い奇妙なマスクを被っていた。中央部はオレンジ色のモノアイが光り、脇でピカソの絵じみたサブの眼玉が縦に二つグリグリと動いていた。前衛的ですらある。
驚いてる内に望月が俺の手から離れ、緊張した顔で距離を取られた。改めて周りを窺うと、自分がいるのは病室で、ベッドに寝かされていた。
「古代の地球人は野蛮で困るなぁ?」
「……野蛮? 彼女に言えよ。望月さんに」
彼女を指す俺の指が震える。望月は眉をひそめ小さく首を振った。
「私は、モチヅキじゃない」
「……ええっ?」
「その通り。彼女はモチヅキという名前ではない。最初からこの船の乗員です。貴方が知るはずない。地球出身ではありませんから」
中東系の男が丸眼鏡をくいと直す間に俺は望月を二度見した。言われてみれば確かに、いつも清涼で明るい雰囲気を醸してた望月に対し目の前の彼女はどこか眠たげで、大人しそうな感じだ。体格だって望月より若干ほっそりして、髪型も髪色も、よく見れば瞳の色だって少し違っている。
「別人……?」
「サバタさん、もう良いでしょう銃を仕舞って。彼は恐らくせん妄の症状が出ている」
カウボーイ男がフンと鼻を鳴らすと銀色の拳銃を一回転させホルダーに収納した。俺は小さく息を吐いた。
「じゃあここは一体……」
「医務室です。貴方は今、地球再開拓艦レナータスに乗っている。我々は貴方を、脳だけの状態から復元したんです。映像で確認しますか?」
丸眼鏡をかけた男が銀色の球体を取り出すと、そいつは立体映像を空中に投射する。望月が手術室で取り出した例の装置の内部に、ピンク色の物体がちらりと見えた。脳味噌だ。じゃあ俺のだ。
「あの、いいです見たくない」奥の部屋にある流線形をしたMRIらしき機械にピントを合わせる。
「……では自分の今の顔だけでも」
視界の端で立体映像が揺らぎ鏡に変化していくのに気づいた。
「さあどうぞ。何か違和感は?」
恐る恐る覗くと……いつもの自分だ。少し、いやだいぶほっとした。
「日本語、喋れるんですか?」中東系の男に訊くと、
「いえ。これは自動翻訳です」
てきぱきと男が言う。
「私はレナータスの一等航海士アーデイ・パタール。この船の副船長を務めています。貴方が掴みかかった女性はキシネ・シローヌ・エリスで、彼女はこの船の二等航海士兼通信士」
望月に似た女は口を噤んだまま不安げに腕を組んでいる。頭にデニッシュみたいな層のある帽子を斜め被り、両耳は鸚鵡貝(似の機器)を装着、ぴったりした上着と同化したスカートはイカ耳の形状で広がっていた。ださいとは言わないが変な格好。未来人かよ。いや未来人なのか……?
「で、こちらの彼は――」
「サバタ・ホツアラド」
前衛芸術じみたヘルメットの下からぶっきらぼうな声がした。こいつも未来人っぽい。
「彼は盗掘屋で、プロジェクト遂行の中途で訳あってこの船に乗船してもらいました。なので元々のクルーではありません」
「遺物ハンターと呼んで欲しいね副船長さん」
サバタが数歩歩いた後でくるっと向き直り「いいか古代人」俺を指差した。
「お前を発掘してレナータスへ連れ帰ったのはこの俺なんだ、感謝しろ。せいぜいオリジナルの脳ミソを大事にしな……ところで古代人にも名前というものはあるのか?」
あるに決まってる。
「下小牧マキヤ」
「……さて、マキヤ君。貴方に幾つか質問をしなければ――」
アーデイが言葉を切る。天井からてきぱきとした男の声が流れた。
「俺だ船長だ。異常事態発生、乗組員は速やかにTCRへ集合するように」
「TCR?」
「惑星地球化統制室(テラフォーミング・コントロール・ルーム)のことです」アーデイが淡々と言う中、
「俺には関係ねえこった」ふらっと医務室を出ていくサバタ。。
「……丁度いい。マキヤ君は船長に会って下さい。それで幾つかの疑問は解消するでしょうから」
分かりました、と清潔な厚手のシーツを跳ね除けた俺はワイシャツに黒のパンツという普通の恰好を着せられていた。
「これが、未来のファッション?」
「太陽系が発見されてから地球コーデはトレンドです。さすが地球出身、イケてますよマキヤ君。その腕時計とか」
アーデイに大真面目に解説される。俺は慎重に立ち上がった。見た所自分の体だ。服の上から身体を触る。不自然なところは……ない。
「気持ち悪」
俺は思わずエリスの方を見た。
「えっ……?」
「いえ、何も」
エリスはすっと隣りのカーテンで仕切られたベッドの方に寄った。
(今、気持ち悪いって言われたよな……)
傷心。委縮。
「アーデイ、私はここに残る」
エリスは声量小さめながらハッキリした口調で言った。
「もう一人の方を独りにして、勝手に船内を歩き回られたら困るから……」
「誰かいるの?」
俺の問いにエリスは無言。
代わりにアーデイが答える。
「マキヤ君の脳が入った冷凍保存カプセルを抱え、熊本でコールドスリープしていたアジア人の女性ですよ。心当たりは?」
「熊本?」
「正確には、『日本の熊本県があった場所』です」
訳分からないが、そっちが本当の望月だろうか。いやアイツは『未来には行けない』と言っていた。
「ではエリスさん。船長の話は後で私から伝えます」
「ありがとうアーデイ」
エリスはちらっと俺の方を見て眉をひそめた。間違いなく嫌われてる。最初に飛びかかったからだ。
(何て弁明しよう)
口が迷子でいると「早く」とアーデイに促され、結局俺は無言で医務室を後にした。
二層のクリーム色の薄いドアが左右に分離する。TCRの中は小銀河だった。薄暗い室内、部屋の中央やデスクの傍に積まれた細かな機器たちが小さな白い光を各々発し、それが夜空に輝く星みたいで。そして一際目を引くのが、大きなガラス窓一杯に映る青い惑星。
「地球……」思わず呟く。ということは本当に、俺は宇宙にいるんだ。重力を発生する装置でもあるのか、ふわふわ浮かばないから地上にいる気しかしない。なのに地球はでんと目の前。
「レナータス号へようこそ。歓迎するよ地球人君」
中央のデスクに腰かけていた男が光沢のあるヘルメットを脱いで振り返る。黒髪の利発そうな西欧系の顔立ちの青年がにっと笑顔を作った。
「カインリヒト・ハ・ガウスフォッグだ。出生は亜光速航行中ではっきりしないが、デネブとアルタイルの真ん中辺りと訊いている。俺のことは船長か、もしくはカインと呼んでくれ」
「下小牧マキヤです。よろしくどうも」
握手を交わした後、俺の視線に気づいた船長が艶やかなヘルメットを軽く叩いた。
「こいつはフローギア、ゴーホーム計画には必須のブツだ。説明すると長くなるが、端的に言えば地球とレナータス号との時間のずれを補正し正常にコンタクトを取る為の装置になる」
「時間のずれ……?」
「この船は現在、地球の軌道上を亜光速で巡回している。船内で一日が経過すれば地球上では約七日弱ほど経過する。分かるか、特殊相対性理論。だがフローギアを被っている間は地球に合わせた時間知覚で過ごせる。……ん、失礼」
カインは咳払いするとホログラムモニターの現在時刻に目をやった。
「アーデイ、他の乗務員はどうした? パジャマパーティーでもしてるのか」
「エリスさんはもう片方の生存者の監護を。それ以外の乗員は何をしているのやら」
「どうせゴーシュはエンジンルームで泳いでいて、もう二人は寝坊だ」
カインは椅子の肘掛けを手で叩くと疲れた顔をする。
アーデイが口を聞いた。
「船長。他の者を待つ間、彼から身の上話を聞いたらどうですか。脳だけとなり冷凍保存された経緯について。それと我々の方も船の目的など説明した方が宜しいかと」
「そうするか」
カインは額にかかった黒髪を払うと俺を流し目で見据えた。そっちから説明しろと目が言っている。俺は口籠った。包み隠さず話せば俺がタイムリーパーだとバレる。
「どうした? 言えないことでもあるのか」
「そうじゃなくて、何から話したら良いのか……じゃあ年代から。二〇二六年の夏のことです。俺の家に突然おかしな女の子が住み着いて――」
俺は自分の能力に一切触れず望月のことを説明していった。彼女は時間組織の人間で、遠い未来の時代で発生する大規模なタイムリープの事故を阻止でき得る人間を探していた。それには何か俺が適任だった。もしもタイムリープ事故を回避出来れば俺の家族が死ぬ運命をクローンなりなんなり用意して変更してくれる、と約束してくれた。手術台に固定され俺の脳味噌は摘出された。ちなみに船には裏切り者がいて、何もしなければ船が爆破されることも。巨大タイムリープを止めるにはギヲンを目指せ、と告げられたことも話した。
「……というわけなんです」
話し終える。カインはおもむろに椅子に座り直すなり、両手を椅子の外に投げ出した。
「ふう参った参った。……いやはや。こんな話を、信じろと? 君の作り話じゃないだろうな。キュートな白い小鳥は俺の頭を啄んだか?」
俺がむっとしていると、「ですが船長――」アーデイが口を開く。
「彼はTPOの存在を知っていた」
「それはそうだ」カインが不承不承頷く。
「TPOは本当にあるんですか?」
「そして冷凍保存装置の作成年代は彼のいた時代と一致している。当時の技術であれは作れません。未来人が関わっているのは確かです」
アーデイは俺を無視しロジカルに話を展開していった。
「……とはいえマキヤ君の説明では、彼の様な一般人が何故時間巻き戻り事故の担任者として選ばれたのか全くもって説明がされていない」
「そう言われても俺はただの高校生です」
俺はしらを切った。アーデイの目が丸眼鏡の奥から俺を分析している。カインがパチリと手を鳴らした。
「まあいいだろアーデイ。彼の話は概ね本当ってことにする。だがマキヤ、この船に裏切り者なんて乗ってないから安心してくれ。それに船も爆発なんてしない」
「何か事故が起こって、墜落するとか……」
「レナータスは常に整備が行き届いている」
「じゃあ自爆装置が誤作動、とか」
「そんなものは無い。それとも古代の宇宙船にはあったのか?」
俺の疑いを一笑に付すカイン。俺は意図して深呼吸してみる。室内なのにまるで高原みたいな新鮮な空気。これが未来の空調……って感心してる場合か。
「君の話は十分聞いた。次は俺がレナータス号とクルーの目的について説明しよう。簡単に言えば俺達は地球へ再び降り立つ使命を帯びた……いわば人類の希望だ」
カインの言葉にアーデイが眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「船長。それは誇張しすぎではないでしょうか」
「いや? 我々人類が太陽系を飛び出し、母なる星の座標軸すら忘れてしまうほど長い長い航海を経てこうして帰ってきたんだ。決して大袈裟じゃない」
「具体的に今は何年なんですか?」
俺は我慢出来ず訊いた。カインは手の甲に顎を乗せ、きりりと唇を動かす。
「グレゴリオ暦でいうと、今日は三七一四年七月一日。七月一日というのは航海を円滑に行う為に設定した船内日付けで、あくまで便宜上の物だ。ともかく君のいた時代から千六八八年が経過したことになる」
現実離れした数字に実感が湧かなかった。
「我々の任務は地球の現状を調査し、再びヒトの住める星へテラ・フォーミングすることだ。古代の文献を繋ぎ合わせ総合的に推測すると、地球は徹底的な汚染が為され、地表の人類は滅んだ……とされていた。だから人は太陽系を出たと。地底に二人生き残りがいただけでも奇跡だが、しかし」
カイン船長はアーデイの方を見て言った。
「驚くなよアーデイ。なんと地表にまだ人がいた。彼等は集団で生活している」
「何ですと。機械の故障ではないですか?」アーデイが怪訝な顔をする。
「違う、集落まで形成されてる。全くサバタのヤツめ、何が『熊本の地底深くの人命が唯一の反応。レーダーに狂いはない』だ。ドローンを降下してちょっと調べただけでも日本の九州に――」
「失礼。遅れました!」
TCRに二人の男女が入ってきた。
「リック。マリー。遅い、あと五分は早く来れた筈だろう」
かりかりした口調でカインが尋ねる。リックと呼ばれた肌の黒い痩躯の青年は愛想笑いを浮かべ、申し訳なさそうにクシャッとした髪に触れた。
「すみません船長。急いできたつもりだったんですが……遅れてしまい」
「だってあたし達勤務時間外ですもの」
前髪はややカールしたぱっつん、後髪はもこっと膨れた金髪垂れ目の女の子が眉を下げる。俺とタメか二つ上くらい。外人が年齢以上に大人びて見えるのを念頭に入れると、ここにいる連中はみんな若い。
「ねえ」マリーらしき女の子が少し舌ったらずな声で訊いた。
「異常事態って、何かあったんですか? カイン」
カインはやれやれと息をつくと、ホログラムモニターに手を突っ込みピアノの鍵盤を弾く様に指を動かす。ぬるりと地球を映していた窓ガラスが黒に染まり、やがて緑を映し出した。
生い茂った照葉樹林。椎や樫といった樹々のその向こう、歴史の教科書にあった古代の想像図まんまの集落が嘘みたいに群れていた。
「信じらんないな」俺より早くリックが驚嘆の声をあげる。
「人が普通に生活できるなら、テラフォーミングはどうするんですか? 中止に?」
「まあ待てよこいつを見ろ。ドローンで現地人を追跡させていた最中に遭遇し、録画しておいた映像だ」
モニター画面が切り替わる。藍墨で染めた麻の服を着た猟師らしき三人の少年少女(といっても俺らと同い年くらい)が茂みに身を潜め、向こう岸をじっと見つめている。麻の和服には赤白黒三色の柄が描かれ、少年二人の目元や頬、口元には刺青があった。少し驚いたが、この後俺はもっと驚くことになる。
「彼等の視線の先を拡大」
カメラがズームされていく。
水飛沫を上げる急流の川の傍に、不可解な物体が映り込んでいた。
それは此方に足を向け、ズタボロの服を着ていた。巨漢で、呼吸する度腹が上下に動いた。筋骨隆々の腕、青黒い肌、口から牙が飛び出し頭から二本の角の様なモノが隆起している。そいつはまるで鬼だった。
「なんだと思うアーデイ」
アーデイが冷静な口調で述べた。
「非道な実験で生まれたキメラか、はたまた汚染下で生じた霊長類の奇形か。こんなものがいては移住は難しいでしょう」
「そうだろ?」
ふーう、とカインが吐息を漏らす。
「もし君が『稀少な生物なので保護しましょう』とか言い出したらどうしようかと。やはり汚染はあったのだ。俺達は当初の予定通り日本列島でナノマシンの試験運用を行い地球を『住みやすく』する。問題ないなら地球全域に適用範囲を広げ、ゴーホーム計画を完遂するぞ。異論ないか? よし、じゃあ一時解散」
俺の横でリックとマリーがほっと息を吐いた。
「あと悪いが――」リックとマリーが畏まる。
「誰かゴーシュにも今の話を伝えてくれないか。俺は今忙しい」カインが周りを見回す。
「地上の集落のこと、それと手が空いてからでいいから帰還したナノマシン回収ポッドの確認もして欲しい、と。そうだエリス――」
「それは私から伝えます。彼の話も」
アーデイが俺を見ながら言う。カインが「うん」と頷いた。
乗組員がTCRを出ていき俺と船長だけが残った。
「あの、俺が元の時代に帰る方法はあるんですか?」
「スケジュールでは十日後、燃料補給も兼ねて火星基地へ帰港する。そこでTPOの連中に事情を話して、それで真実と判断されれば元居た時代へ帰れるんじゃないか。それより――」
カインが地球のモニターを指した。
「マキヤ、日本人の君なら彼等が何を話してるか分かるか?」
カメラが鬼から、さっきの藍墨染めの服を着た男女を映す。三人とも険しい顔で時折、鬼の様子を窺いながら言葉を交わしていた。彼等の言語は一見すると日本語のように聞こえたが、いざ聞き取ろうとすると理解が出来ない。
(自分が外国人になって日本語聴いたら、こんな感じだろうか)
首を横に振った。カインは想定内だったようで「だろうな」と一考している。
「……そうだマキヤ、これは君の部屋のカギ」
船長が投げて寄越したのは噛んだ後のガムみたいな銀色の物質だった。どう使うんだ一体。
「部屋は中央区画にある。十日間、船の中を好きに過ごしてくれていいぞ。常識の範囲でな」
柔らかな水銀ガムをポケットに仕舞い込み俺はTCRを後にする。
夕焼け色のライトに照らされたチューブ状の通路を歩いていると遅刻してきた二人が立ち話をしている。二人は此方に気づいて「やあ」と手を挙げた。
「挨拶がまだだった。オレはリックギャン・ワカレンジ。役職は機関士。リックって呼んでくれよ。ヨロシク」
「下小牧マキヤ。えーと地球出身で――」
「ワーオ良い響き。面接ですごい有利になるよ?」
リックの言葉に金髪の女の子が小さく噴き出す。彼女は俺の方を見てふわっと伸び上がる。
「マリーアポロ・テレザ・ピアツナズです。マリーって呼んでね。あたしの役職は三等航海士と、操舵手」
マリーは肩から膝下まで伸びた群青色のマントの端を両指で摘まみ会釈した。士官っぽい服に驢馬の蹄みたいなロングブーツを履いており、クールな女性が着ていれば男装の麗人になりそうものが、彼女だと不思議ちゃんという感じ。
「マリーは青嵐グループ会長の孫で、とんでもないお嬢さんなんだぜ」
「やめてよリックそういうの」マリーは何故だか頬を膨れさせた。
「あたしがいけ好かないボンボンみたいに聞こえるじゃんっ」
「いやあそんなつもりじゃなくてさ。ただ、羨ましいなってだけだよ」
「羨ましくなんかないもの。みんなと変わらないって」
リックは苦笑している。
「『青嵐グループ』っていうのは?」空気を乱して俺はリックに訊いた。
「えーと青嵐グループっていうのは……あー、いざ説明するとなると難しいな。バカでかくさ、有名企業を複数経営してる。最も代表的なのが青嵐製薬。つまりロボテクノロジーと医学を組み合わせた医療ナノマシン技術を確立して太陽系脱出後の人類に多大な貢献をした、知らない人のいない企業だよ。今回のゴーホーム計画に一番出資したのも間違いなく青嵐グループで、テラフォーミングに使用される二垓粒のナノマシンは青嵐製薬の工場で全部製造されてる」
「へえー」
俺達は船内通路の丁字路で立ち止まる。
「どうするマキヤ。もし良かったらオレ達で船の中を案内しようか?」
リックの優男的風貌に違わない親切な申し出を受け、俺は顔を綻ばせた。
「ありがとう凄い助かる。実は今、自分がどこにいるかも分からないんだ」
「安心してマキヤさん」
マリーが指で円を描いた。
「レナータス号ってぇ、こう……外から見ると逆さになったアイスクリームコーンに天使の輪っかが付いてる構造なんだ。逆さコーンの部分は中央区画(セントラル)で、今あたし達がいるのは天使の輪っかのところ」マリーが指で円を描く。
「輪の内訳はA区画、B区画、C区画に分けられて、今いるのはB区画。このまま道なりに歩いてけばグルッと一周します。セントラルとABC区画は三本の通路で行き来が――」
「えへんえへん。あー失礼しまして?」天井からアニメみたいなよく通る声が聞こえてきた。
「そろそろボクの紹介もして欲しいなァ……?」
「あ、そっか。ええとえっと」
マリーがもたもたしてる間にリックが白い歯を見せ親指を天井に向ける。
「こいつはHALE-二二二(にーにーにー)型。通称ハレ。レナータス搭載のマザー。人の御ペーレーションじゃなくて機械が考えてる。つまり――」
「分かるよAIだろ。今話題の……少なくとも俺の年代では、話題だったんだけど……」
昔の人扱いを脱却したい俺は半端な知識を口にしたが、それが失敗だった。
「AI? AIだって? わっわっ失礼な!」
天井の声が大きくなる。
「ボクはAGI(汎用人工知能)ですよ! 人によってはASI(人工超知能)と評価するぐらいボクは世間一般から高い評価を受けていて一世代旧いボクがこの船のマザーとして正式採用されたのも信頼のおけるAGIとして人々から好かれてるからなんです! 僕をただのAIなんかと一緒にしないでくれちゃあヤですね!」
「ハレはちょっと捻くれてて……」
マリーが口元に手を添え言う。確かに面倒な感じだ。
「ハレ、あまり拗ねるなって」リックが天井と俺を交互に見ながら同情の笑みを浮かべている。
「もしあれならハレの日常会話モードはオフに出来る」
「うわーっ何ですと。ボクを除け者扱いする気ですか、ヒドイよヒドイよヒドイ酷い」
「合う合わないがあるんだよハレ」
「二〇〇一年宇宙の旅みたいになっても知らないよっ」
「で、どうやるんだオフは」
リックが俺の胸ポケットを二回叩く。と、ワイシャツのポケットが膨れた。試しに指を突っ込むと冷えた金属に指先が触れる。取り出すとそれは銀色に鈍く光る球体で、ボールが小さく振動するとホログラムの渦が発生した。
リックが金属球を指差し言うには、
「それはレナータス号専用のポータルギア。部屋認証も目覚ましも持ち主の健康チェックに至るまで全部そいつがやってくれる。難しい操作は要らなくて、例えばホロの中に頭突っ込んで、『ハレうるさーい』って想うだけでハレの会話機能をオフに出来る。ホロが思考を読み取るんだ」
「便利だべ」
「はあっ?」
突然訛ったマリーを驚いて見つめるが、マリーもリックもきょとんとしている。未来の自動翻訳も適当だな、と思いつつ俺はホログラムの水色雲に頭を入れた。ブルーライトが視界を覆う。
「ひぃいいい古代人とコンタクトする機会を奪うなんて御無体なっ!」
(ハレの電源、オフ!)
ぷつりとハレの声が途絶えた。少し待っても何も聞こえない。
「……どうなった? ハレの様子」
「……凹んでる。ちょっとかわいそうかも」
マリーの顔が翳っている。再びホログラムの雲に頭を突っ込み(ハレをオン)と想ってみた。すぐさまけたたましい台詞が降ってくる。
「また会えて嬉しいですマキヤ! ボクは地球開拓艦レナータス号に搭載されたマザー『AGI』でHALEシリーズの二二二(にーにーにー)型! 公称は二二二(にーにーにー)なんだけど皆からはハレと――」
「ハレうるさい少し黙って」
マリーがホログラムに声を吹き込むと天の声はまた静かになった。
「気を取り直してレナータス号を案内するか」
リックがステップを踏みB区画の中を後ろ向きで進んでいった。
「こっちの部屋はサーマルガーデンで沐浴が出来る、気持ちいいよ。あっちの角を曲がると天体観測室があって、そっちのドアはシネマに通じてる。五感対応の名作からスクリーンの内側で観る最新作まで全部揃ってる」
「へえ、じゃあスター・ウォーズの映画は何作目まで作られてる?」
「うっわ。他に訊くことないの?」
「マキヤさん、あんまり未来の情報を知り過ぎると元の世界へ帰れなくなるんだよ?」
不穏な情報だ。冗談ならいいけど。
「じゃあ俺、耳を塞いでなきゃ……」
「そこまで気にしなくても平気だよ。せっかく脳味噌から復元されたのに何も楽しまないで帰るつもりかい?」
次にやってきたのは休憩室。ちょっと開けた空間に翡翠色のテーブルとミルク色のソファーが幾つか。バーカウンターにグラスが逆さで吊られている。カシューナッツや立方体のチーズケーキもあって、空港のラウンジって感じだ。
リックが小さなステージを示した。
「そこでエンターテインメントショーを夜やるんだ。まあ生演奏するのはハレだけども、頼めば伝説の歌手や音楽家を完全再現して演奏してくれる。試しに聴いてみ、本物すぎて感動する」
「へえー……すごいなぁ。まさか、プールまであるんじゃないの?」
冗談で言ったつもりが、
「やっほー!」
振り返ると浮き輪を持ったマリーがカラフルなドアから半身を出して手を振ってる。
「あたしちょっと泳いでこうかな。二人はどうする?」
「えっ俺――」
「喜んで!」
リックが手を上げ前に出る。マリーがぽいと浮き輪を手放した。
「冗談でーす」
「なーんだ。ちぇっ」
リックが肩を落とす。ふふふっと笑うマリー。何かふざけてんな。
望月の忠告していた『裏切者がいる』だの『船が爆発される』だの、そういうのは今んとこ無縁だ。
その後C区画、A区画と軽く回った俺は、ランドリーとか理髪室とか憶えとかないと面倒そうな設備だけ何となく把握した。ま、後でもう一度見て回ろ。一つ言えるのは十日じゃ飽きは来ないってこと。
マリーの言ってた通り通路を歩いてただけで医務室前まで戻って来た俺達はチューブ状の通路を歩いて中央区画(セントラル)へ。幾つもドアが並んだ通路を見つけた。
「ここが俺達の住まい。一人一室、ネームプレートがないドアは空き部屋だから好きなの選んで、ポータルギアを翳せば登録される」
胸ポケットを叩くと金属球が膨張する。試しに、野球ボールほどのポータルギアをドアの前で示すと、カインに渡された水銀ガムが勝手に尺取虫みたいにポケットを這い出て腕を伝いギアと融合した。ポータルギアは緑色の光を発しドアもそいつに連動して緑に光ってピッと開錠の音。ドアのネームプレートに明かりが点灯し、俺の名前がアルファベットで浮かび上がる。
「改めてレナータス号へようこそ」リックが会釈した。
「ああ、よろしく」
「なあにリック。マキヤは前からいたじゃない。身体にかんしては、だけど」
「え、それはどういう……?」
「あーつまり、数日前から君の体を実験室で培養してたんだよ。脳だけじゃ歩けないだろ? だから手足とか、そういうの」
自分のバラバラの体が水槽の中に浮かんでるのを想像して俺は気分が悪くなった。
「あの、ハレは生殖もOKって言ってた。だから安心していいと思う。精子とか……問題ないって」ぎこちなくマリーが補足する。
「そっか。俺……ちょっと安心したな。いやそういう意味じゃなく」
自分に言い聞かせる様に言う。
「いやだって千七百年も経ってるんだぜ? 人類は進化してグレイエイリアンみたいになっててもおかしくないから。俺含めみんな、普通の人で良かった」
「いやいやマキヤ、君は西暦二千年の人間だろ? その千七百年前は西暦三百年。三百年頃の人間は猿だった? 教育したら現代人と変わらないはずだよ」
「まあそうかな……でも意外と壁とかドアとか普通だろ? もっと未来っぽいの想像してた」
「例えば?」
「もっと四次元的に、ゆーんて揺らいでるとか……」
「壁とかドアが揺らいでたら困るさ。ただマキヤの『科学技術が思ったほど進んでない』って推測は当たらずも遠からずだよ。ていうのも――」
リックの言葉の途中で目の前の薄い薄紫色のドアがウィンと分かれた。
広い空間、狭い天井。並ぶクリーム色の長テーブルに椅子たち。カチカチと擦れ鳴る食器の類。
「ここは科員食堂でーす」
マリーが手を広げた先に先客が三人ほどいた。アーデイとエリス、そして二人に見守られながら食事を摂っている女の子。俺より二、三歳年上の、背の高そうな美女。濡れ羽色の黒髪が扇状に広がり額に勾玉のペンダントを付けている。彼女は屈託のない無邪気な笑みを浮かべフレンチトーストの欠片を口に含むと、
「ミャハミャハ!」と謎の言語を発した。
「自動翻訳はまだ未対応らしいな」リックが呟く。
「何て言ってるんだろう」とマリー。
「『美味しい』じゃない?」表情と場面的にそう思った。で、その食事中の当人と目が合った。
ほんの数秒間の出来事だった。笑顔の引っ込んだ彼女は勢いよく立ち上がり、黒髪を靡かせながらテーブルを滑り超えた。割れる皿。俺めがけて一直線、謎の美少女は駆け出した。アッ、と思った。
バター脂のついたナイフがひゅっと喉仏の手前で空を切る。危ね。でも次は無理だ。避けられそうにない。
死んだ。
未来視みたく自分の刺される光景が脳に滲んで、そして視界の隅から青い光線が飛んできて、女の子に直撃した。
彼女は声もなくその場に崩れ落ち二度痙攣の後、動かなくなる。青い閃光の出自を辿ると厨房の入り口で片膝をつき銃を構えたサバタに行き着いた。アーデイが振り返り厨房に叫ぶ。
「船内で発砲は――」
「知るか」
厨房のサバタが銃を下ろす。
「いいから縛れよ。急所は外した。死んでねえ……はず」
アーデイは駆け寄ると倒れた少女からナイフを取り上げ、両手を押さえ動けなくした。
「失礼エリスさん第三機関室に紐があったはず! それを――」
「了解」
エリスが食堂を飛び出していく。
「……びびったなァ」「マキヤ怪我は? 大丈夫?」
リックらが心配そうに話しかけてくるが俺は心臓バクバクでまだ生きた心地がしなかった。慌てて喉を擦る。切られた痕はない。奇跡的に。
「……襲われたことに心当たりは?」
険しい顔のアーデイに訊かれ俺は激しく首を横に振る。
アーデイが続けた。
「サバタさんによればこの人は、君の脳が入った保存容器を大事そうに抱え熊本の地底深くでコールドスリープしていたんですよ」
俺はじっと気絶した女の子の顔を見つめた。凝視した上で結論を出す。
「いや……全く知らない。こんな子と会ったことない」
少しして、殺人未遂の女性は厳重にロープで縛られ運ばれていった。中央区画の空き部屋に閉じ込め外からロックするそうだ。リックやマリーに労いの言葉をかけられたが何か言う気力はもう俺に残ってなかった。
ゴーシュに言伝をする為中央区画の真ん中に通る螺旋エレベータで階を下る間、俺は一つの疑問を頭の中で転がしていた。
(もし俺が死んでたら、俺の為に時間は巻き戻ったのか……?)
今まで考えたこともなかった。タイムリープの前兆は空間が破け、決まって柑橘系の匂いがする。さっきそういう予兆は起こらなかった。なんだか咄嗟の危険に対しタイムリープは役に立たない気がした。
(まあタイムリープに頼らなくても俺はここまでやってこれたから、問題ないよな)
「リック。ゴーシュって人は機関室に?」
「ああ」
「今の騒ぎがあっても?」
「夢中になったら何も聞こえないタイプなんだよあの人」
「というか『潜って』そうだよね」
「へえ……? 潜ってる?」
第一機関室のドアが開くとマリーの言葉の意味が解った。無数の黄金色のランプに上から下から照らされた市民プールほどの大きな水槽が部屋の中央に聳え、内部には未来感のある巻き貝状の機械群がずらりと底に沈んでいる。天井を這う軟体の配管はだくだく水を送りこみ水槽内部は緩やかな水流で巡回する中、水底の機械の群れが発する『ヴヴン、ヴヴン』という音が水を通じ室内に一定のリズムを与えていた。
「これが船の、エンジン? 何で水中になんか……」
「冷却と衝撃吸収を兼ねてるんだよ」マリーが教えてくれる。
奇妙な光景を知り尽くそうと更衣室の様な穴ぼこだらけの床を歩いて分厚いガラス水槽に近づいた俺は、水中ゴーグルを付けて遊泳しながら機械を弄る二十歳前後の小麦肌の女性に気づいた。向こうも此方に気づいて手を振ると、水槽を蹴って上昇していく。女性は水槽横に付けられた簡易階段から降りて俺達の前にやってくると突如床に膝をつき「うぇえーっ」と大量の水を吐き始めた。
「だ、大丈夫ですか」
「うん、平気平気。酸素液。げぇーっ」
「酸素液っていうのはつまり液体呼吸さ」リックが親切に教えてくれる。
「水中でも肺に水を入れて息を吸えるヤツ。にしても長く潜り過ぎじゃないの、ごーしゅ」
水を吐き終わった女性は少々苦い顔をして立ち上がった。
「ハレ。ヒートバブルして」
「りょーかいゴーシュ」
ロボットアームが天井から降りてきて、ぷくーっと人一人すっぽり入れる大きな泡を出し、整備士っぽい女性を包み込む。泡内の女の人の衣服や髪がパリパリに乾いていくのを俺は驚きの眼差しで見つめていた。彼女はハワイとか海洋系の顔立ちで、パチンと泡が弾けるなりラフにシャツを腕まくり、ズボンもジャケットもポケットだらけで工具が入っているのか重そうだった。
女の人はミックスアイスじみたカラフルヘアを後ろで束ね、水中ゴーグルをデコまでずらすと俺に握手を求めてきた。
「ワタシはゴーシュ・マンゲルシュタイン。キミは?」ゴーシュの分厚い手袋はまだ微かに湿っている。照れ隠しなのかゴーシュがぺろっと舌を出した。
「あーと。俺、下小牧マキヤって言います。再生されて――」
「へー古風な名前。マキマキね」
「マキマキ……」
「で、キミ何歳」
「冷凍睡眠中の時間を除いて……ですか?」
「当たり前っ」
「じゃあ十六です」
「やっぱそうかぁ見るからに若かったもんね。ワタシは二十一。あーあ、ワタシがこの船で最年長とか、ヤだなぁ。頼れるお姉さん的ポジションじゃないのにナ」
うーんと背伸びしたゴーシュの体からじゃらりと金属の擦れる音がした。
ゴーシュを見ていると視線が合う。
「なーに?」
「いやゴーシュって何となく、西洋系の名前のイメージだったんで。全然、西洋人じゃないですよね?」
「あー、そういう。うちの曾お爺ちゃんぐらいの代から人種みたいな括り無くなっちゃったんだよ。だからルーツどうこうで名前を付ける風習は、うん。でも最近復活させようって声もあってだな。いや、それにしても……」
ゴーシュは意趣返しの様に俺のことを上から下までジロジロ見てきた。
「な、なんですか」
「出来たてだぁ~と思って! 完全にニンゲンだね」
「……出来たて?」
「だってキミ、培養液の中でバラバラだったんだよ? マリーなんか興味津々だったもん、マキマキの体。特に下半身とか……」
「ちょ、そんな!」
マリーが両手で顔を押さえる。自分も顔が赤くなるのを感じた。
「機関長? それ大昔でも立派なセクハラになっちゃいますよ」リックがやんわり言った。
「悪い悪いノンデリ女で。そのワタシに何か用?」
リックから諸々の出来事を訊いたゴーシュは「色々あったんだな」としみじみ呟く。
「じゃ、ワタシはナノマシンの回収ポッドを開けて中身を修理するかあ」
「大変ですね。今までずっと潜ってたのに」
ゴーシュはまじまじと俺を見つめると、
「キミ、良いこと言うねェ」と溜息交じりに呟いた。
「キミの口からも言っといて船長に。『もっと待遇良くしてちょっ』て」
ゴーシュが俺の肩をポーンと叩くと活力の満ちた足取りで第一機関室を出ていった。明るいし綺麗だけどちょっと……苦手だ。
「……えーとそしたらマキヤ。これで乗組員全員と会ったことになんのかな? えーと俺にマリー。船長に、副船長にゴーシュに……?」
「九人。今、この船には九人の人がいるよ」
マリーが断言する。俺は医務室で目が覚めた後に会った人を頭の中で数えてみる。
「……船長のカイン、副船長のアーデイ、機関長のゴーシュ。通信士の」
望月に似た子。
「エリス?」
「そうエリス。それと、さっき助けてくれたサバタ。で、君達。リック、マリー」
二人が頷く。
「それで俺を襲った彼女を『会った』対象に含めたら、うん全員会ってる」
「そりゃ良かった。あ……いや良くないか。はは」
リックは誤魔化すとお腹を擦った。
「いやーなんかお腹減っちゃったな。あのさ、夕飯一緒に食うかい?」
「夕飯? ああ、夕飯ね」
(そうか、船内の照明が夕陽にされてるのはそういう理由か……)
俺がそれを指摘すると、
「俺達は本物の夕焼けってヤツを見たことぁないんだけど、そうらしいね?」
リックとマリーは何も分かって無さそうに笑った。
「で、夕飯どうする?」
「俺は喜んで」
「良いね良いね。マリーは?」
「うーん。あたしさっき結構食べちゃったし。よし、ジム行って運動しよっ!」
マリーが決意を秘めた眼差しで第一機関室を出ていった。
「運動で食事をチャラにする理論はこの時代も生きてるんだな……」
似たようなことをよくしてた母のことを思い出す。当然この時代にはいない。それどころか……いや考えるな。
俺の気分が落ち込んだ。
俺が食堂で彷徨ってる間にリックがステーキ膳を持って歩いてくる。
「それ、どこで出てくる?」
「そこのマシンだよ」
「ははあー……?」
ドラム式洗濯機みたいな機械の前に立つなり、「ご注文をドウゾ」と機械が喋りかけてきた。声はハレだが自我を感じない。声帯だけ一緒の機械、らしい。
「なんでもいけんの?」
「創作料理の再現も可能デス」
「じゃあマグロ丼で。あとおでんの大根、辛子付きの」
「オーダー承りマシタ」
俺は手を擦り合わせた。さすが未来、言っただけで料理が出てくるんだな? そう思ってると「ガピー!」と音を立てマシンが紙を吐き出した。紙には『A2を1袋』とか『D4を3袋』といった具合で謎の数字とアルファベットが書かれていた。
「ご注文の料理のレシピにナリマス。レシピに記載された材料袋を厨房のコックマシンに投入して下サイ。材料が足りない場合は食糧庫から補充願いマス。食糧庫はC区画デス――」
「ビミョーに面倒な」
厨房に行って棚から該当する袋を探した俺は見つけ次第、厨房の似た系統をしたマシンに放り込んだ。フタ閉めスタート。一分もしない内にフタが開くと……中に艶のあるマグロ丼ぶりと良い感じにグズグズした大根が皿に載っていた。辛子付きの。
旨そう! と、伸ばしかけ手が止まった。確か、マグロは絶滅しかけてるとテレビでやってた。この時代にマグロは生きてるのか? それに袋に触った感じは粉物の類でマグロや大根の感触は無かった。じゃあなんだこれ?
疑惑の二品をトレーに載せてリックの正面の席に座ると、俺は恐る恐るマグロを口に入れた。
「わっ不味っ」
慌てて吐いた。なんだこの味。
「いやマキヤ。味はセルフサービスなんだよ」
「……はあ?」
「ほら」とリックがテーブルにあるバーコードリーダーみたいな機器を指差した。
「味覚灯。使用者の思った通りの味に可変できる。やってみ」
半信半疑、俺は機械の電源をつけマグロ丼に照射した。恐る恐る口へ運ぶと……美味い。
「すごいこれ。大発明じゃないか」
「むしろ昔の人は味覚灯無しで食えてたのが驚きだよ。今は味覚灯ありきで作られてるから、素の味は食べられたもんじゃない」
リックは湿気った顔でTボーンステーキの骨をしゃぶっている。俺は唾を飲み込んだ。
「一つ訊いていいか? その牛骨とか、丼に載ってるマグロとか全部本物? つまり……生きてた牛やマグロの肉かって話」
リックは数秒口ごもると、「そりゃそうだよ」と首を傾げた。
「全部食用の生き物だよ」
「本当は培養肉とか……」
「違うって。ちゃんと生物として生まれ育って、自らの意思で食肉場で加工された動物のもの」
「そうだよな。えっ、自ら……?」
リックは優しそうな目をきょとんとさせる。
「ああ。食用の生物は肥えて死ぬのが幸せな様に改良されてる。だからその時が来ると望んで肉になる」
「あーそうなんだ」
「あ、もしかして死にたくない動物を無理やり殺した肉じゃないと嫌なタイプか?」
「そーゆーわけじゃ……」
草食系の雰囲気を醸す黒人青年は肩を竦めた。
「気にすんなよ、そういう主義の人も少なくないし。オレ? オレは美味ければ良いってのが本音。どっちにしろ殺して食べるのは同じさ」
俺は曖昧に頷いて首筋を掻くと、それから黙々と未来のマグロ丼に相対した。
リックは話が面白かった。季節や気候を船内で自由に顕せる照明・空調設備や宇宙花粉症の謎について聞いてる内、俺は飯を平らげていた。俺も自分がこの船に来るまでの経緯、望月のこととかを話すと彼は感じ良く聞いてくれて、気持ち良くなった。
「ちょっとトイレ」リックが席を外す。独りになり、何とはなしに周りを見回す。気づくと食堂は静寂に包まれていた。
さあこれからどうする。船長によれば十日後に火星へ帰港するから、そこで俺は現代に帰してもらえるらしい。でも俺を脳ミソにした望月は『タイムリープ事故で時間が巻き戻る』と確かに言っていた。それを阻止するべく俺は送り込まれたんだ。
不意にエレベーター内の父母と兄貴の亡骸がフラッシュバックし心がどうしようもなく塞ぎ込む。
(大丈夫大丈夫。取引したんだ。望月との約束さえ守れば大丈夫なんだ)
俺は深々と息を吐くと、それから望月との約束を口で唱えてみた。
「俺はタイムリープを終わらせる必要がある……。俺はギヲンを目指さなきゃいけなくて……でも船に裏切者がいて、そいつを何とかしないと船が爆破されて……」
自分で言ってて理解が出来てない。それに望月槐。あいつのこと、本当に信じていいのか? よく似たエリスの顔が脳裏にちらつく。
「でもお母さんとお父さん、あと兄貴を救う為だろ……」
手を拭きながらふらっと戻ってくるリックに俺は訊ねた。
「ギヲンて知ってる?」
何のことかさっぱり、という面のリック。
「いや実は俺を望月が『ギヲンを目指せ』って――」
「悪いけど分かんないな」
リックが急に声をひそめる。
「なあなあ。君のいたのって二十一世紀なんだろ? 二十二世紀前後の三百年間は『暗黒時代』の扱いなんだよ」
「え、そうなんだ? 意外っていうか――」
「で、で、どんな感じだった? もっと詳しく教えてくれよ」前のめりに詰められ俺は少し引いた。
「どんな……って言われても。普通に都市とか国があって。というか暗黒って……黒歴史ってこと?」
「いや、そうじゃない。まあそういう意味も含んでるだろうけど、とにかく記録が少ない。闇の組織に隠蔽されてんじゃないかって陰謀論まである」
そこまで言われるとちょっと興味が湧いた。暗黒の時代……に生きてた人間として。
「普通に生きてたよ俺は。まあ、二〇二五年までは。記録が少ないって例えば?」
「いわゆる『禁忌群』が原因で人類は太陽系を脱出した。ところがその詳細を記した文献が紛失してるんだ。そのせいで俺達が母なる星を飛び出すことになった明確な経緯は長年議論になってたんだ。ところが――」
リックは白い歯を見せ困った様な笑顔を作る。
「太陽系が発見されるやいなや、ゼペラ恒星系人、ピトンガ銀河団、ジャコーベルト漂流民、どこの勢力も『地球に帰るぞ』ってお祭り騒ぎ。母星を捨てた理由なんか誰も気にしない」
「禁忌群ってのは?」
「あーと」
リックは指折り、
「『不老不死』、『時間改変技術』にー……それと『超能力』」
飲んでた水を咽た。
「げほっげほっ」
「おい大丈夫か?」
「へ、平気。ちょっと変なとこに入った」
俺が収まるまでリックは癖っ毛の髪を撫でている。それから今度は淡々と奇怪なキーワードを並べ立てるのだ。
「死なない兵隊。第二次魔女狩り。推定十四億の人が消えた無色透明の大虐殺。そういう複合的要因が混ざり合って人々は太陽系を捨てた……みたいなのが定説さ。かつては倍々で発展していた文明も緩やかな成長の方が望ましいと世界的に見直された。だから君のさっき言ってた『ここは思ったほど未来じゃない』って感想、結構的を射てると思うよ」
「人類が計画的に成長しようと思えるなんて。良かった、人の未来は明るいな」
「母星を捨てたんだ。そりゃ人類だって反省するって」
リックは左右の手の間で水のコップをパスしあう。
「ともかくさ、ヒトが太陽系を捨てた原因を探るのに一番近い場所は『TCR』だよな。なんせナマの地球をドローンで見て回れるんだぜ」
「TCR……」
俺は心の片隅に三文字のアルファベットをメモした。
与えられた自室にいても何も起こりそうになかった。壁に貼られた空虚なモニターから視線を外し、部屋を出てみる。
地球開拓船は夜仕様の落ち着いた色合いに変わっていた。天井は透き通り星々は光を零し、辺り一面夏の夜の匂いがした。
船内で野外を歩く奇妙な感覚に飲まれながら中央区画を漠然と見て回って、螺旋エスカレータで半地下になったフロアで降りると、比較的立派な乳白色のドアを発見した。なんだろうと近づくとハレの声が降ってくる。
「そこは操舵室(コックピット)です。船長か副船長の許可が下りない限りあなたは入室出来ませんヨ」
「カインは中に? ちょっと、話そうかな」
裏切り者について探っておきたい。ところが、
「さあねー。レナータス号は現在オート航行ちゅ~」
ハレの投げ槍な回答に俺は天井を見上げた。
「……君、この船のマザーだろ? 船長がどこにいるかくらい把握してないのか」
意図せず少々の不信感情が声色に出てしまう。それをハレは敏感に読み取ったらしく、
「あのね、皆様大好きハレちゃんは全知全能じゃないんです。デジタルを通した情報から複合的に判断するしかないの。この感覚、生身の人間には理解し難いと思いますケド……!」
「ふーん、じゃあもう帰って良いよ」
「うわ、そういう態度をマザーに取っちゃうんですね。やっぱりマキヤは二〇〇一年宇宙の旅を観たことないんだ? スタンリー・キューブリック様監督作品の」
「見たけど序盤と終盤で二度寝してよく覚えてない」
「だったら観てるはずです。AIのハルが反乱を起こすシーンは中盤辺りですから」
「ごめん本当は三度寝してた。クラシックが眠くって」
「はあ~、だからそんな態度取れるんです! ちぇっ。いいですよいいですよー、べーっ」
(こいつ舌もないくせに)
不貞腐れたハレの気配が遠ざかる中、操舵室の裏手から人の話し声が聴こえた。誰かいるらしい。俺の足が声のする方へ向いた。
「通信室……?」
壁やデスクと一体化した密々しい機械群でその部屋は成立していた。細かな計器から絶え間なく吐かれるホログラム粒子が室内を薄霧の様に漂う中、部屋の中央にエリスがいる。背を向けたエリスは機材の前で半立ち誰かと話していた。
「はい。そうですか、いないんですね。……了解。引き続き探査します」
エリスが手を翳すと右耳についた貝型の機器から赤黒白のケーブルが抜けて通信機に引っ込んだ。溜息をつく彼女の後背に聞こえるよう俺が咳払いする。彼女は速い動作で振り返り俺を認めると分かりやすく眉間に皺を寄せた。
「盗み聞き……」
「違う今来たとこだよ」慌てて弁明した。
「ここ通信室? 誰と何の話だったんだ?」
「……定時連絡、しただけ。火星の前哨基地と」
必要最小言語で会話を済ませエリスが横をすり抜ける。俺は彼女を追いかけた。
「待ってよ、さっきはごめん。医務室で掴みかかったりして」
エリスと並走して歩く。表情を曇らせたままエリスに訊かれた。
「なんだっけ。誰かと私が似てた……?」
「そうなんだ。俺を脳だけにして容器に詰めた望月っていう最低な女と、あまりにクリソツで」
「さっきアーデイから聞いた」
「そうか。あ、最低っていうのは見た目以外の話で……」
くそ、また俺失言してる。
「もしかして彼女の、遠い子孫とか……」
「他人の空似」エリスは冷たく言った。
「仮に遺伝子が僅かでも含まれていたとして、千七百年先の人間に形質が色濃く出たりしない」
教室で清涼な笑顔を振り撒いていた望月槐と不機嫌を露わにするエリスとのギャップに俺の認知が混乱する。
「これからどこへ?」
「TCR(惑星地球化統制室)。今の地球がどうなってるか見たい」
「俺も一緒に行っていいか?」
「どうぞ」エリスは素っ気なく言った。
TCRへ入るとカイン船長がヘルメットを取りデスクに置いた。疲れた顔をしていた。眉間をセルフマッサージしているカインにエリスが訊いた。
「地球の様子は? 人々はどう暮らしてる?」
「ああ、さっきから狩猟採集民らしき若者三人に視点を合わせてるんだが、翻訳も済んで色々分かってきた。君らもフローギアを付けて現地視察するといい」
エリスは慣れた仕草でギアを被る。俺も見様見真似で近くの席に座り、ヘルメットを装着した。『視点を合わせてください』という字が表示され、遠く地平線の先に気球が見えた。
朱い気球を見つめていると、眩い光が網膜を貫き思わず目を瞑る。光は脳まで到達し、ふっと視界が開けた。
気づくと俺は深い森にいた。黄昏の照葉樹林。高い樹々。どこかでカラスがかぁと鳴いた。日暮れ時だが辺りは不思議と明るく感じられた。というのも、向こうで村が燃えている。幾筋もの白煙が空に舞い上がり、周囲の木々を赤く照らしていた。俺の近くには半透明のエリスがいて、まるで幽霊みたいだ。もしやと思って自分の体を見ると俺も彼女と同じだった。エリスはすたすたと村へ近づいていく。俺も後へ続いた。程なくして茂みに身を隠す、矢筒と弓を背負った藍墨染めの麻服の男女三人を見つけた。さっきいた連中だ。エリスは臆することなく彼等へ向かっていく。
「おい、見つからないか?」声を潜めて訊くが、
「現地民に私達の姿は視えないし声も聞こえない。本当は私達が船内にいるの、忘れたの……?」
エリスに呆れられた。「そうだけどさ」頭では分かっていた。それでもリアルの感覚で俺は今、確かに椎と樫の群生林にいるのだ。陽の翳る黄昏の森の澄んだ匂いに混じって物の焼けた臭気すら感じ取れた。
恐る恐る猟師っぽい三人に近寄っていくと、彼等の言語は前回と違い、俺の馴染み深い日本語に訳されていた。
「くそっ。僕らのせいだ。日和ってオニを仕留められなんだ。そのせいでツナ村が……」
黒髪が靡いて固まった髪型の青年が地面の土を握り潰す。目元には波っぽい刺青が入って口の片側にも縦に二本の刺青。極道とは違う、海洋系のそれだ。
「ミカセオ。後悔したって仕方ないわ」
アイヌチックな文様の施された鉢巻きをきつく締めた少女が、地面に膝をつく青年を慰める。
「ま、オニ一体で滅ぶなら遅かれ早かれ同じ運命さ」
もう一人の飄々した風貌の青年が無表情で呟く。彼にも刺青があった。
「……兄さん、わたし囮になるわ」
鉢巻きをした女の子が立ち上がる。
「おいテンネ待てよ」
「合図したら兄さんとミカセオは逃げ遅れた人がいないか村を見てって」
言うが早いか、少女は身を屈め森の中を駆けていく。青年が二人その場に残された。
「……オニっていうのは例の、二足歩行の?」エリスが俺に訊いてくる。
「多分ね。ていうか君だって声のボリューム落としてるじゃん」
エリスがムッとした。その時、村の方から「タスケテ、タスケテ」と女性のか細い声がする。ミカセオと呼ばれた十四、五歳くらいの少年が立ち上がろうとするが、もう一人に腕を掴まれた。
「離せカダヒコ」
「落ち着くんだミカセオ。罠だ分からんか。あいつらが生き残りを呼び寄せて、食う為の」
俺は耳を澄ませた。「タスケテ、タスケテ」の声が二度、三度と聴こえたが、それは録音された音声の様に、同じトーンで繰り返されているのに気づき俺は背筋が寒くなった。
「あーもしもし聞こえるか。俺だ」
上方から船長の声がした。
「彼等はヤバイというクニの民のようだ」
「ヤバい?」
「『ヤバイ』だ。若者三人衆はヤバイの祭祀の生贄に使う獣を追って照葉樹の森を南進する内、この辺りまで来ている。オニの正体はよく分からんが、人の声を真似る程度の知性はある。現地人からは畏怖の対象として扱われている様子だ」
カインの説明と入れ替わりミカセオらが話し始める。
「この辺りまでオニが来るなんて近頃は無かった」
「先日アソの方角で旅人が見たという『虹の波』と何か関係があると思うか?」
「どうだろう……」
じっと考え込むミカセオ。沈黙が流れた後、「お前知ってるか?」と気分転換するようにカダヒコは言った。
「以前行商人から聞いたんだがな、なんでも遥か東方に『オニから襲われないクニ』があるんだと。羨ましいもんだ」
「ほう、そんな理想郷があるなら行ってみたいなっ。その場所はなんと言うのだ……?」
「確か……『ギヲン』。ギヲンと言っていた」
「ギヲン!?」
エリスだけが『なにさ』という顔で俺を見てくる。
「いや、ギヲンって言葉は俺を脳味噌だけにして未来へ送り込んだ女子も言ってたんだよ。『ギヲンへ向かえ』って」
エリスが口を開くより早く、村の反対側の切り立った崖の上から笛の音が聴こえた。ピィーヒョロロロ……と澄んだ音色が夕方の風に溶け合い、赤く照った村を駈け、深い照葉樹の森一帯へ浸透していった。すると村から大きな影が何体も荒い息をして飛び出し、狂った様に反対側の森の中へ消えていく。二人は目配せし襲われた村へ入っていった。
「俺達も行こう」
村の外縁には幾つか犬小屋があったが、中は空っぽか小屋自体が拉げて潰れていた。木の柵で囲われた村の内部は高床倉庫が焼け燻っている。割れた土器からクルミやらドングリが道端に散乱している。兎と雉が皮を剥がれて木の台の上で干されていたが何者かに味見されていた。村の誰かが斬り落としたらしいオニの腕は、ズルズルと単独で地を這い自身の体を探している。傍にあった藁葺きの竪穴住居をエリスと共に覗いたが、酷く損傷した親子らしき数体の遺体が見えて中に入らなかった。
「まるで人を弄ぶみたいに……」エリスが言葉を詰まらせていたが俺の方も動悸がした。エレベーター内で死んだ両親と兄貴のことが想起されてしまい呼吸が浅くなる。大丈夫、落ち着け落ち着け。いっそフローギアを外そうかとも思ったが、船にいる現実へ戻ったところで気分が良くなる気はしなかった。
「カダヒコッ」
村の奥からミカセオの声がした。弓矢を構えたカダヒコが慎重に声の方へ向かう。俺達も後を続いた。中心部へ近づくにつれ、死体を引き摺ったらしい赤黒い跡が目を引いた。
村の中心部は開けた広場になっていた。そこにはうず高く積み上げられた、人間の塔があった。頭の潰れた女、腹を引き裂かれた男、老若男女関係なく折り重なって積まれていた。吐き気がしたが、ズルズルと重たいものを引き摺る音がして俺は思わず呼吸を止める。ミカセオとカダヒコはいち早く音に気づき櫓の木の柱の陰に身を寄せ、近づく者に備え弓の弦を引き絞っている。俺は唾を飲み込んだ。住居の裏から恐ろしい化け物が出てくる、そう思っていた。
姿を見せたのは女の子だった。それも、はっと息を飲む様な美少女。均整の取れた、作り物の様な身体に、無垢であどけない顔立ち。だが麻服はボロボロで全身血で汚れ、足首に巻かれた鉄の鎖は広場の中央の太い杭と繋がれていた。女の子は儚げな肢体に見合わない腕力で屍を引っ張ると、乱雑にそれを死体の山へ積み上げた。この屍の塔は少女の手で作られていた。
「動くな」
弓を構えたままカダヒコが姿を現すが、少女は振り返ると小さく口を開け首を傾げた。左右で若干色の違う瞳には何の表情も浮かんでいなかった。
「女、お前口利けるか?」
カダヒコの問いかけに少女は言葉未満の声を発すると小さく肩を震わせた。
「この辺じゃ見ない顔だな……?」
「オニに捕まってるんだ。助けねば」
「ミカセオ待てっ。そいつは多分――」
カダヒコの言葉を待たずミカセオは少女の足元へ近寄るなり脇差しの青銅短剣を引き抜いて鎖に叩きつけた。鎖は思いの外固いらしく剣身を幾度も弾いたが、ミカセオは懲りずに叩き続けている。
「見て」エリスの指す先で森の木々が揺れている。揺れは真っすぐ村へ接近していた。オニが、自然音でない人の発する音に気付き、Uターンしたのだと分かる。
「ミカセオ急げ」
「分かってる!」
村にオニが入ってきた。遠目でも解る。奴等は異形としか形容しようのない姿をしていた。不意に小高い丘から矢が飛んできて、オニの一体を貫いた。木陰からテンネが弓矢を射かけていた。だが、奴等は怯む様子もない。
バチッと鎖が砕け散ったのを見届けカダヒコとミカセオが走り出した。が、肝心の少女がその場に留まっている。
「忘れてるぞっ」俺の声は届かない筈だが幸いにもミカセオは振り返り、少女が未だ棒立ちなことに気づいた。
「疾く! 遠くへ!」
言われても少女は円らな瞳で少年を見返している。ミカセオは引き返し少女の手を握ると風の様に走った。三人の姿が森の中へ消えていくのを見届け安堵する俺とエリスだが、程なくして村を占拠する魑魅魍魎の姿を目の当たりにし、ジリジリと後ずさった。
『オニ』は毛むくじゃらであったり一つ眼であったりした。角の長さや本数も微妙に違っていた。手がたくさん生えたオニもいれば足の多いオニもいた。ずんぐりむっくり、ひょろっと縦長、四足歩行、牛頭のオニ、鱗に覆われたオニ。姿形は多様だが、共通して獣特有の強烈な臭気を発し、涎をだらだら垂らしては逃げた人間の匂いを舐める様に吸っている。胸や頭を射抜かれたオニもいたが、矢傷は俺が視てる間にも緩やかに塞がっていた。
そして何体かのオニが少女の集めた屍の山に集まり出した。これから何が始まるか嫌でも想像する。エリスは青い顔をして首元を触り、無色透明のヘルメットを外した。彼女の身体にノイズが走り、フッと霧散する。真似して首元を擦りフローギアを脱ぐと意識の剥がれる感触がした。
気づくと俺は水中から顔を出した時みたくハアハアとTCRで荒い呼吸をしていた。何だか、眩暈がする。
「どうだったフローギアは」
振り向くとカインが含み笑いを浮かべていた。
「疲れた顔だな。体は亜光速航行中のレナータスにいながら地表での時間知覚へ合わせるんで脳が処理に手こずるんだ。適度に休みを入れないと時間酔いするぞ?」
空席を三つ挟んでエリスが静かに深呼吸している。先に言え、と俺は思った。もう気持ち悪くなってきた。
ハレに注文してから十分もしないでドーナツと飲み物を載せた全自動カートがTCR(惑星地球化統制室)に飛び込んでくる。
「ジャンクダルヌ、今日は途中で引っ掛からなかったね」
チョコドーナツに味覚灯を当てながらエリスが言う。
「ジャンクダルヌ? こいつ?」
「そう、マリーが命名した。赤いテーブルクロスを靡かせて疾走しながら通路の角に引っかかっている姿を見てぱっと浮かんだって」
「ふーん。でもどうせなら、ホントにロボット女騎士が給仕してくれれば良いのに」
エリスに一瞬白い目で見られた気がする。
砂糖漬けのドーナツが脳をほぐした。コーヒーは熱々な上に苦すぎて、ミルクを注いでマイルドになった箇所を啜って丁度良かった。
「ねえ、彼等はどうなったかな」
皿を片付けたエリスがそわそわとフローギアを指で叩く。
俺達は休憩を終わらせ、オニが跋扈する世界へ戻ることにした。
フローギアを被る。今度はカインも被っている。
「エリス、あまり現地人に感情移入するなよ」カインが釘を刺す。
「俺達の任務はあくまで地球の調査と環境の改善だ。現地人の生活を確認するのは良いが、それ以上の介入は任務から外れる」
「ええ」
二人の会話を聞きながら、俺は望月の言葉を思い返した。
「マキくんはギヲンを目指すんです。そこに全ての元凶が――」
まだ裏切者とか人死にが起こってない以上、とりあえずギヲンを探せば良い筈だ。俺の両親、ついでに兄貴の運命を変えるには、望月との約束を果たせばいい。簡単だろ俺?
橙色の気球。光が、瞳の奥を貫いていった。
「うわっ、もう真っ暗」
視界が開けると九州北部の森は闇一色で、天蓋の星空が一層輝いて見えた。
「エリス、休憩は二十分くらいだったよね?」
「地球では約七倍の時間が経過してる。レナータスは、亜光速で飛んでるから」
「あー、そんな話をさっき。えーと亜光速で飛んでる理由は……?」
横で透けていたカイン船長が口を開いた。
「忘れがちだが俺達の主任務はテラフォーミング用ナノマシンの管理運用だ。あと一時間もすれば熊本に降下させた二垓個のナノマシンが日本列島を走り抜ける。日本だけなら大して時間はかからないが、地球全体をくまなくクリーニングするとなるとより長い時間を要する。そこでレナータス号を亜光速で回す。すると地球でナノマシンが仕事する速度は亜光速船の俺達から見れば七倍速くなる。つまりだ、亜光速航行にはナノマシンの管理運用日数を実質短縮する意味合いがあるというわけだ。フローギアを被ってる間は通常速度で管理も出来る。もう一度説明しようか?」
「いや大丈夫……」
ただでさえ相対性理論は感覚で分かりにくいのに、フローギアで意識は地球にいるから余計頭が混乱する。と、森の中で物音がした。人の話し声が近づいてくる。ミカセオ、カダヒコ、それと例の浮世離れした屍運びの少女の三人だ。
「ほら、道を下った先に篝火が見えるだろ。あそこまで行けば安全だ」
「ああう」
「ミカセオ。そいつ名は?」
カダヒコに訊かれ、ミカセオは少女の横顔を見た。
「さあ。喋れんし、答えん」
「じゃあお前が付けてやれ。名が無きゃあ色々不便だろう」
カダヒコの注文にミカセオは一拍黙る。
「……ツナコ。ツナコって名はどうだろう」
「ツナコ?」
「ああ。ツナ村で見つけたからツナコだ」
ツナコと名付けられた少女は肯定とも否定とも取れる声を発した。
「……まあ良いんじゃないか」
「なんだよカダヒコ。僕のセンスは悪いか?」
「んなこと言ってない。良い名だよ」
三人が山道を下り、両脇に篝火の焚かれた大きな木の門へ歩いていく。半透明の俺達も彼等の後をついていった。ヤバイのクニは太く高い木の柵でぐるっと囲われており、内側にはたくさんの犬小屋があって、飼われている犬は門へ近づくミカセオらを察知すると一斉に吠え立てた。わらわらと矛や剣を構えた男達が現れるが、その中から少し小柄な人影が飛び出してくる。
「兄さん、ミカセオ!」
「テンネ。無事だったか」
カダヒコが安堵の声をあげる。帰って来たのがヤバイの民と分かり、大人達が武器を下ろして近づいてくる。
「カダヒコにミカセオ。テンネから聞いたぞ、ツナ村がオニに襲われたと」
「そうなんだ」
「ん。おい、その子は何だ」
一人の大人がツナコを指差す。皆の視線に晒されてツナコが心許なさそうにミカセオの後ろに隠れた。
「そいつをよく見せろ」
兵士の一人が近づいて掲げた松明でツナコを照らした。よく見るとツナコの肌には薄らとだが継ぎ目が走っていた。あちらこちらに……縫合痕、か?
半透明の俺達にはピンと来なかったが、兵士達の血相を変えるには十分なものらしく、
「うおっ。この女子(おなご)、造者(つくもの)かっ」
「造者だ」「悍ましや」
兵士達がざわついた。
「継ぎ目の癒着具合から造られて一月くれえか」
「そこの二人、なんてことしてくれたのだ! こんな、こんなもの連れてきおって……!」
「今この場で焼こうぞ」
「やれ! やってしまえ!」
大人達が武器を構え色めき立つ中、ミカセオは怯えるツナコに寄り添いながら眼を丸くしている。
「カダヒコ、造者とは一体……?」
「オニが奴隷欲しさにヒトの屍の良い所を継ぎ合わせて造った、魂の無い器と俺は聞いている……」
カダヒコが兵士達に向かって訴える。
「しかし! 百日間何人とも交わらねば造者とて立派なヒトになれるとも聞いた。何故そこまで目の敵にするのです!?」
「ええい黙れ、知った風な口を」
「造者は死者への冒涜ぞ。古来より災いの元である!」
兵士らはカダヒコそっちのけで会話を始めた。
「つっても、このまま殺していいと思うかハカリ? もし、我らに穢れが移ったらたまらんぞ」
「そんじゃ祓いが必要か」
「やはり我々の手に余る。大王様に委ねよう」
「大王様に頼もう」
「賛成」「俺もそう思っていた」
ミカセオ、カダヒコ、ツナコの三人は兵士達にどつかれながらヤバイの中へと連行されていった。
「私達も行きましょう」
「まあここまで来たらな……」
追っていくとミカセオ、ツナコの二人は地下の穴蔵に幽閉された。見張りの兵士をすり抜け、俺達は木の柵で区切られた手狭な穴の中を見物していると、カダヒコの方へついてったエリスが戻ってくる。
「どうだ?」
「カダヒコ君は特には。ついでに集落をぐるっと見てきた。民が一箇所に集まっていて、何か儀式を始めるみたい。それと――」
エリスが難しい顔で腕を組む。
「見て分かるだろうけどだいぶ、いえかなり文明が衰退してた」
カインが肩を竦める。
「そうだろう。暗黒時代の傷痕はそれだけ根深かったということだ」
「それは……そうなんだけど」
歯切れの悪いエリス。
「気になることでも?」
エリスは言うか言うまいか悩んでる感じだ。
「……何だかここの暮らしは絵に描いたような狩猟採集。稲作もしているようだけど、稲を田んぼにただ撒いてるだけ。本当に、時代が逆戻りしたみたい」
「それがどうしたの」と俺。
「いくらなんでも、こんなことになるかな? 私の見立てだと彼等、あるいは彼等の先祖は得た科学の知識や技術を意図的に破棄してる」
「科学を捨てたって?」
カインの問いにエリスは頷く。カインは最初呆れ笑いだったが、途中から真面目な顔で唸っている。
「ふむ……まあ、考えられないこともないな。禁忌群はそれだけ被害を与えたんだ。地球に残された人類が科学自体を毛嫌いしてこうなった、か」
カインは土壁にもたれ足を交差させた。
「そういえば俺も気になったことがある。地底で見つけた例の、身分が高そうな女性。ほら、マキヤを刺そうとした例の女。あれはしっかりコールドスリープしていた。見つかった空間からして最先端の科学技術を用いてあった。なのに地表はこの有様。何故にここまで乖離してるのか」
「本人に訊けば良い」エリスが淡泊に言う。
話題が途切れ三人とも無言。穴蔵の中には体操座りのミカセオの静かな息遣いと、落ち着きのないツナコがペタペタ土壁を触ったり木柵を叩いたり、淋しそうに唸る声ばかり聴こえている。
不意に穴蔵の中へ松明を持った何者かが入ってきた。ミカセオが身構える。
「無事かぁミカセオ」
「カダヒコ、は……捕まらなかったのか」
「まあな。親父のコネだ。役に立つだろ」そう言ってカダヒコは唇を歪ませた。
「カダヒコ、お前は僕を……笑いにきたのか?」
白け面のミカセオにカダヒコは真面目な顔をする。
「安心しろよ、ミカセオお前は助かる。ちゃんと大王様の指示に従えば……だぞ」
「どういうことだ?」
「よく聞け。大王様は『神がお怒りだ』と宣った。こんな状態では祭は始められないんだと。神の怒りを鎮めるには、造者の血を祭壇に捧げろというんだ。その役目にミカセオ、お前が選ばれた」
「……なにが――」
「つまりお前がツナコを殺せばお前だけは助かる。だが従わなければお前もツナコも……。ともかく、そういうことになった。じきにお前達を兵士が祭壇まで連れ出す」
「冗談じゃない」
ミカセオは怒りを瞳に滾らせ牢の中で立ち上がった。
「ツナコを、助けたのは人前で殺す為じゃないぞ! 何がオニだ人間こそ……。僕は、やらん!」
「落ち着けよな。考えてみろ、あれはオニでも無ければヒトでもない。ただの道具だ。人形だ」
「だとしても、これからヒトとなる命だ」
「ミカセオ、さては……お前造者に惚れたな?」
「そうではない! カダヒコも言ったでないか、『造者でも百日経てば人になる』と。腹の中の赤子と何が違う」
「造者は見目が良いからよく山賊辺りに拉致されて犯される。すると造者は溶けて水になるそうだ。人間がそんな風になるか? ならんだろ。ツナコは、ヒトと根本から別物なんだよ!」
「ツナ……コ」隣りの土牢でツナコが反応する。カダヒコが小さく息を吐いた。
「とにかくミカセオ。バカな真似はよせよ。ツナコは残念だが諦めろ」
カダヒコが穴蔵を出ていった後、ミカセオは力なくその場に座り込んだ。その様子を見ていたエリスがぼそっと口を開く。
「……カイン。私達でツナコを助けてあげられ――」
「干渉はしない。と、言ったはずだ」
カインの言葉がずんとのしかかる。エリスが食い下がった。
「でも地底でコールドスリープしていた二人は救助した……!」
「あれは特例だった。あの時点で地球の生存者は二人だけと考えられていた。だが地表でこうして人々が暮らし、種の存続が危ぶまれてるワケでもない。俺達が介入する必要はないんじゃないか?」
エリスはぶすっとして口を噤んでいる。俺は手を挙げた。
「あの、純粋な疑問なんだけどさ、俺がここの人達と会話することは可能ですか? ギヲンがどこにあるか聞いときたくて」
「今はそれどころじゃない。たかが占いの結果で人の命が奪われようとしているの……!」
エリスから非難の眼差しを浴びせられ俺は口を噤んだ。カインが小さく咳払いする。
「可能といえば可能だが、この文明レベルだと現地のドローンを通じて話しかけたところでコミュニケーションが上手くいくとは到底思えないな」
俺が居心地を悪くしていると、兵士がやってきて乱暴にツナコとミカセオを連れて行った。
俺達は後をつけた。煌々と篝火の焚かれた巨大集落の中は異様な静けさに包まれている。どんどん奥へ進んでいくと、やがて朱の漆塗りの巨木で組まれた巨大な神殿が俺達の前に現れた。神殿は赤黒白三色の奇怪な文様が施された垂れ幕で正面を覆われている。神殿の周囲には大勢の麻服姿の民衆が集まり、みな真剣な顔をしていた。
神殿と人々の醸す気配に圧されている間に俺達はミカセオとツナコを見失っていた。その間も儀式の準備が進んでいく。
場がふっと静かになった。何か、始まるようだ。
「二人は大丈夫かな」
「大丈夫なわけない」エリスに睨まれた。
「そんな辛辣に当たらなくても良いじゃないか」
「喧嘩するな二人とも」カインが苛ついている。神殿の前はちょっとした広場になっており、中央に大きな平たい岩があった。元からあったのだろう、紙垂で囲われた岩は信仰の対象らしく、岩は水をかけてもいないのにじっとり湿って濡れている。と、黒装束の男二人がツナコを連れてきた。ツナコは大岩に仰向けで寝かされると、地面に穿たれた杭と手足を縄で繋がれ身動きを取れなくされた。
「祭壇……生贄……」エリスが呟く。ツナコは能天気に火の粉の舞う夜空と、そこいらで煌めく天蓋の星々を素朴な瞳で仰いでいた。神殿の左右に置かれた和太鼓の打音がドドン、ドドンと夜空に響き、神殿前に正座したシャーマンみたいな連中が笛を吹き、神聖な音色が夜闇の背筋を正していく。白装束の巫女たちが篝火に照らされ舞い踊る中、神殿を覆っていた幕が緩やかに引き上げられた。
神殿の内側は水色をした、透き通らんばかりの翡翠の装飾が空間一杯に散りばめられ、松明の炎を受けるとより一層艶めいた。異様なのが、神殿奥部に祀られた土偶だ。成人男性ほどある蘇芳色の遮光器土偶が鎮座していた。それに向かって正座、一心に祈祷する一人の古代っぽい髪型の、いかにも高貴な身分の男。
「あれが、ヤバイの大王か? 上げ美豆良をした」
「アゲミズラ?」反駁しながら、澄んだ夜風の中で物の焼ける匂いを鼻腔で感じていた。
「ああいう、耳の横で束ねた髪型をそう呼ぶの」
「へえ二人とも詳しいな」
「自慢じゃないが俺達は地球に降り立つ定員六名の選抜試験に合格したエリートだ。このくらいは当然だ」
「そんなことはいい。見て」
エリスの指差す先にミカセオがいた。ミカセオは硬い表情で宝飾の施された鞘入りの短剣を携え、一歩、また一歩と大岩に寝かされたツナコの元へ進んでいく。
居ても立っても居られないとばかりにエリスは祈る人々の輪を擦り抜け神殿の前へ向かった。カインの小さな舌打ちが聞こえた。俺は彼女を追い、カイン船長も渋い顔でついてくる。いよいよ太鼓と笛の演奏はピークに差し掛かりエネルギッシュな旋律は全身の血を漲らせた。
ミカセオはとうとうツナコの前まで来ると短剣を鞘から抜いてしまった。
「ダメ!」エリスが叫ぶ。
短剣をかざしたミカセオは奥歯噛み締め、ざっと振り下ろした。
血は出なかった。切れたのは縄だ。ツナコの四肢を拘束する縄をミカセオがギリギリと引き裂いた。民衆がざわめき演奏が止まった。最後の縄が千切れ、ツナコが岩から滑り降りるとふわりと立つ。怒声。兵士らが矛を構えミカセオを取り囲んだ。ミカセオは血の気が引いて真っ白になっている。片手で短剣を構え、もう片方の手でツナコを庇っていた。
「馬鹿なヤツだ。大王様の御慈悲を無碍にしおって」
一兵士の煽り文句にミカセオが言い返す。
「己の正しいと思ったことをしたまで!」
「静まれ」
渋味のある乾いた声が夜の祭祀の場に響き、ざわめきが消えた。上げ美豆良のヤバイの大王が神殿を背に仁王立ち、錫杖で地面を突くと謳う様に物を言った。
「神託に従わぬ者がどうなるか。さあ皆の者! その眼にしかと焼き付けよ」
大王は懐から短剣を引き抜くと剣身を素手で掴み、その手を引いた。ポタポタと大王の手から赤い血が零れた時だった。
「あれ」エリスの声。人々の指差す先、神殿に鎮座する土偶が浮かんでいた。「おみつり様」、「おみつり様」と群集が呟く。おみつり様と呼ばれた赤漆のソレは供えられた酒や山菜、神具を蹴散らしながら神殿を飛び出し大王の真上で静止すると、カタカタと振動を始めた。
「土偶が……飛行?」
「外見だけ土偶に寄せ、中はロボットだろう……」
カインが冷ややかに分析する最中に土偶の左脚が高音を発し砕け散る。散乱する破片を余所に大王が九字を切り呪文を唱えると、ミカセオとツナコが苦しみ出した。二人は身体を折り曲げ、目から血を流し口から血を吐いていた。
「何が起こってるんだ」
「土偶ロボの影響か……?」
「止められないの!?」エリスの切羽詰まった声。カイン船長は黙っている。俺は必死に考えた。
(土偶はロボット? 機械なら……)
「ハレ、聞こえるか? あの土偶をハッキングしろ」
「ええー? ボクはレナータス号のマザーAGIなんですよ?」
「ドローンを制御してるのは?」
「まあボクですけど」
「じゃあドローンからロボットにアクセス出来ないか試せ!」
「機械使いが荒いなァ」
「待てマキヤ。君にそんな権限は無い」
「あ、いけそう。ハッキング開始しまーす」
「おいハレ! 勝手な行動をするなっ!」
カインが不快感を露わにするが、
「ハッキングを続けて」エリスが語気を強めて言った。
「私もマキヤ君を支持する」
「エリス、君まで……!」
「私達は人類全体の期待を背負ってゴーホーム計画のメンバーに選ばれた。勤務中は行動に責任が伴う。人命救助は人類代表として極力行って然るべき」
「俺達の主命は地球のテラフォーミングだ。土偶をハッキングするだなんて任務はどこにもない」
「地球に人はいない前提で想定された任務なんだから当たり前。臨機応変に行動すべき」
「『臨機応変』にやってるさ! その上でハレ、ハッキングを中止しろ! 個人の私情を違う世界へ持ち込むな」
「うーん、通信状況が悪いデス」
ハレが惚けている。「くだらないな。もう好きにしろ」カインは頭を横に振った。ハレのハッキングの影響かミカセオとツナコの流血が止まった。大王がちら、ちらと土偶の方を見る中、再び土偶がカタカタ震え始めた。
「う、うう……!」ミカセオが短剣を落とし、頭を押さえた。
「ハレ、またミカセオが苦しみ出した」
「この機械は特定の血に反応して血の持ち主の力を引き出す機能があるんです……今はそっちの少年の方の血液に反応してるっぽいです」
「まさか……禁忌群か?」
カインが呟いた時、今度は土偶の右腕が粉砕した。ミカセオがカッと真っ赤な眼を見開くと、たくさんの悲鳴が上がった。ミカセオの正面側にいた兵士、民の様子がおかしい。一様に両手で目を押さえているのだ。ミカセオが違う方を見やれば、そちら側にいた兵士と民衆もまた両目を押さえ悶絶した。
「な、何も視えん! どうなってる!?」
「おお恐ろしや、恐ろしやあ!」
生贄の儀式が阿鼻叫喚となる中、
「お主も神羅振(カラフル)か」
大王の声にミカセオが振り向くと、大王もまた錫杖を落とし両の目を押さえしゃがみ込んでしまった。ツナコはミカセオの隣りで口元の血痕を拭いながら、不思議そうに辺りを眺めている。
その時、群集の中から二つの影が飛び出してきた。カダヒコとテンネだ。二人は、目に異常の起こっている兵士を突き飛ばした。
「ミカセオ!」
カダヒコが鋭く叫ぶ。ミカセオは無言で頷くとツナコの手を取り駆け出した。四人の若者がヤバイを出る中、蘇芳色の土偶がすーっと夜空を飛行し彼等を追っていった。
小高い丘から見下ろすと視覚異常から立ち直った兵士らの松明がポウ、ポウと集落の内に見えたが、今すぐ追ってくる感じはしない。
「ああ、勢いでやっちまった。これからどうする……どうすればいいッ」
一番顔色が悪いのはカダヒコだった。頭を抱えたカダヒコに、「大丈夫よ兄さん」テンネが明るく言った。
「わたし達には『おみつり様』がついてる。おみつり様が護って下さる」
右手、左足の砕けた赤漆の大型遮光器土偶が椎の木の幹にもたれていた。この土偶の名称らしい。
「なあハレ。さっき兵士や民の視界を奪ったあれは、このオミツリサマとかいうのの力?」
「正確には、このマシンはミカセオ少年に共鳴して彼の生まれ持った才を引き出しただけです」
俺達三人は顔を見合わせる。ハレの声は間違いなく現地にあるおみつり様から流れていた。
「あ、しまった。ボイス機能がシェアされてた」
「おみつり様が話された……!?」
「神託だ!」
現地三人組がぺたっと地面にひれ伏した。「ツナコ、君もだ!」ミカセオに半ば引っ張られる形でツナコも地面に手をついた。
「あわわ! 人を土下座させたなんて世間様にばれたらボクは自主回収されるって」
「おみつり様。どうか我らをお助け下さいませ」カダヒコが平伏しながら言う。
「おいハレ、とりあえず彼等に話を合わせるんだ」
カインの助言にハレは慌てて咳払いした。
「えーと……そうだね、苦しゅうない、頭を上げなさい。ワラワはおみつり様じゃ」
「はあ」ツナコ以外が頭を上げた。
「ミカセオよ。困った時は先刻の様に己が血を大地に流すのじゃー。さすれば汝の秘めたる力、ワラワが引き出してやろうぞ」
「はっ。血を流す……。ということは僕に神羅振(カラフル)が備わっているということですか?」
「おお、そうじゃな」
「カラフルってのは?」俺が訊く。
「要は超能力のこと」ハレは今度こそ俺達にだけ聞こえる様に説明した。
「あれ、なんだろ……?」
鉢巻きを締め直していたテンネが地平線の彼方を指差した。七色の光が見える。
「旅人の言っていた『虹の波』……?」
「なんだツナコ」
「うう……」ツナコは怯えた様にミカセオの腕を引いている。
「もう始まったか」
カインが左腕に目をやると手首に腕時計のホログラムが生成された。
「始まったって?」
「さっき言わなかったか、これから三十六時間かけ日本列島はクリーニングされる。二垓個のナノマシンによってな」
七色の光を帯びたナノマシンの波が南の森を飲み込み、そのままヤバイの集落へ到達した。程なくして人々の叫ぶ声が聞こえ始めた。
「科学知識の無い者からすれば驚きだろうが人体に影響は無い」
「……何か様子がおかしい」
エリスが囁く。俺も同感だった。
「ハレ。ヤバイの様子を見せてくれ」
「りょーかい」
場面が切り替わり集落の中に移動した時、俺達は目の当たりにする。逃げ惑う人々が夜を照らす虹色の光に飲まれていく。彼等は藻掻き苦しんで、鬼の様な形相をしながら絶命していった。
「これは、一体……」カインが絶句している。
「やばい」と俺。
「カイン。早くナノマシンを止めさせて」
「だとしても……いや、こんなことになるハズが……」
「船長命令でナノマシンを止めろ!」
エリスに詰め寄られ、カインは瞬きしながら物を言う。
「ハレ、テラフォーミングを中止だ」
「船長。このプログラムを中止することは出来ません」
「では……無期限延期しろ。理由は、重大な欠陥が見つかった為だ」
「了解。無期限とはいきませんが最長の延期を選択します。テラフォーミング実行プロトコルは凍結されました。再開は船内日付で七月十一日午前十時を予定」
普段と違う機械口調のハレの受け答えと共に虹色の波が引いていく。
波の引いたヤバイの中を俺達は無言で歩いた。後に残されたのは死体。死体死体死体。そこかしこで苦悶に歪んだ顔と顔。硬直した何百体もの屍。男、女、老人、赤ん坊。七色の波は人間の命を平等に取り上げていた。
「私達はとんでもないことをした」
抑揚なくエリスが言った。
「私達はたくさんの人の命を奪った」
「どうしようもなかった」
カインが暗い声で言う。
「ナノマシンがヒトの命を奪うなど予想できるものか。防ぎようがない」
立ち尽くす二人の背中に俺は声をかける。
「ナノマシンによるテラフォーミングを中止しよう。今すぐに」
「いや……それが」
カインが蒼い顔で説明する。
「ナノマシンの洗星実行プロトコルは一時的に凍結されたに過ぎない。地球のテラフォームはゴーホーム計画が始動した時点で既に決定している。これは俺達の意思決定の外にある。だから、変更は不可能だ」
「凍結は十一日と言ってたから、十日後にまた虹色のナノマシンの波が押し寄せる……?」
「地球時間でいえば七十日弱はあるが、船内時間では十日間もない」カインが片手を掲げながら説いた。
「確定しているのは船内時間の七月十一日午前十時二ナノマシンは再起動され、日本を覆い尽くす。その後は世界中にナノマシンが飛散し……どうやら地球全体の人間が死に絶える」
俺が言葉を失っていると、「ナノマシンを……回収しないと」エリスが心ここにあらずという顔で呟く。
「どうやってだ?」カインが反応した。
「故障や初期不良を自覚したナノマシンはプログラムに従い降下したポッドへ誘導可能だが、それ以外は縦横無尽に熊本の大気中を浮遊してるんだぞ? 旧式のナノマシンならいざ知らず、今回採用されたのは有機タイプだ。回収なんて出来っこない」
「じゃあ指を咥えて見ていろと言うの?」
「俺達には、どうしようもない」
「……私は火星基地に連絡する。上層部にゴーホーム計画そのものを白紙にしてもらう」
「俺だって生存者を滅してまで地球を開拓する名誉なんか欲しくない。白紙に出来れば一番良いが……上の連中を説得するのは難しいぞ?」
いつの間にか空が白んでいた。エリスが首元に手をかけフローギアを外そうとした時、数人の足音が聴こえた。
ミカセオ達が呆然とした様子で集落の中を歩いてくる。自分達の生まれ育った故郷が一瞬で滅んだことを彼等は理解すると、彼等は絶望の表情を浮かべその場に座り込んだ。打ちひしがれる三人の横でツナコは遠い眼をして薄明の地平線を見つめている。と、ツナコはおもむろにミカセオの元へしゃがみ、彼の額に自らの額をそっと当てた。
「うわっなんだ!?」
突然、金色の光がぱちぱちと瞬いたかと思うと視界が白飛びした。
気づくと俺はTCR内を俯瞰していた。俺が、俺がいる。カイン、アーデイ、リック、マリー。俺を刺そうとした女の子。今まで船内で会った人が集まって、菓子類やジュースを手にパーティをしている。仲良く、楽しそうに。それに、大きなモニターに映ってるのは地球の映像は夜の森の中、たくさんの麻の服を着た人々が大きな火を囲い、酒を酌み交わし宴に興じていた。カゴにはたくさんの美味しそうな食べ物が積まれ、そこかしこで人々が踊っている。そこには手を取り合い笑うミカセオとツナコの姿もある。それを見つけた俺とエリスが白い歯を見せ笑った。幸せを絵に描いたような光景。
(あ。きっとこれ、全て上手くいった未来なんだ……)
確信があった。そして、幻視と同じく唐突に俺は現実に戻される。
俺達はまだ壊滅したヤバイの集落にいた。
「今のはなんだ……」
ミカセオ達は唖然とした顔で辺りを見回す。ツナコはどこか満足げ。股の部分が濡れている。ツナコは失禁していた。他の現地の三人はすっかり顔色が死んでいる。
俺とエリスの目が合った。
「見た? 今の」
俺の問いにエリスは小さく頷く。
「なんだったの、あれ」
「俺達が目指すべき未来……」
エリスが眉を寄せ何か言いかけるが、カインの言葉が割り込んだ。
「超能力だ」
「超能力?」
カインは浮かない顔だ。
「造者の少女がやったんだろう。船内にいる俺達にまで干渉してくるとは」
俺達ですら混乱していたが、ミカセオら三人は今にも吐きそうな顔色をしていた。まだ幻視の余韻が残っていたが俺は淡色の空に呼びかけた。
「ハレ! おみつり様をここへ」
「んー何すんの?」
「いいから連れてきてくれ」
程なくして片手片足の欠けた赤漆の遮光器土偶が音もなく飛んでくる。ツナコを除く三人は慌てて地に膝をつき平伏した。
「ハレ、俺の声を彼等に伝えたいんだが」
「出来るよ。ボクのボイスに変換しておみつり様として喋る?」
「そうしてくれ」
「どうする気なの」
エリスに訊かれたが俺は答えず、咳払いした。
「えー、其方らに伝えることがある」
藍染麻服の三人はおみつり様の話をじっと聞いている。
「これより七十日も経たずに熊本の地から虹色の波が寄せ、この世界を飲み込む。そうなる前に其方らは……ギヲンを目指すのじゃ」
「ギヲン? おみつり様、ギヲンとは一体」
「それは、其方たちが見つけるのじゃ。東へ行け。ギヲンに辿り着き全ての災いが取り除かれた時、其方らは今しがた見た様な幸せな世界を得るであろう……」
ミカセオ達は再び頭を地面へ下げる。
「ギヲンを目指してどうするの?」
エリスに訊かれて言葉に詰まる。
「望月に言われたからだよ」
「その人、信用できる人……?」
君の2Pカラーみたいな見た目だけどな。
「……とにかく、ここから離れるべきなのは確かだ」
エリスは訝しむ様に首を小さく傾げた。
俺達はTCRへ戻った。エリスはフローギアを脱ぎ様に尋ねる。
「ハレ、彼等はちゃんとやっている?」
「集落で使えそうなモノを漁って、旅立つ準備を始めたとこ。せっかちだなあエリスは」
「エリス、俺達はやれることはやった。今は休め」
「火星基地に連絡してから」
エリスはさっさとTCRを出ていく。カインは俺の方を見た。
「君もだ。今日は色々なことがあって疲れたろ、無理にでも寝た方が良い。ナノマシンの件は、明日俺の口からみんなに伝えよう」
俺は船長の指示に従うことにした。
変な時間に目が覚めた。気分は、最悪だった。気を抜くと家族のことが頭に浮かび、不安になった。呼吸が浅いので意図的に深呼吸した。メンタルクリニックに行きたいと生まれて初めて思った。ネットで『精神崩壊』なんてワードを見たことがあったが、あれは言い得て妙だ。今の自分になら分かる。
寝たのか寝ないのかよく分からない。気づくと船の中なのに丸窓から人工の朝日が射し込んでいた。俺はのろのろと服を脱ぎ、シャワー室に入った。
「大丈夫大丈夫だから……。さっきツナコが見せてくれた光景みたいに、全部上手くいくんだ」
最悪、タイムリープすればいい。というか、今の俺ってタイムリープできるんだろうか。真っ白な丸い石鹸をシマエナガに空見する。見慣れないバルブを捻ると流れ出したお湯が足先を伝い首元までタプタプ昇ってきて、お湯に包まれた。立ち風呂……と言えば良いのか? 暖かな感触にやんわり気分が良くなった。
「はあーさっぱりした」
腕時計を見ると八時半を過ぎたとこ。部屋着で外へ出る。通路の角の部屋の前でなんか揉めていた。ゴーシュ、アーデイ、サバタ、リックとマリーの五人の姿が見える。嫌な予感がした。
「どうかしたんですか」
「いやそれが……」
「ロックを解除しました」天井からハレの声。アーデイ達が部屋の中へ入っていく。
「……ダメだ、息してない。心臓マッサージと人工呼吸だ」
「その場で寝かせよう」
すらっとした白い足が部屋から廊下に飛び出す。昨日、俺をバターナイフで刺そうとした女のそれだ。
「何があった?」
マリーが顔を強張らせ答える。
「食堂でアーデイが、『精神疾患の疑いがあるから医務室のナノマシンを使って彼女を検査しよう』って。それで、ドアの隙間からナノマシンを入れたら、中から苦しそうな声がして……!」
俺の脳裏に昨晩のヤバイの惨劇がフラッシュバックする。
「ナノマシンを、使った? 何でっ」
「何でって、医療用のナノマシンだもの……」
俺は腑抜けてダクトの走る天井を見つめた。昨夜ツナコの超能力で見たTCR菓子パーティーの光景。何もかも上手くいってる未来。あの中では、勾玉女だってポテチ食べて楽しんでいた。
早速、あの未来は到達不可能だ。まだ二日目で?
――嫌だ――
俺の心が黒く塗り潰されたのと同期する様にベロンと世界の一部が剥がれた。『無』が顔を覗かせてタイムリープ特有の爽やかな柑橘の香りが鼻腔を突き抜けていく。周りが何か言ってるが水中みたく聞こえない。
熱いシャワーと湯気が身体を包んでいる。時が戻っていた。酷い既視感が脳を侵す。
「しかも地味に面倒なとこで……」
立ち風呂を終わらせ、ヒートバブルのスイッチを押して全身を乾燥させる。さっきと違って身体が重い。ただ、エレベーターの事故を止めようとして巻き戻った時ほどじゃない。人の運命を捻じ曲げようとしてる点では同じはずなのに。
(意外と動けるのは、勾玉の彼女の死を俺自身がはっきり目視してないおかげ……なのか)
まあいい都合がいいや。さっと衣服に袖を通した俺は自室を飛び出した。
「間に合った……」
通路には誰もいない。時計は八時ぴったり。顔が綻ぶ。それから一、二分をだらだら過ごしたが、
「……待てよ」
アーデイ達がここへ来る時点でナノマシン検査は決まってるはずだ。そこから説得するのは難題だと気づいた。それよりもここへ彼等が来ない様に上手く誘導した方が良いんじゃないか。
俺は小走りで通路を突っ切り食堂に向かった。
和やかなムード漂う食堂に飛び込んでしまい視線がぶっ刺さる。
「おはようマキヤ」リックが手を挙げる。食堂にはエリスとカインがいない。まだ寝てるのか。
「やあおはよー……」
俺は平静を装いつつリックを通り過ぎアーデイの斜め前の席に座る。
「おはよう。アーデイ」
「……おはようございます」
アーデイは朝弱いのか元々低めのテンションが更に低かった。皿には豆類と彩り豊かな野菜を散りばめられ、コーヒー片手にチーズを齧っている。その横にはザ・朝食料理が皿に載ったトレーが手つかずで置かれていた。恐らくは額勾玉の女の子に持ってく用だ。
(自分から彼女の話題を出した方が良いだろうか。いや不自然か。きっと何もしないでもそういう話になる……かといってずっとだんまりも変に思われそうだ)
「アーデイは、朝のルーティーンとかあるの?」
「そうですね……。最近は朝六時前には目が覚めて散歩がてら栽培室に行き、捥いだ赤葡萄を味わいます。日課といえば日課です」
「ふうーん……」
早朝に起きといてその寝起きみたいなテンションか。
「どうしたんですかマキヤ君。食べないんですか」
「あ、ええと……」
「参考に、そこにメニューがありますよ。料理のホログラムに数秒間スプーンをくぐらせて口に入れれば味見も可能です。それと――」
アーデイが俺の髪を指した。
「ヒートバブルはもう少し長く使用すべきだ。生乾きですよ」
「ホントだ。ははは……」
「それに何か、変ですね」
「顔色が悪い?」
「いや、それもあるんですが。マキヤ君が食堂へ入って来た時、一瞬私の目には貴方が薄れて見えたんですよ」
「え……?」
「まあ、ただの気のせいでしょうが……」
アーデイが小首を傾げている。
――世界に馴染めなくなる――
病院へ行くまでの夜道で望月の発した言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
(まさか……)
アーデイは怠そうに眼鏡を直すと、咳払いし、食堂全体に呼びかけた。
「少し聞いてもらえますか。コールドスリープから目覚めた女性の件です。彼女がマキヤ君を刺そうとした為に監禁中なのは周知の通りですよね」
出た! 今は望月の言葉は忘れよう。ここが運命の分かれ目だ。
「これから彼女に朝食を持っていきますが、それに併せて医務室のナノマシンを使い詳細な検査をすべきだと私は考えます。異論が無いようなら、早速行おうと思いますが……どうでしょうか?」
「いいんじゃないかな」
マリーが遠慮げに頬をかいた。
「急に人を殺そうとするなんて……脳のどこかに異常ありかも」
「そんな危険なの宇宙空間に放りだせよな」
サバタがぶっきらぼうに言うとスプーンいっぱいのコーンフレークを口に持っていく。前衛的なマスクの口元がジグソーパズルの様に開き、食すと再び口元がマスクに覆われた。
「さすがに放出はしませんが……。では、検査ということでよろしいですね」
「ちょっと待った」
皆の視線が俺に向く。
「実は昨夜、TCRで大事件があったんだ。現地の人達を大量死した、ナノマシンのせいで」
「それは……初耳ですね」アーデイもさすがに驚いた顔をしている。
「嘘じゃない。カイン船長も朝に話す予定だったんだ。多分カインとエリスはTCRで疲れて寝てるんだろうけど、二人に聞いてもらえれば――」
「ハレ、マキマキの発言……ファクトチェックして」ゴーシュが人差し指をピッとやった。
「うん、ボクも見たよ」
能天気な声に食堂がざわついた。
「ま、ボクに現物の眼はないからデータとしてだけどさ……。テラフォーミング用ナノマシンの波が集落に入った途端、人々が苦しみ絶命したみたいだよ」
「な、言っただろ? ナノマシンで検査するのはやめた方がいいと思う」
よし。これで歴史が変わったはずだ。ツナコが見せた未来に行けるかはともかく。
俺が少しほっとしていると、「訊いていいか」とリックが口を開けた。
「問題を起こしたのは地球に投下したテラフォーミング用のナノマシンだよな? 船内のナノマシンは医療用でこれまで散々使ってきてんだし。だから大丈夫だと思うぜマキヤ。心配しすぎだ」
「まあ、確かに今まで問題はありませんでした」
アーデイが眼鏡を掛け直す。するとゴーシュも口を開いた。
「ワタシなんかついさっき医務室でナノマシンの診察受けたけどビタミン剤もらって、この通りピンピンのピーン。いえーい」
ゴーシュが手足で万歳する。リックが肩を竦めた。
「ていうか、仮に問題が生じればすぐ処置を止めればいいってだけだろ?」
「いやでもリック、そもそも勾玉の女の子が俺を殺そうとしたのが病気のせいと限らないしって。そうだハレ、彼女の言葉の翻訳状況は?」
「あと一、二時間ってとこですかね」
「だったら翻訳が終わってから彼女に直接訊けばいい。どういう理由があったのか」
リックはくりんとした髪を掻き上げ俺を不思議そうに見てくる。
「マキヤがナノマシン検査に反対なのは、何かある系?」
「反対してるわけじゃない。翻訳を待っても良いって話だ」
「逆に言えばナノマシンの検査が終わってから話聞いても問題ないんじゃないか?」
「だから、万が一があるだろ?」
「だから何かあったら検査を止めればいい」
リックのせいで食堂の雰囲気が変わってきている。ふざけんな……どうすれば説得できるんだ。
「『地球生まれだけが』ナノマシンで人体に悪影響が出るという可能性は考えられないか?」
「はあ? どこにいようがヒトはヒトだよ。環境の違いでナノマシンが悪さするって聞いたことないぜ」
「でも今回はするかもしれないな? そんなの分からないだろ」
俺がしつこく食い下がるとリックは「まあそれもそうか」とあっさり引き下がった。ように見えた。
「お前の言い分も解るな。じゃあ俺達の信奉する民主主義に則って、ここは多数決で決めようぜ」
「た、多数決? でもカインとエリスがいないじゃん」
「二人は疲れて寝てるっぽいし、わざわざ起こすのもアレだから現在食堂にいるこの六名で決めればいい。みんなどう?」
「私はリック君の提案に賛成です」
「ワタシもー」
「横に同じく」
「じゃあ俺も」
嫌な流れだ。
「そんじゃ、『医務室のナノマシンで検査すべきではない』という人……?」
くそっ。仕方ないから重い手を挙げる。俺一人の手が空しく食堂の天井に伸びた。
「……そしたら『医務室のナノマシンで今すぐにでも検査すべき』という人は」
俺を除いた食堂の五人全員が手を挙げた。なんでだよ。
「決まりだな?」
不公平だ。それに、それになんか卑怯だ。
「これが民主主義というものですよマキヤ君」
言葉を失っている俺に気づいたアーデイがさらっと言った。
「仮に今いない二人と当事者の彼女が反対したところで賛成派の五人には届きませんから結果は変わりませんでした」
くそくそくそ。
その後、「医務室からナノマシンを取ってきます」と告げるアーデイに対し、感情を押し殺しながら俺は勾玉の女の子の朝食を運ぶ係を買って出た。アーデイはすんなり了承した。
初夏の朝の高原みたいな涼しい、気持ちのいい風の吹く通路を独り歩く。トレーに意識を向けながら、自分の案をもう一度頭の中で転がした。
(食事を持ってきたふりをして、彼女を逃がそう。これで未来は変わるはず。いやでもまたアイツに襲われたら? たとえ襲われなくても、今度は俺が狂人として監禁されるかもしれない。しかもそこまでして彼女を助けたところで未来視の光景に辿り着けるとも限らない……。そもそもツナコに見せられたあの未来、本当に存在するのか?)
あの時は確信があったが、今は何とも言えない。答えのない考えが頭の中をぐるぐると回ったが、それらは全てパーになる。何故なら勾玉の女の子の部屋を見つけたところで天井からロボアームがババッと降りてきて朝食をトレーごと盗まれたからだ。
「な、何するんだっ!?」
「安心して、ボクがダクトを通して差し入れますからね。きっとキミに手渡されるより安心して食べてくれますよ!」
ハレの底抜けに明るい声が降り注いできた。
「あ、ありがとう……」
(余計な真似っ。なんだもう)
不貞腐れているとアーデイを除く食堂にいた四人がやってくる。
「みんな何しに来たんだ?」
「別に。散歩だよ散歩」
「俺は地底女の様子を見に来た」とサバタ。
「取調室じゃないんだから見えないぞ」
「心の眼で見んのさ」
ビーム銃をクルクル遊ばせるサバタ。(邪魔なんだよ!)俺は心の中で叫んだ。アーデイからナノマシンを奪う強硬策しか今の俺には残されていないのに、そんなことしたらきっとこいつ、待ってましたとばかりに俺を撃ってくるに違いない。
カウボーイハットを被った前衛芸術マスク野郎を尻目に自然と暗い溜息が出る。
「お待たせしました」
とうとうアーデイが来てしまった。右手には半透明の棒を持っていて、棒の芯では淡い緑色の光が宿っている
「それが医療用の……?」
「ええ、使い捨てタイプのナノマシンです。医務室に常駐させてあるタイプと違い高価かつ貴重ですが、三分であらゆる心身の異常を調べられる。では早速始めましょうか」
アーデイはおもむろに半透明の棒をパキッと真っ二つに割った。折れた箇所から緑色の光がキラキラと飛び出してくる。
「検査対象はこちらです。頼みますよ」
ナノマシンの煌めきが監禁室のドアの隙間に集まっていく。一ミリにも満たない隙間から中へ入るつもりだ。俺の足が自然と一歩前に出たが、サバタのビーム銃が気になってそれ以上続かなかった。
異変があったのはすぐのことだった。部屋の中で狂った様な叫びが聞こえた。短く一度、二度。
「え、なに」
「ちょっとどいて!」
マリーを押し退け、俺はドアを叩いた。
「なあハレ! ここを開けろ、異常事態だ!」
「しかし監禁中ですヨ」
「声が聞こえたろ! 中の女の子の様子がおかしいんだ、早く開けろ!」
「……りょーかい」
ピッ。ロックの施錠音と共にドアがいなくなる。淡い緑の光を帯びた勾玉女が床でのたうち、苦しそうに喉を引っ掻いていた。
「検査中止! 中止だ!」アーデイが叫ぶと緑色の光は彼女から離れ、アーデイの持つ折れた棒の中へ引っ込んでいく。
「大丈夫、落ち着いて」
俺は自分を殺そうとした女に駆け寄り抱きかかえた。土気色の顔をした彼女は俺の姿を見ると一瞬驚いた顔をしたが、すぐに恨めしそうな眼差しを向け、俺を押し退けようとする。だが力は弱々しく呼吸も浅い。彼女は死にかけていた。
(何でそんな眼で見るんだ。俺が何かしたかよ)
勾玉女の唇が小さく動き、俺に向かって何かを発した。日本語に似た知らない言語。勾玉女は静かに目を瞑る。
俺を押していた彼女の腕が力なく床に落ちた。
マリーが必死に心臓マッサージと人工呼吸を施したが、その甲斐空しく正体不明の地底人が瞼を開けることは二度となかった。
「正式な解剖結果はまだ出ていないけど、死因はアナフィラキシーショックの可能性が高いよ」
エリスがホログラムの診断データを指でめくった。
「信じ難いけど、地球の人間はこの千七百年間でナノマシンに触れると死ぬような遺伝子形質を獲得した……と考えられるね」
「つまりだ。船内で死人が出た。はあ、最高にクールだ……」
船長のカインが科員食堂の座席の背もたれにぐぐぐっとよりかかる。現在乗船中の八人全員が食堂に集まっていた。
「しかもだ、こいつは防げた死だ。ナノマシンが原因であろう大量死が起こったばかりなのに、地球出身者にナノマシンを用いるなんて。アーデイ、副船長のお前がついていながら……いやお前だからこそか?」
「何も、言い訳しません。完全に私の判断ミスでした」
アーデイが俯く中、
「アーデイに全ての責任は押し付けられないかな」ゴーシュが真面目な顔で言った。
「多数決で決めたんだから。責任はあの場にいたワタシ達全員にある」
「うん。ていうか、今思えばリックの言葉で空気が変わって流されちゃったって感じ……」
「ほんとほんと。すっかりね」
「リックは話が上手いんだよ……話だけは」
皆の非難の目がリックに集まり、リックの白目が増えた。
「えっ、俺のせいにされた……? 別に俺そんな騙すとかじゃくて。全然、そんなつもりは……」
「マキヤ君を信じてあげればなー……」
マリーがぼそっと呟くと、申し訳なさそうに片目で俺を見つめた。
「ああそうだな。まるで『こうなるのが分かってた』みてえに訴えてたよなぁ……?」
くぐもった声。含みのある言い方。サバタ・ホツアラドが行儀悪くテーブルに足を載せている。
「何が言いたいんだ」
「別になんも」俺の問いにサバタはだらっと両手を開けて返してくる。イヤな奴。
「……そういえば」アーデイがふと俺に目をやった。
「朝八時ごろ、マキヤ君は何故か急いだ様子で食堂へ飛び込んできましたよね。リック君の人懐こい声かけには応じず、わざわざ私の近くの席に座りました。何かを食べるでもなく落ち着かない様子だった。そして私がナノマシン検査の提案をしたところ激しく反対した」
「そう……?」俺はしらを切ったがアーデイは構わず続ける。
「貴方は多数決でナノマシンの検査が決まると『彼女に朝食を運ぶ』といって独り監禁部屋へ行きましたね。今思えば、マキヤ君貴方は隙を見て彼女を逃がすつもりだったのでは?」
(なんだよ。まさか全部見破られてるんじゃ……)
それはないだろ。
だが、アーデイはじっと俺を観察した後で言った。
「マキヤ君はタイムリーパーですね」
「……え?」
頭が白んでいく。皆の驚きの視線が俺に注がれた。
「タイムリーパー?」
「はい」
「タ、タイムリーパーって……」
声が上ずる。たらぁと脇腹を脂汗が伝っていく。能力を知られるのはまずい。とにかくダメだ。隠せ隠せ隠さないと。
「なんだそれ。ちょっと意味があの、分からないっていうか……」
「そうでしょうか」
アーデイが眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「貴方は『タイムリープ事故を阻止する為にこの時代へ送り込まれた』と自らの口で言ってたじゃないですか。タイムリープの概念は理解しているはずだ。時間を巻き戻す能力者をタイムリーパーと呼ぶことくらい――」
「ああ、そういうこと。へえ。で? その根拠は?」
「さっきからアーデイが言ってるぜ。お前の言動が不自然だって」
「不自然? そうかなサバタ」
二人同時に相手するのは辛いが、マスク野郎の指摘に俺は反論する。
「だって俺は昨日ナノマシンで人がばたばた斃れる姿を見てるんだ。船長もエリスも」
だが俺の弁明をよそにアーデイは席を立つと腕を組み、考えを整理する様に言葉を紡いだ。
「そもそも貴方がここへ送り込まれた経緯にかんして私は引っ掛かるものがありました。何故、何の能力も持たない筈の貴方が選ばれたのか。真実は、時間関連の能力を持っているが故に選ばれたんじゃないですか?」
「マキマキどうなんだ?」
食堂のみんなが俺の言葉を待っている。
俺は。俺は……。
天井から「コホン」とハレの甲高い咳払いが聞こえた。
「ちょっと失礼? 一応報告だけど、地底から救助した例の女の言語翻訳が完了したよ。彼女の名前も判明しました。彼女の名はヒノメラムチノアエズ。地底の女王的存在で――」
「だが彼女は死んでいる。時間を無駄にしたな」とカイン。
「そんなことないですよう。今際の際にアエズの呟いた言葉の意味が解ったしぃ」
「何て言ってたの?」
エリスの質問にハレは答えた。
「『災厄に死を』」
「災厄に、死……? 災厄に死って、うーん?」
首を傾げるマリー。「決まってんだろ」サバタざらついた声で言う。
「災厄ってのは古代人(コイツ)のことだよ。実際にあの女はコイツを殺そうとしてたんだ」
サバタは手首の内側を見せる様に俺を指差すと、マスクの下から強い言葉を吐いた。
「だから最期にお前を見ながら『災厄に死を』って言い残した。違うか? 古代人」
「違う」
「すぐに否定して、怪しいな。『ここには裏切り者がいる』だのなんだの言っといてお前こそ裏切り者なんじゃねーか? 船を爆破するのが目的なら災厄呼ばわりされんのも納得だ」
「それもそう……」とエリス。
「違う! だって俺は――」
そこで俺は言葉を切る。
「ちょっと待った。その話はお前に話していないぞ? サバタ、どこで聞いた」
「……なんだよ。俺が疑わしいってか? この情報は、マリーから聞いたんだ。昨日ジムで一緒になった時にな」
俺がマリーの方を見るとマリーは小さく頷いた。
「そうだったのか……? じゃあ、何でもない。ちょっと気になったから」
「……フン。探偵ごっこもほどほどにしとけよ」
(むかつくな……)
俺が黙ってるとアーデイが咳払いをした。
「では。もう一度訊きますが貴方はタイムリーパーなんですか?」
思考が駆け巡る。いや、こうなったら仕方ない。むしろ認めることで裏切り者のことやギヲンの捜索が有利に運ぶかもしれない。
「ああ。そうだ。俺は、タイムリーパーだ」
俺の言葉にすっと場の空気が変わった。ひどく、薄ら寒い感じだった。
(何だか、思ってたのと違う反応だ……)
戸惑ったが俺は説明を始めた。物心ついた時からタイムリープは可能だったが、自分の意思と無関係に起こっていたこと。望月槐と出会ってからは制御可能なこと。遠い未来で起こる百年周期のタイムリープを阻止する代わりに、家族の死の運命を回避する約束を交わしたこと。
「アーデイの言う様に、タイムリープ能力を持つ俺はきっと適任なんだと思う。その、タイムリープ事故を食い止めるには」
「随分と……」
「え?」
「随分と簡単に白状、しましたね」
アーデイの顔が青褪めている。マリーを見ると不安そうに両肩を抱いている。他の面子はまるで邪鬼を見る様な顔つきで俺のことを窺っていた。
「え……なんだよ。なに? 何で、みんな。いや確かに驚きだろうけど……みんな信じてくれたのか? だったら俺は災厄なんかじゃないってこともわかって欲しい。むしろ俺を殺そうとした彼女こそが裏切り者なのかもって――」
「そんなことはいい! 全く、次から次へと問題が……」カインが黒髪をくしゃつかせた。
「えーと……」
訳が分からない。
「まず我々の共通認識として、タイムリープは『最も危険で悍ましい類の超能力』なんですよマキヤ君」
「お、悍ましい……?」
顔の強張ったアーデイが続ける。
「考えれば判るでしょう。貴方が性犯罪を犯そうがこの場で我々を殺害し死体を切り刻もうが、過去へ遡ってしまえば全て無かったことになるんです。貴方が普段通りに振る舞えば我々は絶対に気づくことはない。他の超能力犯罪と比較して対処が非常に難しいんですよ。タイムリーパーは」
俺はゆっくりと食堂の連中の顔を見た。恐怖。不信。嫌悪。ありありと滲み出ていた。
「いや俺……そんなことしないし、これからもしない! そもそも自分の好き勝手にタイムリープしたりなんて、俺は人生で一回とかで――」
「でもお前タイムリープしたんだろ? 気に食わないことがあったから」サバタに言われ頭に血が上る。
「監禁されてた女の子の命を救う為だよ! しかも俺を殺そうとした奴! 誰かを傷つける為じゃなくてっ」
「でもそれは証明できない」エリスが冷静に言う。なんだよ。なんだよこれ。
「みんな、まるで俺が犯罪者みたいに……。俺はまだ何も――」
「あ、今『まだ』って言ったよ……」
「だから、しないって!」ゴーシュの指摘を突っ撥ねる。息が上がる。
「おい古代人」サバタが高圧的に物を言った。
「今後、俺らの半径二メートル以内に入るんじゃねーぞ。女子は特に気を付けろよ。こいつに何されるか分かったもんじゃねえや」
「俺そんな人間に見えるか……」
「見えるっつーか、今にもお前がタイムリープすんじゃねえかと俺は思ってる。『時間を巻き戻して地底女はやっぱり無視だ、そしたら皆に自分の能力ばれないな』。で、せっかくだから誰かに股間を擦りつけてタイムリープしようって考えてるかもしんねーよなぁ? どうよ俺の推理、良い線いってるか? くっくっくっ!」
サバタは手をひらつかせ食堂を出ていった。
「最低な人」マリーが言った。
「他人の気持ちを全然考えないで」
「……マリー、ありがとう。その――」
「え? ううん。いいの。じゃあ、あたし用事思い出したから……」
俺はマリーが怯えているのに気づいた。もしかして最低っていうのは、サバタじゃなくて俺のことだったのか……?
食堂から一人、一人と人が消え、「じゃあまた」と遠慮がちにリックも消えて、気づくと俺は独りになっていた。
改めて気づかされた。やっぱり今まで、自分の能力を隠して生きてきたのは正解だったんだ。友達はもちろん、家族にも黙っていた。こういう反応になるかもしれないって無意識で判っていたのだ。普通は信じてくれない。だけど信じたら信じたで、きっと俺とは距離を置かれるって。
もう、やり直してしまおうか……。
俺は自分の掌を見つめた。少し震えている。タイムリープを体が怖がっている。エレベーターで何度も巻き戻した時の感覚が蘇った。同じ場面を何度も何度も何度も巻き戻すと良くないと全身が訴える。
――でもお前タイムリープしたんだろ? 気に食わないことがあったから――
サバタの不愉快なマスクが脳裏を過ぎった。不快すぎる。
「ちっ……やめた」
別に、アイツの影響じゃない。だが、すぐにタイムリープはしない。したくない。そんなものに頼らなくても俺は今までやってきたじゃないか。俺の人生に後悔は無い。
それに、望月はあの時手術室で『大規模なタイムリープを食い止めて下さい』と言った。言葉通りに受け取れば、何もせずとも俺はいずれ強制的にタイムリープを経験することになる。事ある毎に時間を巻き戻して完璧を目指したところで今後のタイムリープ事故を防ぐ手立てが無ければ、全て無に帰す。
「……まあいいや。起こったことは仕方ない」
俺らしい言葉が口を衝いて出た。
遅めの朝食を摂って、この先どうするか改めて考える。
「結局俺のすべきことは変わらなくて、船を爆破しようっていう裏切り者が誰なのか見つけ出して、その上でギヲンも見つけること……になるよな? とりあえず」
これまで起きたことをタイムリープで巻き戻す。という、無限の選択肢を除外したことでやれることが狭まったら、逆に気分が楽になった。競争馬がマスクを付けている気持ちがよく分かったぞ。
とりあえずみんなの情報を得る為、俺は片っ端から乗員全員に話しかけた。いわゆる聞き込み調査だ。それで誰が裏切り者か突き止められるかもしれないと思った。疑わしいヤツもいるし。
が、それはてんでダメ。俺の姿を見つけるとさっと離れていく乗員たち。偶然話しかけられても、「今忙しくて」とやんわり断られてしまう。
避けられ続けた俺は結局、小一時間ただ意味もなく船内を彷徨っただけに終わった。傷心状態の俺は偶然見つけたセラピー室に入ると、その中に広がる深い森の、しっとりした空気、枝葉の擦れ、柔らかな川のせせらぎ、そういった自然をただ無心で貪り続けた……。
「少し良くなった、かな」
セラピー室から出てふうと溜息をつく。
自分が、情けなかった。タイムリーパーなんて漫画の主人公みたいなくせに誰の命も救えてない。あげくメンタルが壊れかけて、心療治療みたいな設備に頼って。
「こんな主人公いるかよ」
結局漫画やゲームはフィクションで嘘っぱち。これが現実なんだ。
気づくと自分が笑っていた。
とりあえず船内にいるかも分からない裏切り者探しを諦めた俺は、ギヲン捜索の為TCRへ向かった。
TCRのドアが開いて、思わず足が止まる。先客がいた。エリスだった。スタイルは良いが望月の方が世の男受けは良いと思う。頭に被ったフローギアの隙間からは細く編まれた茶髪の束が垂れている。
体が反射的に回れ右していた。だがドアの縁に手をかけた俺は寸でで止まる。
(いや待てよ? 俺、元々避けられてたじゃん)
だったら別に前と変わらないか。
俺はエリスから離れた席に座るとフローギアをすっぽり被った。
意識だけが地球に降下していく。
どこまでも竹林が広がっていた。天を衝く深緑の竹と竹の隙間から黄金色の空が少し漏れていた。どこか遠くでカラスの乾いた声が聴こえる。
(未来の日本の竹林……)
自分がここにいる気しかしないが、本当の俺は船の中。改めてすげえ技術。と、薄暗い竹林の中を藍染麻の和服の少年少女が歩いてくる。あの四人だ。俺にとっては昨日ぶりだが彼等は約七倍速の時が流れているから、もう三日は経過している計算。出で立ちは昨夜見た時より物々しくミカセオは腰に剣を引っ提げているし、カダヒコは矛を背負っていた。
黙々と歩を進める一行。ツナコは二メートルありそうな竹編みの巨大葛籠を背負っている。
「あれ、なんだろうね」横のエリスに訊くと、「きゃあっ」と大きな悲鳴を上げられて俺も驚いて咄嗟に声が出た。
「……な、何で君いるのッ!?」
「それは、フローギアを被ったから……」
エリスは数秒間固まった後、首元に手をかけた。
「聞いてくれエリス!」俺は慌てて言った。
「何もしないから」
エリスは怯えつつ不審者を見る様な薄目で俺を見た。
「……どうかな。タイムリーパーの言葉、私視点で確かめようがないもの」
「いや無理なんだって」
なおもエリスは疑いの目を向けてきた。
「どうしてそう言い切れる?」
「それは、この空間で俺も君も実体が無いから。少なくとも俺がフローギアを被ってる間は君は安全だ。どうやっても手出しできないからね」
くそ、何でこんな自分を卑下しないといけないんだ!
それでも、
「……ああ、そっか」とエリスは首元から手を離したので俺の口から少量の安堵が漏れる。これ以上他人から避けられたら俺は……。
「あの竹籠の中身はおみつり様だよ」エリスがツナコを指差した。
「土偶の見かけをしたロボが、中に……?」
巨大土偶が格納されてると思えない軽やかな身のこなしでツナコは獣道を伝っていく。線は細いのに馬力はヒトのそれじゃなかった。
「ところで、ギヲンはこの辺りにあるって」
「……ええ!?」
エリスのさりげない一言に俺は周囲を見渡すが、節目のしっかりした竹と竹の間に昨日までタケノコだったらしき茶皮の被った低めの竹を見つけただけだった。
「ハレ、いい? 数時間前の集落でのやり取り。映像出して」
「りょうかーい」
俺達の前方に四角い光の窓が現れる。そこに映っていたのは今よりも太陽の高い時分、ミカセオ達が山間の小っちゃい集落で村人の二人と会話している姿だった。
「ちょっと長いけど……」
「ああ解った」
「この映像は、四人がヤバイを抜けてククジという国に入った直後。でもククジの様子がおかしいみたいで――」
エリスの説明はカダヒコの警戒心剥き出しの声で掻き消された。
「おい、他の集落はもぬけの殻だったぞ。一体何があったんだ」
「それがな……」
村人の一人が答える。
「武装した集団が来て、『ここにいたら危ない』って言うんだ。そんで周りの集落の連中を強引に連れて行っちまった。わしらは隠れてやり過ごした」
「そいつらは何者だ」
「『我々はヤバイ国の者だ』とか言うとった。なんでも大王様の神託が出て、東へ避難しなきゃいけねえのを伝えて回ってるんだと」
話を聞いていたミカセオ達は顔を見合わせた。
「そんなわけない。ヤバイ国は……その」ミカセオが言い淀む中、
「分かっとるわ。ヤバイの男は顔に刺青を入れるが、あいつらは入れてなかった。それに男の一人に見覚えがある。ありゃヒナカ国の人間だ」
恐い顔した村人の言葉にテンネが首を傾げる。
「ヒナカ国? 南東にあるヒナカの輩が何でヤバイの名を騙るのよ」
「知るものか。ともかく彼奴等は北にある港町ウズへ行くんだと。そこから海を渡ってナナトの国行くみてえだ。面倒ごとに巻き込まれんのが嫌なら、今ぁウズに近づかん方がいいね」
「うーむ、参ったな。俺達も海を渡って東方へ行くつもりだったんだ」
カダヒコが頭の後ろを掻いているともう一人の村人が口を開いた。
「じゃあ海の抜け穴を使いなさい」
「海の抜け穴?」
「昔からある隧道(ずいどう)遺構さ。古代言葉じゃ『トンネラ』とか『トンヌル』とか言うらしいよ。それを使えば陸伝いに海を越えられる。ただ、あの辺りはここ最近変なオニが出るって噂だ。十分注意しな」
「じゃあオニを避けてウズから舟で海を渡るか、ヒナカの奴等を避けて隧道を使うか……」
「どうする?」
「うーん……」
四人が、ツナコまでが険しい面で顔を突き合わせるのを見て村人の片方が訊いた。
「あんたら、海を渡ってまでナナト国に何の用があるんだ?」
「ナナトというより、東方にあるギヲンという地を探している」
ミカセオが真剣な眼差しで言った。
「その地は綺麗な水が湧き出で食物にも困らず、なによりオニにも襲われず――」
「馬鹿を言っちゃいけねえよ。そんなのは絵空事じゃあ。なあ?」
「いや、おいら噂で聞いたことあるよ」
「けど噂は噂だ」
「いやそれが、海の抜け穴を通ってきたっていう旅人がさ、『この辺りの竹林でギヲンを見かけた』ってよ。そいつが言うには桃源郷そのものだったって」
「なに、それは本当かっ」
ミカセオが食いつくと、村人が話してくれた。曰く、淡い桜色の宮が竹林の広がる地の底にあって、そこは昼夜を問わず光り輝き、美しい町並みと綺麗な女子が出迎え、海の幸、山の幸がいつでも食べ放題だという。
「なんかホテルのバイキングみたいだな? それがギヲンなのか」
俺の感想に、「うーん……」とエリスは小さく片眉を持ち上げた。
「だとしたら、ずいぶん近くだね……? 確か、遥か東方の地にあるって話だったような……」
「で、その桜色の宮とやらはどこにあるんだ?」
カダヒコの質疑に村人は肩を竦めた。
「あの世みてえで急~に怖くなったとかで、そいつ脇目も振らず逃げ出したんだと。だから道しるべも残しとらん。まあ一種の与太話よ」
「でもククジの竹林の何処かにあるんだろ?」
「話が本当ならね」
「どうする」カダヒコが周りの顔を窺った。
「僕は探したい」真っ先にミカセオが唱えた。
「わたしも賛成。海の抜け穴を目指せばいいんでしょ。無いなら無いでもいいし。ねえツナコちゃん」
「うぅあ」
ツナコは遠くを見る様な眼差しで何の意味も為さない言葉を発した。そこで過去の録画映像を映していた小窓が閉じた。隣りから「解った?」と言いたげな眼差し。
「……へえー、そういう――」
「しっ」
半透明のエリスが唇に人差し指を当て、前方の四人を注視する。何時の時代からこの『しー』はあるんだろう。縄文時代、いや旧石器時代の日本にもあったりして。他愛ない考えが浮かぶ中、視線の先の彼等は真剣な顔でじっと耳を澄ませている。ツナコを除いて。
ヴヺォーという恐ろしい獣声が竹林の空に反響した。
「オニだ……」
テンネが片膝をつき、指先を地面に突き立てた。
「三体、東の方角。こっちに来てるわ。待った、何か変。歩幅が不規則……手負いかも」
「手負いだろうとなんだろうとオニと逢うのは勘弁だ」
ツナコが不思議がる声を漏らす。
「行くぞツナコ」
カダヒコを先頭に(ツナコはミカセオに手を引かれ)四人は移動を始めた。黄昏の竹林を駈ける四人組。追う異形。化け物の気配は時を刻むたび傍に感じられた。風下なのもあってオニの獣じみた臭気に思わず息を止めてしまう。横を見るとエリスは両手を重ね不安げに祈っている。
俺の見てるのがばれた。
「……なに」
「いや、虫の観測みたいな態度でこの逃亡劇を眺めてるかと」
「私を何と思ってる。助かって欲しいよ。みんな」
彼女の健気な願いとは裏腹に、俺はこのままじゃ全員死ぬと踏んでいた。
「なあハレ。ミカセオの超能力を発動させられないか? ヤバイで兵士らの視界を奪ったアレだよ。オニに効くかは分からないけどやってみないと、最後尾のツナコが追い付かれて食われる」
「能力を発動する毎におみつり様は欠損していきます。使用回数に限りがありますよ?」
「使わないで死ぬよりいい」
その時、
「おーい!」
前方から声がした。二人の和服姿の老夫婦が二人、必死に手を振って招いている。彼等の背後には人一人通れるほどの岩と岩の隙間が開いていて、そこから薄らと淡い桃色の光が漏れていた。
「あの中に入ろう!」
カダヒコ、テンネ、ミカセオの順に岩の狭間に飛び込んだ。ツナコも中へ入ろうとしたが背負った竹編みの葛籠が入り口に引っかかっている。
「うぁうー……!」
「ツナコ、今はおみつり様は置いてけっ」
ツナコはしょぼんとして肩紐からポスッと両腕を抜いた。
「ここまで来れば大丈夫じゃ」
「中までオニは追ってきませんよ」
身なりの良い老夫婦がにこにこと愛想良く笑って言った。
内部は緩やかな下り坂となっていた。下る毎に淡い桃色の明かりは増していく。奇妙なことに桃色の光は、地底の壁全体の裏っ側から発せられていた。
「ここは一体……?」
「隠れ里みたいなものです。オニに襲われた人達を匿っているんですよ」
坂を下りきった地の底に開けた空間が広がる。
そこには郷があった。オモチャみたいな萱葺き屋根の民家が何軒も立ち並び、竈の湯気が煙突からゆらゆら立ち上っている。浴衣姿の男や女が和やかに歓談し、奥には地底の滝があって、滑らかな壁面を玉簾の様にざあざあと流れていた。
「桜色の宮。旅人の話は本当だったんだ」
「そうみたい」
「さあさ旅の御方が四人も来たよ。ご案内して」
「はーい」
絹の着物を纏った可愛らしい赤頬の少女が二人、半ば強引に四人の手を引き一軒の民家へあげる。
「皆さんお疲れでしょう。ゆっくり寛いでいって下さいまし」
草鞋を脱いで四人は居間へ上がる。俺は土足で上がるのに躊躇した。
「なあ、靴って脱げる?」
「はあ? なんで」
エリスは半透明とはいえ土足で民家に上がっている。
「感覚的に何となく。君には分からない?」
エリスは肩を竦め、互いの足元を指差し何かを囁く。俺の足元が涼しくなり、靴が消えた。エリスの靴も消えている。
「ありがとう」
「いいよ別に」
民家の中には囲炉裏まであった。なんというか和風だ。一気に縄文・弥生から鎌倉時代へタイムスリップしたんじゃないか。
「これまで見た集落の感じとは生活様式が違ってないか?」
「宮窟を再利用してるとか」
「宮窟?」
「ああ、知らないの」
すらすらと説明するエリス。
「地球の地底に幾百もの居住空間があったのは少し前から知られていてね。コールドスリープ中のアエズ、例の黒髪の女性が見つかったのも宮窟。彼女のいた宮窟では地底のビオトープというべき高水準の生活環境が長く維持されていた、高い科学力の元で。救助した時はもう彼女と君しか生存者はいなかったけど……」
(ここもそういう居住区の名残り、なのか)
姿は見えないが、裏で下人が料理をこさえているらしい。気づけば炊き込んだ釜飯の良い香りが漂ってくる。料理を待つカダヒコとテンネは、居間で老夫婦と他愛のない世間話に興じ、ミカセオとツナコは縁側でだらだらしていた。暗い色の木の床の程よく冷えた感触が足裏からひたと伝わる。民家というより広い屋敷で、廊下は七メートルあった。ツナコがはしゃいで廊下を走るのをミカセオが必死に止めている。その姿は車道へ飛び出そうとする我が子を必死に止める母親だ。
「ツナコ、こら……! ご厚意で食事をもらえるんだから大人しくしとけっ……て」
ミカセオに腕を掴まれたツナコがつるっと滑り、傍にあった籠を足で蹴倒した。籠からゴロゴロとコードの絡まった電子機器が転がる。ツナコは何気なく取り上げた錆び塗れの携帯ゲーム機をミカセオに見せると、ミカセオは「げっ」と顔を背けた。
「キカイ! き、気味が悪いっ……やめてくれーっ」
ミカセオから解放されたツナコは赤錆びたゲームボウイなんたらを手にしたままふらふら廊下を歩いていく。今度は居間の方からカダヒコやツナコの悲鳴が聞こえた。
「興味深い反応……」横のエリスは烏賊みたいな服から取り出した手帳に走り書きを始めた。
「地球に残された人類は複合機械(コンパウンド・マシーン)に対し生理的ともいえる拒否反応を示す。大がかりな遺伝子操作が行われた可能性あり……」
「テンション上がってる?」
「むしろ君は絶滅したと思われていた地球人にロマンを感じないの……? どういう進化を遂げたのか……とか」
「だって俺も地球人だし」
エリスはハァと俺から目を背け囲炉裏のある居間へ。俺も向かうと、ちょうどミカセオがツナコの手からゲーム機を叩き落とした所だった。
「他人ん家の物を勝手に引っ張り出すな」
「ここにはそういうのがたくさんありますよ」
老人は笑顔を崩さない。「お料理を持って参りました」さっきの少女の二人がお盆を四人の前に置いていく。
「さあさ、食えない物より、此方を」
お盆にはタケノコの炊き込みご飯、白魚の煮付け、彩豊かな山菜と味噌汁。そして湯気の漏れる土鍋を開けば血色の良い猪肉がグツグツと蒸せっていた。
「おお、旨そうな……!」カダヒコが頬を綻ばせた。本当に美味そうだ。
「食べても……?」テンネが念を押す。
「勿論ですよ。好きなだけ食べて下さい」
「じゃあ、いただきまーす! うーん……! 美味しっ」
炊き込みご飯を頬張りほくほく顔のテンネ。味噌汁を啜り具をかきこむカダヒコ。エリスは一品一品をメモしている。
「じゃあ僕も……頂きます」
拙い持ち方で箸を握り、炊き込みご飯を持ち上げたミカセオだったが横で固まる儚げな少女に目を止めた。
「うー……うー……」
「なんだツナコ。お前は食べないのか? わっ」
気でも狂ったのか、ツナコがミカセオの手首に噛みついた。異変に気付いた面々が呆気に取られた顔で二人を見つめている。
「いてっ。何するんだツナコ! 痛いじゃないか」
「うぁう」
(ゾンビ映画だったら感染してるな……)
ミカセオはすりすりと手を擦っていたが、見る見る内に顔色が変わっていく。突然、「わあーっ」と素っ頓狂な声をあげ、慌てた様子で立ち上がった。
「なんだお前。そんな驚いて」
「だって、米が動いて……っ。いや、米だけじゃない。ぜ、全部そうだっ」
「ミカセオどうしたの。ご飯は普通よ」
「そうですよ。疲れてらっしゃるのでは?」
老夫婦は心配そうな顔。ツナコは激しく頭を振った。
「違う! みんな食ってはならん、これはまやかしだ! おのれーッ」
ミカセオは不意に腰の剣を抜くと老婆に斬りかかった。袈裟斬りにされた老婆の体がゆっくりとイグサのご座に斃れると、その斬り口から何万という羽虫の群れが飛び出した。
「ど、どうなっているっ」
「ひっ、ご飯がっ。なによこれ、う、うえぇーっ」
カダヒコが狼狽え、テンネが口の中のモノを必死に吐き出している。
今や俺達にもそれが視えていた。炊き込みの飯の粒一つ一つが、いや一匹一匹が、茶碗の中で小さく動いている。さっきまであんなに美味しそうだった料理の全ては虫の集合体でしかなかった。
「おお、我らの用意した食膳を残すおつもりか。これは無礼な。米の一粒まで喰えっ。喰えっ。喰えっ」
老人の体が蠕動する。それまで人の形を保っていた虫の塔が倒れた。
「逃げろ!」
民家を飛び出したミカセオら四人に気づき、人の形をしていた里の人々はぐらりと崩れ虫の群体に変わっていく。地上へ繋がる坂の上からはオニの歪んだ慟哭が轟いた。
「ハレ! おみつり様の能力で地上のオニだけでも追っ払えないか?」
「マキヤは勘違いしてます。おみつり様はヒトの超能力を発動させる為の補助輪でしかないのですよ。おみつり様本体に何の力もありゃしません」
「使えないAI」
「だからボクはAGI!」
既にそこら中の壁という壁を夥しい数の虫が這い回り、羽音は地響きの様に空気を震わせている。宮窟そのものが胎動していた。エリスは青褪めた顔でいつでもフローギアを頭から外せる準備をしている。
「おいこっちだ! 早ぅ!」
誰だか知らないずんぐりした煤汚れの目立つ男が民家の裏手から手招きしている。他に行く当てもないので四人は其方へ走った。這わないと潜れないデコボコした横穴へ男が入っていく。
「どうした続かんかっ」
穴の奥から男が怒鳴る。ツナコがするっと穴へ消え、残りの三人も意を決し狭い穴道へ身を投じた。
「ハレ、穴の先はちゃん地上へ通じているのか?」
「現在チェック中です……」
「じゃあ私は一旦ギアを脱ぐ。虫は嫌」
「俺だってイヤだ」
俺とエリスは二人してフローギアを外すと、同時に溜息をついた。船の中がどれだけ安全で恵まれた場所か、地獄の様な光景を見た後に実感させられる。
気を利かせたハレがドーナツと紅茶を例の自律カート、ジャンクダルヌ号で運搬してくれていた。
「現在おみつり様を移動させて彼等と合流させました」
「サンキュー、ハレ」
人工汎用知能にお礼を言うと、俺はエリスの方を見る。下手に席が離れているのも、なんか気まずい。
「あーと、さっきの動くご飯粒見た? エグかったよねマジで」
「思い出したくない」
ドーナツを齧るエリスが不機嫌そうに言った。
「ごめん。……それでも、フローギアを? 俺はギヲンを探すって目的があるけど」
エリスはドーナツから視線を外し、俺を真っすぐ捉えた。
「この船の目的は、地球の調査及び開拓用ナノマシンの管理運用。私はゴーホーム計画に携わる一員として忠実に職務をこなし、今の地球の現状を把握し、実地を間近で観測したい。それに何か問題が?」
「そういえばナノマシンプログラムの実行は中止になったのか? 昨日は上層部に掛け合うって」
「連絡は、した。回答はまだ」
「そっか」
「納得してくれた?」
「ああ」やけに丁寧に説いてきたな。
「……私個人としても地球には興味があるから。とりあえず彼等が竹林を抜けるまでは見届ける」
エリスの言葉に俺は軽い気持ちで頷く。
今回のギヲン候補はさすがに外れだ。じゃあ次だ次。
フローギアを被る直前、フェイスシールドの隅に映り込んだ室内の接続機器の明滅する光点の煌めきに一瞬目を奪われる。
彼等が竹林を抜けるまでは見届けよう。
それがただの希望的観測に過ぎないと、この時はまだ思わなかった。
ビル明かりの無い世界の夜は月の明かりが主役だ。竹林に浮かぶ赤橙色の大きな月を正面に据えながら五つの人影(一つは大きな竹籠を背負っている)を俺とエリスは俯瞰で追っていた。真夜中の風が竹林を流離い笹葉の擦れるざあざあという音が耳を涼やかに洗っていく。
「ここまで来れば大丈夫じゃないか」ミカセオが男に声をかけるが、
「いいやまだだ、もっと離れる」煤汚れの男が唸る様に返した。
「あなた名前は何と言うの?」
テンネの問いかけに男は酒焼けた声で「アトリ」と答えた。
「あの偽りの里に踏み込んで十五日、逃げる機会をずっと窺ってた」
「捕まってたのか。あそこはなんだ」
「あれはアリジゴクさ。どんなに頑張っても里から出られねえ」
「なぁに、このまま東へ行けばいい」とカダヒコ。
「……お前さん達、里の食いもんには手をつけたか?」
「俺とテンネは食っちまったよ」
彫りの深い目元からアトリは憐れみの眼差しを二人に向ける。
「そりゃあ不味い」
「ああ、マズかった。未だ口が苦い」
「そうじゃねえ。そうじゃねえ……」
アトリはぶつぶつ言いながら足を速めた。
「何かあの人変」というエリスに「ずっと虫の化け物のとこにいたんだ」と俺は同情。
竹林に注がれた月光を頼りに歩き続ける五人。やがて小休憩を取ることになり交代で見張りを始めたので、俺とエリスは一度フローギアを外した。ほんの、十分ほど。だから再びギアを被ると五人がバラバラになっていて、俺もエリスも焦った。アトリ一人がさっきと同じ場所で待機している状況だ。
「何があったんだ。オニなのか?」
「ハレ、説明を」
「それがね……カダヒコとテンネが持ち場を離れて元来た道をどんどん引き返しちゃったんだ。今急いでミカセオとツナコが追いかけてるところ。アトリは何か知ってるみたいですよ……怪しいね。こいつが犯人なんじゃないの?」
「適当なこと言うな」
しばらく待っていると、へとへとになったミカセオと、月に見惚れるツナコの後ろからバツの悪そうな顔の二人がとぼとぼ歩いてきた。
「おう、正気に戻ったか」
焚火を囲んだアトリが地面に胡坐を掻き四人を見上げる。ミカセオが腰の剣を鞘ごと地面に突き立て言った。
「アトリさん貴方は、何か知ってるならワケを話してくれ。二人とも己が何故こんな行動を取ったか覚えてないのだ!」
アトリは自身の髭面を分厚い掌で揉んでいる。
「分かる、分かるとも。俺もなかなか竹林から出られねえ。逃げようとしても、ふと気づくとまた里に向かっている。だろ?」
カダヒコとテンネがこくこく頷く。
「んじゃあ訊くが、そっちの二人はどうだよ?」
アトリに指を差され、ミカセオとツナコを顔を見合わせた。
「僕らは別に……平気だ」
「そうだろうさ。一緒に里に入ってんのにそっちはおかしくなって、こっちは何ともねえ。何故だか判るかな」
「まさか。虫を食べたから……?」
テンネの言葉にアトリは大きく頷いた。
「あれを食っちまったら脳の虫に行動を操られる。だから食ったヤツはしばらく里に釘付けになるんだ」
「そんな……」
テンネの顔から血の気が引いた一方でカダヒコの顔は上気していた。
「さっきのは偶然だ! 寝ぼけていただけだ。直に夜も開ける、テンネ行くぞ」
「あ、兄さん待ってよ」
先立つ兄妹を不安げにミカセオは見つめていたが、視線をアトリに向けた。
「貴方はそういう衝動は出ないのか?」
「ん、ああ実は二、三日前から体が急に軽くなってな。今度こそは、と思って今回逃げ出したのだが、思った通り良い感じだ! うわははは」
アトリは機敏に立ち上がると兄妹を追いかける。
「うぁう」
「ツナコ、僕達も行こう」
「頑張って……」エリスがぽつりと言った。
五人の行方を追ったはいいが、どう見ても進捗は芳しくなかった。ちょっと歩くとテンネかカダヒコ、あるいは両方の目の焦点が合わない状態になって、ふらふらと元来た道を引き返してしまう。それをミカセオ達が押さえつける。進んでは戻り、進んでは戻る。気づけば朝の白みも取れて、お天道様が高くまで昇っていたが五人は同じ道を何度も往復するばかり。一向に竹林を出られずにいた。
正気に戻ったカダヒコとテンネが放心状態で柔らかな土の上に座り込む中、
「オイ。いつまで続ける気だよ」
アトリが汗を拭うとミカセオに詰め寄った。
「もういい加減、アイツ等は駄目と分からんかね。あんちゃん。俺とあんたと嬢ちゃんの三人だけでも竹林を抜けるべきだろう。可哀想だがあの兄妹は置いてな」
「それはダメだッ。彼等はな、僕等が処刑されかけた時、手を差し伸べてくれた恩人なのだ。恩を返さず見捨てられるものか」
「そうかいそうかい。だったら俺は独りでも行く。悪く思わんでくれよ」
「ああ達者でな」
アトリは分厚い手を大きく振りながら、一人で行ってしまった。
「参ったな……くっ……」
立ち尽くしたまま途方に暮れるミカセオに思うところがあるのか、ツナコがミカセオの背中を擦っていた。
里へ引き返そうとする衝動は里から離れれば離れるほど増すらしい。いよいよどうにもならなくなり、ミカセオは二人の足首を近くの二本の竹に縄でぐるぐる縛り上げ、身動きを取れなくした。
やがて、陽が傾いて黄昏の色が竹林を染め上げていく刻。「うおぉーっ!」という咆哮が離れた場所からあった。それは人の声と思えない常軌を逸したものだった。
「なんだ、ありゃ」疲弊を隠さずカダヒコが呟く。
「まさかアトリさん、じゃない……?」
恐々呟かれたテンネの指摘にミカセオがハッとする。
「きっと、何かあったのだ。様子を見てくる。ツナコはここに……寝てるのか」
ツナコはおみつり様の竹籠に体重を任せ口から涎を零していた。
「ツナコちゃんはわたし達が注意を引いとくわ」
「ミカセオ、充分気をつけろ」
「解った」
ミカセオが三人の元を離れた。俺は頭上に訊く。
「ハレ。声のした位置は?」
「今やってます……。ボク優秀なので……」
不意に場面が変わり小川のせせらぐ開けた土地が目の前に現れる。鬱蒼と繁る竹と竹の合間、黄金色の空が見えている。そこでアトリが大の字に寝転がり、「うおおおおおっ!」と腹から大声を発している。
「何やってんだあの人」
「ねえ様子が……」
エリスが言い淀む。確かに変だ。目は虚ろ、顔の表情も引き攣っている。手で地面をバタバタと叩き、土と枯れ葉が舞っている。
「こんな目立っちゃあやばいですヨ」
ハレの不安はあっという間に現実のものとなった。声を聞きつけたオニらしき影が三体、がーっと竹林の中を駆け降りてくる。その姿が露わになって俺は唾を飲んだ。オニの図体は大きくやはり異形のそれだが、どのオニの体にも大きな傷痕があった。まるで内側から破裂して、また塞がった様な生々しい痕。それが幾つも。それに様子もおかしい。
「オニも病気に罹んのかな」
「ああ、見てられない……」
エリスの半透明の体が乱れて消える。彼女がログアウトした後も三体のオニはアトリを囲んで、しばらく値踏みする様に足元の男を見つめていたが、やがて一斉に覆い被さり、アトリの体を食い千切った。俺は目を瞑った。骨のかち合う音、肉の千切れる悲惨な音が響きアトリの断末魔が断続的に空気を裂いたが、ある時ふっと止んで、今度はピチャピチャと下品な咀嚼音が辺りに満ちていく。
「マキヤ、あれ……アトリの体を見て下さい」
「な、なんだよ」
ハレに促され、捕食シーンに目をやった俺は「げっ」となった。アトリの内臓、筋肉、血液の中を細くて白い虫が大量に入り組んでいる。アトリの死体は寄生虫の巣窟だった。それをオニが食らっている。そんな中、オニの一体の背がバチンと裂けて中からカラフルな虫共がわんさか飛び出すと隠れ里の方へ消えていく。オニは気にも留めないで虫の泳ぐ血肉を食らっている。全身の傷痕は、虫が体外へ這い出た痕だったのだ。
あまりの悍ましさに俺は吐きそうになり、再び顔を背けた。
「オニすら虫の苗床かよっ」
「どうやら、人はただの中間宿主みたいですネ。隠れ里でご飯を食べた人は一定時間が経つと里を下り、オニに食われるべく行動を寄生虫に操られる……。虫はオニの中で今度こそ成虫になって、再び里へ帰っていくんですねー」
「そんな、こんなの。焼き払わないとダメだ。地球が何で……未来が終わってる!」
「ボクの推測では、だからナノマシンで浄化しようってなったのです」
「いや人間までナノマシンで死んでるよ。とにかくもう、たくさんだ!」
俺は堪えきれずヘルメットを脱ぐと、エリスを無視してTCRを飛び出しトイレに駆け込んだ。
それから少し経って落ち着いた俺は、TCRに戻ってきた。
竹林ですーすー寝息を立てるツナコが見られて俺はほっとしたが、同時に竹に縛られたカダヒコとテンネを目にすると俺の心は暗い海の底へ沈んだ。横に立つエリスが、今までのことを説明してくれる。ミカセオも例の光景を見たらしい。アトリの顛末を訊かされたカダヒコとテンネはショックを受け、口数がめっきり減ってしまった。
「あの、マキヤ君」
少し言いにくそうにエリスが言った。
「私が言うのもだけど、例えば時間を巻き戻して……彼等の運命を変えられたりしない? あれさえ食べなければ、二人はきっとこんな思いをせず済んだはずで――」
「しない」
「え?」
「タイムリープはしない」
言ってしまった。猛反発を食らうと思った。が、エリスは思いの外静かだった。「わかった」と呟くと、それ以上何も言ってこない。
「……責めないの? 薄情だって」
「何で。助けられるのに助けないから?」
俺が頷くとエリスは視線を流し、近くの竹の節目を透けた指でそっとなぞる。
「力を得ると、自分に何か使命があるって勘違いする人がいる。けど、そんなのは無いよ。どんなスーパーヒーローだって寝てる間は民間人を助けない。人助けは使命じゃなくて自己満足……だから」
エリスの理論は小難しかったが、とりあえず俺を慰めてくれたらしい。
「なんか、少し気持ちが楽になった」
「そう。けど四人の問題は解決しないまま」
「うーん……」
しばらく何も起こらなかった。空は曇って闇一色。静まり返った竹林でパチパチと焚き火ばかり音を立てている。ツナコやテンネがくうくう寝息を立てる中、ミカセオは枯れ木をポソッとくべた。竹林の暗闇を赤々と照らすオレンジの火は燃料をぺろり平らげると一回り大きくなった。
昼を摂ってくると言い、エリスの姿が揺らいで消えた。そのすぐ後のことだった。
「ミカセオ、ちょっと近くで話せるか」
カダヒコが掠れ声で言った。ミカセオはそっと立ち上がると、焚き火を見つめる仲間の元に寄った。
「どうしたのだ。縛りがきつかったか」
「いやこのままでいい」
二人は並んで座ったまま、しばらく焚き火を見つめていた。
「ミカセオ。お前に頼みがある」
「なんだよ。改まって」
「落ち着いて聞け。俺とテンネは、もう助からん。虫共の食い物にされるぐらいなら、俺達を殺ってくれぬか」
「な、何を――」
「しっ、声を立てるな。出来ることならテンネは、何も知らずに……このまま……」
カダヒコは言葉をぐっと飲み込むと、向かいの竹に縛られたまま眠りこける妹を見つめる。
「カダヒコ。それは、無理だ」
「じゃあ俺にテンネをやらせるつもりか」
「よせ、へんなことを言うな」
「後生だ。憑(たの)む。最早、こうするしか無い」
「……本気で言ってるのか。本気で僕に」
「お前にも解るだろ。さあ、やれ……やれッ!」
カダヒコのシャウトが暗闇に消える。
(マジか……)
俺はどこか浮世離れした世界を眺める様に、彼等のやり取りを見つめていた。
ミカセオは真っ暗な顔で俯いている。そしておもむろに立ち上がり、再び焚き火の前へ座った。ミカセオの傍らに、鞘に仕舞われた剣が置かれていた。焚き火の明かりに照らされたミカセオの顔からだらだらと脂汗が伝っていく。
十秒、二十秒、時間が過ぎていく。息の詰まる空白だった。三十秒。四十秒。このまま何も起こらなければいい。そう願った時、ミカセオは立ち上がりざま鞘から剣を引き抜いて焚き火をグッと踏み越えた。
足元を舞った土埃に、シャーッと鮮血がかかった。手慣れているわけではなかったが、ミカセオは何かに導かれる様に剣を奮い、そして事が済んだ。
はっはっと肩で息をするミカセオ。刎ねられたもの二つが竹林の土の上に転がっている。焚き火が揺らいで、ミカセオの顔が一瞬鬼の様に見えた時、怯えた声が暗闇から聞こえた。
「くっ、ツナコ。見てたか」
「あ。うう、うぅううっ!」
「ツナコ……落ち着いてくれ」
苦しそうな声を上げるツナコの口を、全身返り血を浴びたミカセオが押さえた。俺は無言でフローギアを脱ぐと、エリスが帰るのを待たずTCRを出た。
その日はもう、俺はTCRに戻ることはなかった。
目が覚めていた。まだ四時半。また、自分の心が弱っているのが分かった。脳裏には未だカダヒコとテンネの死が焼き付いている。次に浮かんだのは寄生されていたアトリのこと。ナノマシンで苦しみながら死んでいったヤバイの人々のこと。アエズの恨めしげな顔。そして両親と兄貴。みんなの死が連鎖反応の様に頭に浮かんでは消えていき、呼吸が浅くなる。
(パニックになるな、大丈夫だ大丈夫なんだ……)
意識的にゆっくりと呼吸をした。自分がおかしくなったみたいで嫌だ。
無理やり寝ようとしたが結局一時間経ってもダメだった。
(暗いせいで色々考えてしまうのが悪いんだ)
俺はベッドを抜け出した。
誰か人に会いたい。初夏の気候に設定された薄暗い船内を俺は歩いた。人が恋しいなんて初めてだ。でも朝早すぎて誰も見かけない。ふらっとC区画のセラピー室に入った。当然誰もいやしない。
「きっと俺が一番利用してるよな、ここ。はは……」
滝の音、鳥のさえずり。苔生した自然。ここにいると空っぽになれた。
何も考えないまま、気づくともう一時間経っている。さすがに飽きが来てセラピー室を出ると、船内照明は朝を再現してだいぶ明るくなっている。
通路を歩いていた俺は案内図に目移りした。英語で書かれた案内図は俺の言語野に合わせて自動で日本文に上書きされていく。
船内に気持ちの落ち着く場所がないかずーっと眺めていくと、A区画にある部屋の一つに目が留まる。
「栽培室……?」
葡萄と苺を同じ空間で栽培していて、好きに採って良いらしい。
宇宙イチゴ狩り。それは別にどうでも良い。でも本物の緑が見られる。俺の足は自然とA区画に向いた。
栽培室のドアが開くと大部屋全体ビニールで閉じられた風景に出くわした。
(……なんだ。ビニールハウス内で畑を仕切ってるだけか)
半透明ではっきりしないが隣りがブドウ畑のようだ。
足元はふかっとした土が敷かれている。二列並んだイチゴ畑には程よく熟した苺が赤い宝石よろしくころころと実っていた。緑を見たくて来たわりに口が疼いた。
「食べちゃって良いんだよな……」
良さげなイチゴをもいで口にすると甘酸っぱさが口の中に広がった。味覚灯無しでもちゃんとイチゴの味。もう一個。当たりだ。俺は気分を良くして隣りの区画に入る。思った通り背丈のあるブドウの幹が等間隔に立ち並んでいて、絡まった弦と大きな葉っぱの合間から蘇芳色の葡萄の房がたっぷり垂れ下がっている。その奥の白い丸テーブルの傍に二つの人影があった。
(アーデイと、あの後ろ姿。エリスだ)
「よっ。おはよー……二人とも早いね」
「マキヤ君」
「……え?」
エリスは真っ青だった。振り返った際に彼女の手が当たって、テーブルの上のティーカップが揺れる。アーデイは赤葡萄の蔦の傍で、十字架にかけられたように両手を広げていた。その顔に生気はなく、口元から涎が滴っている。
「どうした?」
「今すぐ人を呼びに行こうとしていて――」
「アーデイ……?」
突っ立っているアーデイに手を伸ばしかけ、途中で手が止まる。彼の眼鏡の奥の瞳が乾いて見えた。一向に瞬きをしない。これじゃまるで。まるで……。
「アーデイが死んでる」
思ったままの言葉が口から出ていた。
エリスが人を呼びに出ていって、またハレの緊急放送も開始され続々とビニールハウスにやってきた面々はアーデイの姿を見るなり一様に言葉を失っていく。寝起きらしき面々に混じり、マリーだけ髪が濡れているのが気になった。
その場は船長とエリスに任せ俺達は科員食堂で待機した。
それから少しの時間が流れ、二人が食堂にやってくる。
しばらくは誰一人、口を開けなかった。やがて腕組みしたカインが息を一つ吐き、重たい空気を破った。
「……皆に伝えなくてはならないことがある。アーデイ・パタールが、亡くなった」
「わざわざ言わなくてもな、そんなことは全員知って――」
「……物事には順序があるんだ少し黙らないか!」
カインの剣幕にサバタが肩を竦める。ゴーシュがツートンカラーの髪を掻きながら尋ねた。
「……それで、何で死んでたんだ?」
エリスの唇が静かに動いた。
「私と船長、あとハレのサポートで死体を検めた。その結果、死亡推定時刻は午前五時四十五分から六時十五分。この三十分間に犯行が行われた。死因は、窒息死だった」
「窒息って……喉に、葡萄詰まらせたとか?」
「首を絞められて殺された線もあるな」
「違いますゴーシュ。違いますサバタ。食道に異物は無かったし首に扼殺痕もなかったのです」
降ってくるハレの声に俺は天井を見上げる。スピーカーは埋まっているのか、ただ六台のシーリングファンが低速で回っていた。
「地上で窒息……これはやもすると、名探偵ゴーシュの出番」
「ああ、その必要はないんデス。彼の体内とテーブルにあったコーヒーから筋弛緩剤が検出されましたから。副船長は薬剤のたっぷり溶かされたコーヒーを飲んだことで呼吸器系の筋肉が弱まり、その結果呼吸不全で……ということです」
ゴーシュは、すんとした。
「どこにあったんだよそんな毒物」リックに訊かれ「医務室です」とハレが即答。
「何で医務室にそんな危険なものが……」
「元々はひどい肩こりを軽減したり、そういう薬なんです。地球を開拓する使命を帯びた選ばれし君達が殺しで使うだなんて想定、してませんからねえー」
「T、みたいな死に方は?」
俺の問いに「それは俺が答えよう」カインが両手を広げて言った。
「実はアーデイは生まれつきの障害で、首から下が不随だった」
理解が追い付かなかった。
「え……いや。アーデイはだって、普通に――」
「ナノマシンが周囲を浮遊し、脳の電気信号をキャッチして彼の筋肉を動かしていたんだ。透明なパワードスーツを想像してくれれば解りやすいだろう。主人が死亡した為にナノマシンはどうして良いか分からず、ああいう状態で停止したようだ。ともかく今回の件と彼の障害は、一切無関係と考えていい」
カインは一度言葉を切ると、皆を見渡した。
「これで二人目だ。レナータスで死者を二人も出したことは船長の俺に責任がある。マキヤの言っていた『裏切り者』の存在も視野に入れる。地球開拓に反対する人間の仕業かもしれない。火星への帰還を早めるつもりだが、とりあえず全員のアリバイを確認したい。まずは初めに――」
「ちょいっといいか。いいかな?」
「アリバイ確認を遮るなんて怪しいな。ゴーシュ・マンゲルシュタイン?」
サバタの挑発には乗らずゴーシュは水泳ゴーグルごとワシワシ頭を掻きながら俺の方を見た。
「あの、タイムリープすれば良くない? マキマキが」
みんな「あっ」という顔をして俺の方を見る。
「そうだマキヤ……君はタイムリープ出来るって自分から言ったな!」
「じゃあそれで時を巻き戻せばアーデイは……!」
マリーの顔がパッと明るくなる。
「お願いですマキヤさん。タイムリープしてアーデイを救ってあげてよ。ねえっ」
「……みんなの期待を裏切るようで悪いけど、俺は……『タイムリープしない』」
「へっ? 何言ってんの」
「ええっ、どうして!?」
みんな信じられないという顔で俺を見てくる。なんだよ、昨日はタイムリーパーってだけで犯罪者を見る様な目を向けてたのに。
「簡単に言うけど、歴史改変は掛け違えたシャツのボタンを直すみたいに楽な行為じゃないんだよ。やればやるほど異常が起こるというか。それに、死の事実を変えるって難しいんだ。一分後に落下するエレベーターから家族の手を引いて降りさせることすら、俺には出来なかったんだ」
俺の言葉に皆が押し黙る。
「アーデイが殺されたってことは、船にはきっと裏切り者がいるんだ。ということは望月槐の話も正しくて、この後に大きなタイムリープが待ち受けていると思う。こうなった以上、今後の流れを一旦見ておきたいんだ。毎回毎回タイムリープしてたら進まないっていうか……」
「つまり君は、アーデイを見殺しにすると言うんだな? そう言いたいんだな?」
眉間に皺を寄せたカインに問われる。周りの俺を見る目が失望に変わっていく。くそ知るか。
「そういうこと」
自分の言葉を自分で聞いて、ジェットコースターが落下した時のように胸がすっとした。
「……最低だな。君には良心というのがないのか?」
「なあ言ったろ? 古代人は屑野郎だって」
「そんな。ひどい……ひどい……た、確かに君にとっては昨日今日過ごしただけの、身近じゃない人かもしれないですけど、あたし達は乗船前からずっと一緒に過ごして訓練して、仲間でっ! 仲間、で……!」
マリーがポロポロと涙を零している。
「マキマキ案外ドライだね? アーデイもピチピチのギャルならワンチャン助かってたかなあ……」
「……なんと言われても俺は、タイムリープしない」
誰とも目を合わせたくない。
「でもマキヤ」
きっとリックは困り眉をして俺に訊いてきてるんだろう。
「君は地底人の女の子を助ける為に一度タイムリープしたんだろ? その時点では思いっ切り歴史を変えようとしたじゃないか。だったら……アーデイもさ。やろうよ」
「それは……俺は今までタイムリープを病気扱いしてきたのもあるし」
「それと、何の関係が?」
「なんていうか……」
自分でも言葉に詰まる。望月の影響で能力を扱える様になってからも、俺はこの能力を使う気がしなかった。捨てられたハンバーグのソースがもったいなくて巻き戻した時があったが、あれはソースを増やして食べ直すことにガチのマジで意味が無いって感覚で解ってたからこそやれたんだ。もう少し大事な場面で使うケースは夏休み中にいくらかあった。例えば隣り町の図書館に着いてから図書カードを忘れたのに気づいた時とか。中学の頃の友達グループと遊園地へ行って、最悪の思い出になった時とか。一番最初の期末だって。
それでも俺は文句を言いつつ意味を見出せそうなタイムリープは避けた。家族が死ぬのを、目撃するまでは。
(じゃあアエズは?)
アエズを助けようとしたのも、皆で菓子パーティをしている世界に到達したかったから。あの光景に映っていた誰か一人でも欠けた時点で到達できないのは明らかだった。でも俺は失敗した。だからもう、時間の流れに身を任せたい自分がいる。時間の流れをこれ以上かき乱したくない。
(何で?)
そうしなきゃいけない。何かが、そう言って……?
「――キヤ。おいマキヤ!」
はっとする。気づくと俺はカインに詰め寄られていた。
「これは、船長命令だ。タイムリープしてアーデイを救出しろ。君にはその使命がある。拒否は認めない」
「俺は……でも俺はタイムリープしない」
「しろ! この、貴様っ……! ならば仕方ない力ずくでも――」
カインが拳を振り上げる。俺は目を瞑った。
顔に、冷たい水がかかった。目を開けるとカインの顔半分が濡れていて、怒った面のエリスが空のコップを持って立っていた。
「少しは、頭を冷やしたら……! よりによって船長が乗員に殴りかかるって」
「……エリス、彼ならアーデイを助けられるんだ。だのに何もしない。そんなのはヒトの風上にも置けない。これは罪だ!」
「エリス俺は――」
エリスは俺を手で制止するとカインだけを見て言った。
「船長には、最後まで乗客を救助する義務がある。でも超能力者の一般人に課せられた義務は何もない。ただ他人を助けなかった……それで善悪をつけるなら、この世の九割の人はきっと罪人になる」
「は、詭弁だな」
「それに、アーデイ本人がコーヒーに薬を溶かしていたとしたら?」
「……なんて言った? エリス、君はアーデイが自殺したと言いたいのか?」
「大量に薬を溶かしたコーヒーなんて一口目ですぐ異変に気づくはず。なのに彼はコーヒーを一杯丸々飲んでいて、無理やり飲まされた痕跡も無かった。あまり考えたくないけど、もしアーデイが明確な自死を望んでいたとすれば彼が時を巻き戻したところで大した意味はない」
「そんなのやってみなければ……おい待てサバタどこへ行く!」
サバタは無言で食堂を抜けようとしていた。
「格納庫さ。要は殺人鬼が誰か分からねえってこったろう。面倒事に巻き込まれちゃ敵わねえや。俺は俺の船(ジョーコ・シャッソ)で過ごす。頼むから構ってくれるな」
サバタはポンチョ靡かせ颯爽と食堂を出ていった。ゴーシュが口元に手をやる。
「これは推理物なら確実に死ぬ動きだよワトスン君……」
「……おい! アリバイの確認!」
カインがサバタを追いかけていく。五人になった途端、人が減ったのを実感させられた。船の空調は何ら空気を読めないで場違いの初夏の季節らしさを食堂に与えていた。
結局、犯行時刻は早朝だったせいで七人全員にアリバイが無かった。カイン船長が火星前哨基地と連絡を取ることになり、俺達は一旦自室に引っ込んだ。
「もし地球再開拓計画の中止が決まれば、予定より早く火星へ帰還することになる……」
ベッドに寝転びながら俺の口が呟いた。
「ただ、そうなった場合もアーデイを殺した犯人が明らかになるわけじゃない。地球を離れる以上はギヲン探しも当然中止だ」
そうなったら望月との約束は……。
居ても立ってもいられずに無機質な部屋を出た。無意味に時間を浪費したくない。俺は再び栽培室へ足を運んだ。室内は加温され、ちょうど散水がされた直後のようだ。葡萄畑の方のビニールをくぐると小麦肌にポニーテールのゴーシュが赤葡萄の木に身を預けている。俺が傍まで近づいても考え込んでて気づいた様子が無い。咳払いして、やっと彼女が振り返る。
「ああマキマキ。キミも気になった? 現場に何かないかって」
「まあそんな感じです。俺がいると嫌……ですか」
「え、何で」
「だってタイムリーパーだし」
「あー平気平気。もし変なことされそうになったらこいつでぶん殴るから」
ゴーシュは満面の笑みで脇に巻いた作業ベルトの袋から大きなスパナを取り出してみせた。
「それは、良かった」俺の頬が自然と引き攣る。
「確かゴーシュさんは、あの時間……寝ていた?」
「そーそー。地球から回収した動作不良のナノマシンを解析してたら寝そびれて。四時を回ってたくらいから、ぐっすり。あーあ、集落の人を殺害した原因が分かるかもと思ったんだけどなー……」ゴーシュが目の下のクマをなぞった。水中ゴーグルの痕とクマが重なっている。
「何か異常なプログラムとかは……?」
「不良の原因はバラバラだけど、全て出航前に想定されたものだよ。人に危害を与えろ的なプログラムは見つからなかった。回収したナノマシンと地上で動作中のナノマシンにプログラム上の違いはないし、地球の人が亡くなった原因はアエズと同じナノマシンそのものに対するアナフィラキシーショックの可能性が高そうだ。それより今は現場検証しよう。ようしキミに決めたマキマキ! キミをワタシの助手に任命しようっ!」
「ゴーシュさんが探偵……?」
「『名』探偵だ。ということで助手一号、そこのテーブルに零れてるコーヒーペロッと舐めて」
「嫌です。何で俺が」
「ダイジョブダイジョブ。筋弛緩剤を溶かしたものだってエリスも言ってたじゃん」
「それの何が大丈夫なんですか」
「青酸カリじゃあるまいし、一滴舐めるぐらいで死なないよ。どんな農作物でも微量の放射性物質は含まれてる。それと一緒だよ」
本当に一緒か?
「ほらほら男は度胸度胸! ぺろってやる!!」
ゴーシュに促され、俺は渋々小指の爪でコーヒーの雫に触れ、舌に当てた。
「……うぇっ、苦っ!」
慌ててせっせと唾を吐く。
「ウワ、舐めた」
「……え!? だって舐めろって……」
「ごめん。まさかホントに舐めると思わなかった。で、どう? 青酸カリ?」
「そしたら死んでますよ。何か、すごい苦い」
「コーヒーは苦いよ助手クン」
「そうじゃなくて。明らかに異常な苦さってことで――」
「ははあ。エリスの『コーヒーを飲んだら異変に気付く』っての、本当だったか」
「……何で彼女の発言を疑うんです?」
「第一発見者ってのは怪しいんだ。それに、やけにキミのこと庇ってたじゃん。タイムリープしないマキマキのことを」
「それがなんなんですか」
「キミを庇うと見せかけて、実は『タイムリープさせたくなかった』んじゃないかってワタシ思ってんだ。自分が犯人ってバレるから」
「でも、昨夜だってエリスは、別件だけど俺がタイムリープしないことに理解を示して――」
「あー、だからキミがタイムリープしないと解ってて殺したのかも」
「……まあ、その可能性はあるかもしれないけど」
そう言いつつ、ゴーシュの推理を俺は内心で拒絶していた。あの場で唯一自分の味方をしてくれたエリスの言動を疑いたくない。
「つまりゴーシュさんは、エリスが第一発見者になったのが偶然じゃないって言いたいんですよね? 確かにエリスが早朝散歩していて偶然栽培室でアーデイの遺体に出くわすのは不自然か」
「あーいや?」
ゴーシュは小さく息を吸った。
「でもさー……彼女、結構神出鬼で、前から人のいないような時間に結構船内を歩いてるっぽいよ。船内を巡回してるっていうの? だから今日だけって話でもない」
「じゃあ彼女にしては不自然って程でもない?」
「うーん。ていうか、そもそも人のいない時刻に出歩いてるの変でしょ」
「それもそうか……」
話題が途切れ、俺は改めて辺りを見回す。天井を見上げて、俺はとんでもない物に気づいた。
「ゴーシュさん、あ、あれっ!」
天井を指差しながら声が上ずった。
「え? 『カメラ』がどうかした?」
「どうかしたって……あの角度ならバッチリ映ってるはずでしょ! 犯行の瞬間が!」
「あははぁ……まあ一応確認するか」
何でゴーシュはテンション低いんだ? これで犯人がはっきりするぞ。逸る俺とは対照的にゴーシュは乾いた態度でハレを呼び出し録画映像の再生を要求した。
「では死亡推定時刻付近の映像を出しますよ」
栽培室の空間上に光る窓が現れ、栽培室を俯瞰した映像が現れた。
「作物の成長を観測する為なので音声もないし、画質が荒いのは勘弁して下さいね」
「それでも顔の判別とかはっきりできる。何の問題もないよ」
時刻は午前五時三十分。誰もいない栽培室の映像が早送りで流れていく。
「……つーかハレ、お前今俺と天井で会話してるんだからさ、事件当時の音声とか聞いてないのか?」
「あーなんというかですね。まあ、カメラ映像を見ていけば分かると思いますヨ」
五時五十分。視野できる位置にアーデイがやってきた。テーブルの椅子に座り、葡萄を頬張りながら物思いに耽っている。気づくとアーデイのいるテーブルには既にコーヒーが置かれている。さっきまでは確かに無かったので、アーデイ自ら持ってきて置いたようだ。
「……あっ、ストップストップ!」
誰かが、栽培室に入ってくる。
「エリス……?」
彼女の両手にはプラスチック製の蓋付きコーヒー容器が二つ。エリスはアーデイに声をかけると、テーブルの椅子に腰掛け何かを話している。と、彼女がコーヒー容器の一つをアーデイに差し出した。アーデイはそれを受け取ると容器の中身をコーヒーカップに移し替えた。エリスも蓋を開けコーヒーを飲む。アーデイもつられてコーヒーを飲んだ。その時エリスは……笑っていた。
それからすぐ、アーデイの様子がおかしくなる。時間的には五分も経ってない。俺は食い入るようにそれを見つめた。アーデイは胸を押さえ千鳥足で葡萄畑を歩き回ったが、やがて十字架で磔を食らった様になり、そのまま微動だにしなかった。エリスは何事もなかったように席を立ち、そのまま栽培室を出ていったようだ。衝撃の映像に俺は言葉を失う。
「ハレ、映像を早送りしてくれ……」
「りょーかい」
それから三十分ほど経過すると再びエリスが画角に入ってくる。エリスはアーデイを見て驚いた様子で固まっていたが、おずおずとアーデイの体に触れ脈を測りだした。
「はあ……?」
その時、俺が映像内に映った。そこから先は俺の知った通りに物事が進んだ。
「じゃあエリスだ。犯人は、エリスだったんだ!」
「うーん。そうとも言えないかな」
俺の意識は自然とゴーシュの横顔に吸い込まれた。
「……何言って。は? 何言ってんですか、だってこれは動かぬ証拠で――」
「今の時代、カメラ映像に何の証拠能力も無いんだ。マキマキが勘違いするのも解るけどさ」
「ええ?」
「まあいわゆる『フェイク』ですヨ」
天井があっけらかんと言った。
「それっぽく作れるってことです。設置されたカメラの記録映像なんか誰でもリアルタイムで改竄隠蔽抹消が可能なんですよ。音声にしたってそうです。事実ボクは事件当時の栽培室での音声、一切拾ってません。ボクは気づいてなかったんです。ショックですよぶっちゃけ。君達が持っている生身の目や耳が羨ましい」
「具体的にどうやってフェイクなんか……」
「ポータルギアを使ってもいいですし。それ以外の携帯端末でも可」
「ええ……そんな緩いのか」
「二十一世紀の人はビックリするよな」ゴーシュが指折り数えた。
「でも時代が変われば紙幣の価値も変わる様に、指紋、DNA、監視カメラなんかの科学的証拠の価値は変わってく。映像にはエリスがコーヒー容器を持ってくる様子が映っているけど、この『持ってきた』という事実すらフェイクの可能性がある。二回目に現れたエリスからは本物だろうね、だってキミも見てるし。とはいえ――」
ゴーシュがグローブの嵌めた手で人差し指を立てた。
「今いる七人の携帯端末をゴリゴリに解析すれば犯人は分かりそうだ。まあレナータスの設備じゃ無理だから、解析は火星へ帰ってからの話」
「……その解析って、どれくらいで?」
「さあな? 警察が押収して色々裏取りとかするだろうから、何カ月も先じゃないの」
ゴーシュが俺の顔をぐいっと覗き込む。
「あや、浮かない顔?」
「いや……つまり犯人は、火星に到着すれば判明する……?」
ゴーシュが困ったようにサムズアップする。
「……じゃあ何で犯人はカメラのある場所でアーデイを殺したんでしょうか。捕まるじゃないですか」
「……犯人がカメラの存在に気づかなかったとか?」
「ゴーシュさん。存在を知らなかった人に心当たりは?」
ゴーシュは唇をすぼめ少しばかり考えた後、俺に向かって人差し指を突き立てる。俺はそっと、その指を除けた。
犯人は自ずと判明する。だが犯人を突き止める前に大規模タイムリープ事故とやらが起これば真相は闇の中。タイムリープは明日起こったって不思議じゃない。というか、たとえ俺が犯人を突き止めたところでタイムリープが生じれば殺人事件すら無かったことになる。
それでも犯人が誰か突き止めることに何らかの意味は見出だせるはず。仮に今回のループを防げなくても二周目以降は事件を未然に防いだり、色々楽になるはずだ。
「ねえ助手一号クン。もういっそタイムリープしてこっそり犯人の顔を見ちゃえばいいじゃん。そしたら捜査なんてしなくて良くない?」
「簡単に言いますけど、じゃあゴーシュさんは、『見てきましたよ。犯人は誰々でした』って俺が言ったとして信じてくれるんですか?」
「うううぅー……ん」
ゴーシュは唇をすぼめて唸っている。
「それに犯行現場を見られた犯人が俺を殺す危険だってあるんですよ」
「危なくなったらタイムリープしなよ? ピュピューンて」
(タイムリープには詠唱時間みたいなのがあって……!)
俺は言葉を飲み込んだ。こんな所で言い合っても仕方ない。代わりに俺はあることを頼んだ。
「ゴーシュさんって機関長ですよね。色々作れたりします? ちょっと、欲しい器械があるんですけど」
「うんま、パーツさえあれば。ここには第三機関室もとい工作室がありまして。例えば何がご所望なんだい?」
「盗聴器の探知機……」
「あー高いよ二十万」
「え?」
「ジョーダンジョーダン。でも何に使うんだそんなモノ」
「んなの、誰かに盗聴されてないか調べる為……です」
ゴーシュは呆気に取られた様に俺を見据えた。
「助手一号……アナタ疲れてるのよ」
「違いますって。とにかく必要なんですよ」
「まあ……簡単なので良いんなら夕方までに作ってあげられるかな」
完成したら自室まで持ってきてもらう約束を機関長から取り付けた俺は、栽培室を後にした。
レナータスの中央区画を囲う外縁通路は、人が死んだってのに長閑な気配が流れていた。時たまマイルドな風が踝を撫でる。梅雨入り前の昼下がりに迷い込んだみたいで体は心地良い反面、沈んだ心との乖離に戸惑った。セラピー室の前で一度足が止まりかけたが、かろうじて素通り。
そして俺は昨日ぶりにTCR(惑星地球化統制室)を訪れていた。
「ミカセオとツナコは大丈夫かな……」
チカチカと白い光点が蛍の様に明滅する空間に体を沈めた俺は、フローギアのヘルメットと対面する。が、なかなか地球に飛び込めない。その時TCRのドアが開いた。ヘルメットに映り込む後背の人影はエリスだ。振り返った俺は、すーっと表情を失う。
彼女は笑っていた。爽やかな微笑がアイツと重なった。
「望月……さん」思わず口がそう言っていた。
「モチヅキさん……だったら嬉しいの?」
エリスはどこか浮ついた表情を浮かべ壁面のパネルを操作する。ドアが素早く閉まり赤いランプが灯った。
TCRがロックされた。
「何でカギ……閉めた」
「だってフローギア中に殺人鬼に殺られたら嫌でしょ。それとも、君がアーデイを殺したの? まあいいよ別に。いっそ私も殺せば」
エリスはふんふん鼻歌を歌いながら俺の隣りの席に座る。
「バカなんだろうね。宗教信じる人って」
「え?」
「だって神なんているわけないって少し考えれば分かるよ。でも今の地球人からしたら私達は神そのものか。じゃあ、今日も優秀な私が導いてあげないと……!」
優越感に浸った顔で彼女はフローギアを被る。
「文明崩壊したニッポンへしゅっぱーつ!」
俺は戦慄すら覚えていた。おずおずとヘルメットを被ろうとすると、内側からハレの声が聞こえた。
「エリス、ちょっと変です?」
「変もなにも……何かしたのかお前?」小声で訊いた。
「いいえ? 医務室に彼女が来て、だいぶ落ち込んだ様子だったからちょっと幸福物質を増やすお薬を処方しただけです。ドーパミンとかセロトニンとか」
「つまりお前のせいだ」
「えーでもちょっとイケイケになってるだけで副作用の衝動買いとかギャンブル欲の上昇は見られてないしぃー……」
「お前のせいだろ」
「ボクは適切な処置をしました」
「不適切なんだよ」
AIと言い合いしながら地球へ没入した。
瞼を開けると、杉と檜の林立する小道を歩くミカセオとツナコがいた。気温がこないだより上がった気がする。だがキラキラした木漏れ日を浴びる二人の間には、何となく壁があるようだ。
「様子がおかしいねー……。二人に何かあったのかなー……?」
エリスが俺の顔を覗き込むように訊いてくる。
「そりゃ、前回あんなことがあったから……」
様子がおかしいのは君だ。近い。触れる筈のない体なのにドギマギした。
「ああ、そっか。ミカセオがカダヒコとテンネを殺したから」
エリスが身を引き背伸びする。
「でも……仕方ないよ。だって、寄生されて助かる見込みも無かったから」
エリスがくいっと俺の方へ首を傾けた。
「ねえ。もし私がああなったら君はどうする? 私から『殺して』って言われたら」
「考えたくない……ていうかちょっと、今日おかしいよエリス。休んだ方がいいんじゃないか?」
「私はおかしくなんてない。至って普通。おかしいのはこの船の方だよ……」
エリスは自嘲する様にくすくす笑った。今度は望月ではなくアーデイの死ぬ間際に笑顔を湛えていた栽培室でのエリスが脳裏にチラつく。
(いや違う。あれはフェイク映像だ。犯人のブラフに騙されるな)
独り心がぐらつく最中、ミカセオがツナコに声をかけた。
「海の抜け穴を越えてから、もうだいぶ歩いた。ナナトに来てからオニの一匹とも出くわしていない。さっき丘から集落が見えただろう。もうすぐ着くはずだ」
ツナコは小さく唸ると、ぷいっと顔を背けた。ミカセオもバツが悪そうに視線を逸らす。
「セックスしたのかな」
「……はあっ?」
「……そんなに驚くこと? 若い男女が二人旅……」
エリスに怪訝な顔をされる。俺は空を見上げた。
「し、してないだろ。確か、造者は性交すると溶けて水になるんだ」
ナナト国の天辺は突き抜ける様な碧色をしていたが、遠くの空は暗かった。
「もうツナコはヒトになっていて……したのかも」
「ツナコは処女だろ」
「へえ。どうしてそう言い切れるの?」
「どうしてって……」
「ねえどうして」
エリスの目が笑っている。頬が勝手に熱を帯びた。
「あのさ俺をからかってるつもりかもしれないけど後で後悔するのはそっちだぞ。今は薬で、ハイになってるんだよ」
エリスは小さく肩を竦めると明後日の方向に舌を出した。俺が呆れていると、視線の先の茂みの向こうで何かが横たわっている。気になって近づいてった俺は、その正体に気づき「わあっ」と声が喉から飛んでった。
死体の家族、家族の死体だ。父親、母親、幼い二人の子供。絶命していた。辺りには生臭い鉄の味がして、血を吸った土は赤黒く緩んでいる。
「オニの仕業……?」
エリスもさすがに畏まって俺の隣りで立ち止まる。
「……違う。多分刀創(かたなきず)、だ。ほら四人とも背中が……裂けてる」
「う。でも、傷口の割に血が出てない」
「そうなのか? じゃあ殺害現場が違うとか?」
「うーん……どうだろ。私は医者じゃないから」
エリスは目を伏せ四つの遺体から目を逸らした。
程なくして現地の二人も血の匂いに気づいた。しゃがんで死体に触れたミカセオは眉間をぐっと寄せる。
「まだ暖かい……。誰がやった、こんな……」
ミカセオはポケェとするツナコの手を取ると、静かにその場を離れた。が、それから十歩もしないで立ち止まると辺りを警戒するように小さく頭を振った。
「……ツナコ。いいか、僕の合図で走れ」
なんだろう。俺とエリスは周囲を見回すが、背の高い針葉樹が並び立つばかりで特段変わった様子はない。
いつの間にか陽は翳り、風に流された灰白色の朧雲がナナトの空を覆っていた。
「何もない」
「うん。静か」
エリスの言う通り、鳥の囀り一つ聞こえない。
静かすぎる。
何か決め事があったようだ。ミカセオとツナコが林道を駈け出した。流れの緩やかな小川に沿って二人は走った。
後ろから足音があった。気味悪い黒い影が二人を追いかける。小さな祠を通り過ぎ、林を抜け、岩肌の露出した小道に出た。少し先に草原と、集落のものと思しき煙が幾筋か見えてきた。
「あそこまで行けば」
「でも間に合わないっ」
エリスの切羽詰まった声。辻道でとうとう二人は正体不明の黒影に追いつかれた。
黒影はヒトの形をしていた。黒布で全身を覆い、頭には長い黒烏帽子。顔は痩せ細った鬼の木の面を被り、面についた白髪が顔の脇から垂れている。そいつの長い左袖からは日本刀が飛び出して、刃は陽光も無いのに激しくギラついていた。
緊張の面持ちでミカセオが口を開く。
「辻斬りか……。さっき林で、夫婦とその子らの屍を見た。お前がやったのか」
「その出で立ちはヤバイの民とお見受けする。御免。恨みこそ無いが、両人ともこの地で果てよ」
鬼面から加工された声が発せられる。ああ見えてボイスチェンジャーでも備わっているようだ。
「ツナコ。僕がヤツを足止めする」
「ううぅ」
ツナコはミカセオから少し離れたものの、それ以上は離れない。
「なんだ早く集落へ行け、行くのだっ」
「どうした少年。腰に帯びるソレはただの飾りか?」鬼面の下から低い声。
「ふざけた奴」血の気が引いて真っ白になったミカセオが、すーっと鞘から剣を抜いた。
「うむ、その目。私と同じ眼をしているな。罪無き者を殺めた眼だ」
「黙れ」
ミカセオが三歩前に出る。
「いざ」
鬼面の男がすっと刀を構えた。
(うわダメだ)
ミカセオは絶対勝てない。素人の俺でも察する。鬼面の男のどっしりした佇まいが全て物語っているというか……。
「ハレ、おみつり様を通じて指示――」
「神羅振(カラフル)を使えッ!」
俺の言いたかったことをエリスが叫ぶとツナコの背負う竹籠が連動して物を言った。はっとなったミカセオは、剣の刃を己へ向け左腕を刻む様に叩いた。
だらぁりと新鮮な血液がミカセオの二の腕を伝うと、ツナコの背負った竹編み籠がガタガタ震え、朱漆の巨大土偶機械が満を持してナナトの地に現れた。
「面妖な……ヤバイの呪(まじな)いか」
「……おい、こっちだ!」
ミカセオがさっと剣を振った。鬼面の男がミカセオに注意を向ける。と、土偶の右脚が高い音を立てて粉砕された。
「ぐっ。なにっ」
鬼面の男が咄嗟に面を押さえ後ずさる。ミカセオの目くらましが効いたらしい。
「今っ!」
ミカセオはツナコの手を引き集落に向かって駆けた。鬼面の男は苛立たしげに刀を揺らすと、ふらつきながら林の方へ消えていった。
「護れた……の?」
「やるね。エリス」
「……やった!」
俺とエリスはハイタッチしようとして寸でで掌が止まった。どうせすり抜けてしまうのがオチだ。それでもぎこちなくハイタッチの真似事をして、このミカセオ達が生きている安堵感を二人で分かち合った。
草原と灰白色の岩ばかりの地に展開された中規模の集落が、このナナトの『中心地』らしい。ヤバイより人口はだいぶ少なめに見えるが、南側の崖からはディープブルーの海が望め、景勝の地と呼ぶに相応しい立地だった。住居様式はヤバイと変わらずだが、一部の住居は畳が敷かれてどことなく和風な感じがした。ミカセオとツナコが通された座敷もそうで、庭にはアカマツが植えられ温泉まで湧いている。
「お二人ともお怪我はございませんでした?」
屋敷の子なのか、年端も行かない少女が尋ねる。ツナコは土偶ロボが再収納された竹籠をどすんと置くと、裸足のまま庭に出てしまった。ミカセオは同行者を気にしつつ、
「ああ、左腕を少し斬ったがな」
「まあ大変。手当てしませんと」
「いい。そんな大げさな」
「いいえ、やらせて下さいな。客人の傷の手当を怠ったなど御父様に知られたらかんかんになります故」
「では、頼むが」
薬草を灰にした軟膏を塗りつけたらしい麻布を、少女は手際よくミカセオに巻いていく。その間に、どこかへ行っていたエリスが帰ってきた。
「集落の男達が林の中を捜してるけど、見つからないね。何者だったのかな、あの鬼面」
「鬼の面を被ったオニだったんじゃないか?」
「……本気で何言ってるの。オニが鬼面を被る理由は……? それにあれは人の言葉を話していた」
「隠れ里の虫だって喋ってたぞ。人語を理解するオニとか」
エリスが黙りこくる。何か冷めてるな、薬が切れたんだろうか。確かめてみよう。
「さっきさ、エリスは二人が『何をした』って言ってたんだっけ」
「……なに?」
「だから、ミカセオとツナコが『ナニをした』って言ってたっけ」
エリスが俺を睨んでくる。これは薬が切れてる。
「……ところでそなた、名は?」包帯の出来を見ながらミカセオが訊いた。
「あ、わたくしオミと申します。ナナトの国の王であるヒツマ御父様の一人娘です」
「そ、そうだったのか。僕はミカセオ、あっちの落ち着きのないのはツナコ。王様の御子に包帯を巻かせるなど、大変失礼した」
「いえいえわたくしなど、まだしがなき娘っ子故。御父様の足元にも及びません」
「幼いのに、えぇと……殊勝? ですね」
「そ、そうでございますか? いえ、ふふふ」
ミカセオの褒め方はお世辞にも上手いといえなかったが、オミは歓びを隠しきれていない。
「けども、一見するとここはオニに対し少々無防備では? 犬の数も不足しているようだ」
「そうでしょうか。集落の南は海と崖故、そちらに見張りはいりませぬ。なによりこのナナトにオニなどおりませぬ」
「オニが、いない……?」怪訝な顔でミカセオが尋ねる。オミは強く頷いた。
「御父様がこの地に巣食うオニ共を退治されて回ったのです。名刀マサムラで、ばっさばっさと」
エア日本刀を振ってみせるオミ。俺ははっとする。
「オニがいない……まさかギヲン?」
「ナナトだから」
エリスにあっさり否定された。その横で、
「たとえ手足を落とし退けたとて、後からそれを取り返しにくるのがオニというものです」ミカセオが前のめりに言い返す。
「奴等を誠に、この国から滅ぼしたと……?」
「ええ、ええ。なにせマサムラは宮窟より出土せしダイイッキューキューイブツです故。オニの血を吸うのですよ」
「なるほど……」ミカセオは納得しているが俺はよく聞き取れなかった。
「ダイイングキューブリック?」
隣りでエリスが溜息をついた。天井がよく通るアニメ声で喋る。
「第一級旧遺物、文脈から考えるとそう取れます。文明崩壊以前の科学で造られた機械等を指しているんじゃないですか? ヤバイ国の民が祀っていたおみつり様もその類の筈ですよ」
うんうんとハレに同調するエリス。ツナコに放置された竹編みの大籠まで真っすぐ歩いたエリスは、その透けた手で籠をノックする。
「土偶の姿をしているのは、きっと機械であることを隠す為」
「何で」
「憶えてない? 隠れ里でミカセオ達が電子機器に対し強い拒否反応を起こしたこと」
「ああ、そんなことあった」
「だから――」
そんな話をしていると、
「御父様、帰りが御遅いです」オミが不安そうな顔で言う。
「ああわたくし、見て参ります故!」
「危ないぞ。集落にいないと」
「ご心配なさらず。御父様の帰りが遅い時は大抵、崖の下にある祈りの間で瞑想をしているのですよ。お二人はうちの温泉にでも浸って疲れを癒して下さい。浴衣もあります! では!」
オミは白麻の裾を揺らし屋敷を出ていった。オミの消えた方を見つめていると、エリスが咳払いする。
「話の続きをいいかな。私の推理だと、現生地球人は特定のモノに対して強い嫌悪感を抱くよう遺伝子操作がされていて、それを緩和する為のオブラートとして機械に見えないよう装飾がされている……そんなとこだと思う」
「……はあ、なるほど。なんかエリス、すっかり真面目だな。薬が効いてた時はもっと面白かったのに」
冗談で言ったつもりだった。だがエリスの中で何かが弾け飛んだらしい。
「薬を飲めばいい? 分かった」
エリスが首に手をかけると半透明の体が消えた。慌てて俺も現実に戻ると、エリスは大量の錠剤を手の平に溢れさせ口に放り込もうとしていた。
「やめろって!」
「ああマキヤ、エリスを止めて下さいよう!」
「んんん離してっ!」
エリスが落ち着くまで五分ほどかかった。
「ごめん。取り乱した。私……」
エリスは短く息を吐いて額に手を当てている。俺は最後の散らばった錠剤を薬の瓶に入れると軽く振った。
「とりあえずこれは医務室に返しとく。さすがにこの量を手元に置いとくのはその……危ないし」
「そう……。まあ私もそう思うよ」
とりあえず俺は自分のポケットに薬瓶を入れた。
「どうする? 俺はギヲン探しを続けるけど、君は一旦休んだ方が……」
エリスは思い出した様に俺の方を向いた。
「マキヤ君は、優しいね」
「えっ……そうかな」
望月と顔の造形は同じ。当然、可愛い。それでいて望月とはまた違った良さもあるというか……。
俺は照れ隠しに頬を掻いた。エリスは小さく笑って立ち上がる。細く結われた髪束が俺の顔を仄かに掠った。
「……じゃ、今日の所は退くから。二人のこと、殺させないでよ」
「分かってるよ……」
エリスがドライに手を振ってTCRを出ていった。甘酸っぱい余韻に浸っていると、「ふうーん?」と頭上から声がした。
「なーんかイイ感じでしたねーマーキヤー?」
こいつどっから見てるんだ。
「カメラなんて無いですよ。あるのは栽培室とか格納庫とか、限られた場所だけです。ボクは会話の音程や強弱から感情を読み取っているので」
「……あっそ」
「でもいいんですか?」
「なにが」
「船の誰かと懇意になったら、元の時代へ帰りたくなくなっちゃうんじゃないですか?」
「そんなことないよ。俺はやっぱ元の時代に帰りたい」
それで無事なお母さん、お父さんと再会するんだ。兄貴は、まあ……。
TCRのドアが開いて船長が現れた。カインは一瞬俺を見てパチッと眼を瞬かせたが、肩を竦めて俺の一つ隣りの席に座った。
「ギヲンを探しているのか」カインは宇宙窓の向こうに浮かぶ本物の地球を見て言った。
「ええ、まあ……」
「そうか」
カインは程よくカールした黒髪を撫でつけて何やら言い淀んでいたが、やがて緑の瞳、外人特有の切開したみたいな眼で俺の瞳を見ながら言った。
「その、食堂では悪かったな。すまない。謝らせてくれ。アーデイを助けたくて……つい、かっとなった」
「いや。いいんです」堅物な感じだから、謝られると思わなかった。
「今も気持ちは変わらないが、しかし……タイムリーパーにはタイムリーパーの都合ってものがあるんだろ?」
「え、ええまあ……」
「君の言う大規模タイムリープ事故、だったか? 正味、早く起こってしまわないかと思っている。そしたら今度こそ誰も殺さずにゴーホーム計画を完遂……いや中止でいい。中止で。誰も死なないにこしたことはない」
カインはテーブルに両手を置き、深刻な顔で長い指同士を重ねた。
「はっきりいって、宇宙に旅立った我々は別に地球など無くても生きていけている。だのに上の連中はわーわーと五月蠅い。未だ計画も中止にならず、指示が出るまで待機だと? ナノマシンの件も未だ返答が無い。いつまで待たせる気だ」
カインの歯軋りが聞こえた。
「……結局な、大人達が地球に拘る一番の理由は利権なんだマキヤ。地球というコンテンツがどれだけの金を産むか君だって分かるだろう? はっ、何が人類の希望レナータス号だ。儲かるからさ。俺達みたいな若者をメンバーに選出したのも後でドラマチックに仕立て易いからな! 書籍化映画化オリジナルドラマ……! それを俺は、メンバーに選ばれたことを親や友達に自慢し、舞い上がって……! それでいて本当に、大事な人命が守れてないっ!」
カインが拳でテーブルを叩く。痛そうだ。
「すまない取り乱した」
カインが襟元を正している。「いやその」俺はぎこちなく声をかける。
「仕方ないですよ。さっきここにエリスもいたんですけど、やっぱり取り乱して。彼女ああ見えてアーデイの死にショックを受けていましたし……」
「そうか……? 俺も今しがた彼女とすれ違ったんだが、だいぶ顔色は良かったぞ。さては君のおかげか?」
カインはフッと笑うと、フローギアに上腕を乗せた。
「では俺もその『ギヲン』とやらを探してみるとするか。本音は何かして気を紛らわしたいだけだが。しかし名前からして京都のあった辺りにありそうなもんだがな?」
「それも確かに考えたんですけど、とりあえずミカセオ達とは縁があるし。あと、『ヴィジョン』のこともあるから」
「ん? ああ、ツナコとかいう少女のやった例の幻視か。俺達がこのTCRから彼等をモニターしていて、アーデイやナノマシンアレルギーで死んだ女性も含めバカバカしい菓子パーティをやっていた……」
「あの時ミカセオ達もいたから、ただドローンだけギヲンに飛ばしても意味ない気がしてるんですよ。あれはきっと、俺の到達すべき世界だと思っていて――」
「そうかもしれないな。だが」
カインが機敏にフローギアを手に取った。
「今はこの世界で最善を尽くす。それが君の出した結論だろう。だからこそ今の世界に残っている。違うか?」
「……はい」
「なら、俺も納得だ」
船長はニッと白い歯を見せフローギアを被った。
俺達が降りた先はナナトの屋敷に掘られた温泉だった。濁り湯に浸かったツナコがだらしなく脚を放り出してる。
「なっ……破廉恥な!」
さっきまで恰好つけていたカインは慌てふためきどこかへ行ってしまった。
「暖まったな。ツナコ」
一足先に温泉を上がっていたミカセオが湯上がりのツナコに声をかける(幸いツナコは浴衣は着ていた)。
「わーう!」歓びの声を上げるツナコだったが、ぷいっと顔を背けた。まだミカセオに靡くつもりはないらしい。
「そんなにうちの湯が気に入ったなら、何ン回でも入って良いぞ」
座敷奥から初老の男が現れ、囲炉裏の前に姿勢よく胡坐を掻いた。
「おいオミ、客人には茶の一つも出さなんだか」
「ああ御父様、忘れてましたー!」
遠くでオミが素っ頓狂な声を上げる。
(オミの父親ってことはナナトの……)
男はやれやれと肩を竦めると、左の腰に帯刀した鞘を床に置いた。ミカセオがツナコの手を引き座らせ、男と対面する。
「ミカセオと申します。ヤバイから来ました。こちらはツナコ」
「うぁう」
「拙者はヒツマ。ナナトの地を治めている。だが王だの領主だの、そういう堅苦しい肩書きは嫌いでな。『ヒツマさん』とでも呼んでくれ」
ヒツマは無精髭を擦りながら風呂上りのミカセオ達を観察している。額や手足に刺青が彫られていたが、ヤバイのそれとは毛色が違っていた。
「地域の差異があるな」いつの間にか戻っていたカインがぶつぶつ言っている。
「今まで何してたんですか?」
「ん、ああ。ミカセオ達の軌跡をチェックしていた。別に破廉恥なものを見て気が動転したとか、そういう勘違いはしてくれるな」
「うぅ。ううぅうゃ」
「なんだよツナコ」
ツナコが不安そうにミカセオの袖を引いている。ヒツマが口を開けた。
「仲が良いな。兄妹か?」
「いえ、まあそんな所です」
「先ほど門番から聞いたが、御両人は辻斬りに出くわしたそうだな。して、どんな姿だった?」
「黒装束に化け物の面を付けて。あと、確か左手に刀を」
二人が会話していると、バタバタとオミが走ってきてヒツマの背に乗っかった。
「辻斬りを退けるなんて、ミカセオ様はとても御強い故! ねえ御父様っ」
「今までは奴が命を奪った死者ばかりでな……生存者の意見は助かる」
「それより辻斬りは捕まりそうですか?」
ヒツマは目を閉じ首を横に振った。
「林を隅々まで探ったが見つからぬ。どこへ隠れたか。オニならば隠れもせんから、えいやと伏せてやるのだが……。ところでそれは?」
ヒツマが巨大竹籠を顎で指す。
「中身を検めさせてくれないか」
「あれは……おみつり様が入っています。ある事情から、ヤバイの神の憑代が納められていて――」
「ああ、聞いたことがある。身も蓋もないことを云えば、第一級旧遺物だな。どういう作用をするのだ?」
「あまり、他国の方には……」
ミカセオが言い淀む。ヒツマはおもむろに無精髭を擦った。
「拙者はナナトの長だ。危険な物でないか、知っておく必要がある」
「……では、代わりとは言いませぬが名刀マサムラを拝見してもよろしいか」
「マサムラをか?」
一瞬ヒツマの眼光が鋭くなった。
「別に良いではありませぬか御父様。見せて減るものではありませぬし」
オミの言葉で場の緊張がほぐれたのは、その場にいない俺でも感じた。
「……先におみつり様を拝ませてもらえるか」
マサムラを掴み立ち上がるヒツマ。動作一つ一つに体幹の強靭さが窺えた。
ミカセオが竹籠の蓋を開け、おみつり様の説明をしていく。右腕、そして両脚の欠損した蘇芳色の大土偶を覗き込むオミ。それに比肩してヒツマも興味津々の様子だ。
「……なるほど。ではミカセオ殿が血を流すことでこの旧遺物は作動し、神振の力を与えてくれる。そういうことだな?」
ミカセオは二度三度頷くと、「あい解った。では」と素早く刀を抜いた。ぎょっとするミカセオを前にヒツマは静かに言った。
「これこそナナトに伝わる守護刀マサムラよ。刃長は二尺四寸、切れ味鋭く如何なオニをも両断し切断面から即座に血を吸うことで奴等の驚異的な再生能力を阻害するのだ。まさしくオニを滅す為に生み出された旧遺物と云えよう。古代人の叡智がこの刃に宿っておる」
マサムラの刃文がぎらりと光った。ヒツマはもう充分だと言わんばかりに刀を鞘に仕舞った。
「ミカセオ殿、そしてツナコ殿。今晩は拙者の屋敷で休まれるといい。ナナトを発つ折は護衛をつける。有益な情報を寄越した礼だ」
「ヒツマさんはどちらへ?」
「手の空いた男数人で、斬られた旅人たちの埋葬をする。ムシロを掛けたままにしておくのは忍びないのでな」
屋敷からヒツマが出ていくのを見届けると、ミカセオは難しい顔をして畳に胡坐を掻いた。
縁側で足をぶらつかせるオミの横に座ったツナコが白い生足で空を蹴っている。
「気づいたかマキヤ」
俺の方を見てカインが言う。何のことか心当たりが無い。
船長は天井に指示を出した。
「ハレ。先刻ミカセオを襲った辻斬りの映像と、たった今のヒツマの映像を比較させろ」
程なくして二つの映像窓が俺達の前に出現する。
「見ろ、辻斬りの刀とマサムラの刃文」
「ギザギザが細部まで一致している……?」
「つまり辻斬りの正体はヒツマということだ。この様子だとミカセオも気づいてるんじゃないか」
カインの視線の先。ミカセオはおもむろに立ち上がると、ナナトの領主のまだ幼い娘に訊ねた。
「僕達が集落へやってくる前、君のお父上はどこにいたか?」
「お昼はずっと浜辺です故」
「それは、どうしてそう言い切れる。一瞬でも林の方へ向かったとか……」
「いいえ。さっき門番の方に聞いたら、『今日ヒツマさんは見かけてない』ってはっきりおっしゃいました。それ故、御父様はずっと浜辺の祈りの間で瞑想でもしてらしたんです」
「浜辺から集落を通過しないで林へ行くことは可能か?」
「海を泳いでぐるーっと、二時間ぐらいかければ行けないこともないです」
俺は二画面の窓を見比べていてあることに気づいた。
「……利き手が違う」
「なに?」
「辻斬りは左利きだ。だけどヒツマは左に刀を差してる」
カインは左右の映像に視線を振ると苛立ちを隠さず親指の爪を噛んでいた。
「オミ、僕等は少し浜辺を散歩する。ツナコ」
「うぅう」
屋敷を出た二人の頬に生温い雨粒がぽた、ぽたと落ちてくる。しっとりした雨のヴェールは集落、草原と、そこに吹く風すらも分け隔てず濡らした。ミカセオとツナコは崖下の浜辺へ繋がる蛇行坂を下り始め、俺とカインは実体のない身で彼等に追随する。
「地球で過ごす七分間は、船内での一分で……」
ふとした思いつきをカインにぶつけた。
「だったらフローギア中に七時間寝たら、色々得じゃないですか?」
「あーそれは俺も試した。だが休むどころか脳が疲労して全く寝た感じがしなかった」
苦々しい顔のカイン。
「ところでマキヤ、話は変わるが裏切者が誰なのか少しは絞れたのか? 途中から船に乗り込んだ者としての意見を聞いときたい」
一片のおふざけも含まれないカインの眼差しが俺を厄介な現実に引き戻す。
「そいつがアーデイを殺ったんだ。万が一違ったとしても見過ごせない人物に変わりはない。君と取引をした女性も言ったんだろう? 『船の爆破を目論む裏切り者』だと」
「そんなことは言ってました」
「で、心当たりは?」
「裏切り者かは分からないですけど、怪しい人物ならいますよ」
「なに? それは、一体誰だ?」
「今はまだ……何の証拠も」
俺の言葉にカインは何か言いたげだったが、二度頷いただけで追及はされなかった。
どこまでも藍色の海が広がっている。潮と雨が混ざり湿った空気の中、黒灰色の砂浜を崖沿いに歩くとやがて岩盤の抉れた海食洞に出くわした。洞の入り口には松明が掛けられている。どうやらここが祈りの間らしい。注連縄と紙垂が張られ、洞内に立ち入るのはだいぶ憚られる様相をしていた、少なくとも普通なら。
「ああ、ツナコ!」
ツナコはピクニック味のある足取りで内部へ進んでいく。ミカセオは壁掛けの松明を手に取り海食洞を照らした。洞は浅く、奥は凸状の石壁で塞がれている。ツナコは突き当たりで立ち止まると、くんくんと匂いを嗅いでいる。まさに犬。
「ほらツナコ戻るぞ」
ツナコは何も言わずじっと石壁を見つめている。ミカセオが手元の松明の火に視線を向けた。微かに炎が揺らいでいる。石壁の端から風が来ている?
「向こうに空間がある」
同じことをミカセオも思ったらしい。石壁に手を置き徐々に体重をかけていくと、それはゆっくり回転して人一人通れるほどの隙間を作った。
「あうぅわ」
ミカセオは小さく頷くと、松明を掲げて洞の奥へと進んでいく。洞はなだらかな上り坂。雨のせいなのか空気が腐っているのか、辺りにはメダカの水槽じみた臭いが立ち込めている。
坂を中腹ほど上ったところで朽ちかけた臙脂色の棚を見かけた。片膝をつきミカセオが取っ手に手をかける。中には綺麗に折り畳まれた黒布。その上に置かれた、白髪を纏う木製の鬼の面と長い黒烏帽子。
辻斬りの身に着けていた一式だ、間違いない。
「やはり辻斬りの正体はヒツマか……」ミカセオが苦汁を飲む様に呟いた。鬼面に手を伸ばしかけ、結局そのままにして更に坂を上る。他人を呼んで見せるつもりのようだ。
「僕の勘が正しければ」
果たして、辿り着いた先には古い木の戸があった。戸の隙間からは緑が窺える。戸を開けるのに苦心しているミカセオを尻目に俺達は戸をすり抜けると、そこは林だった。木の戸から祠へ出られる、つまり浜辺と林は繋がっていた。
「ヒツマが集落の門番に見られることなく林で辻斬りをやれたのも、この秘密の抜け道のおかげというわけだな」
一つ気になったのは、祠の戸にはつっかえ棒がされていて、通り抜けられないよう細工されていたことだった。
「くっ。どうやっても開かぬ……」
とうとうミカセオは林へ出るのを諦め、今来た道を下り始める。
その時だ。二人のものと違う足音が洞穴に反響した。
「まさか」
ミカセオ達が踊り場で足を止める。松明の灯りが上がってくる。仏頂面のヒツマがマサムラを携え坂を上ってきていた。
「ご両人。斯様な場所で何をしている」
ヒツマの冷徹な声がわんわんと響いた。
「そちらこそ何しにきた」
ツナコを庇いながらミカセオが言い返す。ヒツマはちらりと開けっぱなしの棚と、そに納められた辻斬りの衣装を見やった。
「……見たな?」
「やはり其方が辻斬りの正体か。何故だっ」
「祠を閉じて正解だった。この狭い場所ならば、おみつり様とやらも持ち込めまい」
ヒツマが静かに松明を捨てる。呼応する様にミカセオも松明を投げた。地に落ちた松明の灯りがゆらりゆらりと二人の影を弄ぶ。
「何故ナナト国の王たる者が、辻斬りなどという下劣な行為に手を染めた?」
「オニだけでは、足りぬのだ」
「なに……?」
「今まではオニの血だけで事足りた。奴等に引き逢わせるだけでマサムラは勝手にオニを喰らった。拙者はただ柄を握っているだけで良かった。右手でも左手でも構わず斬るのでな。だが何時からか、こやつは吸いたがった。オニではない、全うな者の血を」
ヒツマの顔に刻まれた皺の陰影は炎の加減で深まって見えた。
「いや、全うな者なぞこの世におらぬとこやつは云いたいのかもな。血を流せと五月蠅く騒ぐ。耳元で囁く。斬れ。叩け。殺せ。物を云う。通りかかった旅人には申し訳ないことを……否、彼等を犠牲にしてでも国は護らねばならぬ。御免などとは言うまいよ」
「魔が差しただけではないのか?」
「どうだろう」
ヒツマは寂しげに笑うと、おもむろにマサムラを抜いた。ミカセオは邪気を祓う様に剣を引き抜き構える。
狭い洞。妖刀の互の目乱れがぎらりと輝き、ミカセオの額から脂汗が伝った。
刹那、ヒツマが身を屈め間合いを詰める。ミカセオが剣を振り下ろした。躱すヒツマ。ミカセオの返し刀の二撃目は弾かれると、あっという間に剣はミカセオの手を離れ洞穴の壁に跳ね返った。
ミカセオの命は尽きた。そう思われた時、影が二人の間に飛び込んだ。
両手を広げたツナコがミカセオを庇っている。ヒツマの刀が骨肉を裂き、ツナコは容赦なく斬り伏せられる……その筈だ。だが。
「なっ。マサムラ何故だ、何故斬らぬかっ!?」
ヒツマは刀を握りしめたまま、何かに阻害された様に動きを止めている。
一瞬の隙が生まれた。
ツナコの後ろから伸びたミカセオの手がヒツマの脇差しを引き抜き、そのまま人斬りの胸元へ短刀を突き立てる。
「ぐうっ」
ヒツマは苦しそうに息を吐くと、糸の切れた人形の様によろめき、そのまま後ろへ倒れた。ミカセオが思い出した様に荒く呼吸を始める。不思議そうにツナコはヒツマを見下ろしている。ただただ俺と船長は事を見届けるしかなかった。
ヒツマはゴボッと口から大量の血を溢れさせながら、何か言おうとしていた。刀のこと、娘のこと、ナナト国のこと。そういったことを死の間際に言い残したかったのかもしれない。だが、現実は漫画やドラマと違う。彼は何も告げられず逝った。早々と。呆気なく。
ミカセオはこの件を誰にも言わなかった。おみつり様を背負ったツナコと共に、静かに集落を旅立った。
「先ほどは、助かった。だが無茶をするな」
「わあう?」
「僕の前に飛び出してきて。危うく二人とも斬られるところだったのだぞ」
ツナコは能天気に鼻歌を歌いながら草原をジグザグ歩き、ざあざあ夕立に打たれている。やれやれとミカセオは頭を振った。
「……そういえば」カインが口を開いた。
「ヒツマはあの時、斬らなかったな? ツナコを生かすつもりだったのか?」
「違うんじゃないですか」
俺は言った。
「ヒツマは二人とも斬るつもりだったんです。あれは斬らなかったんじゃない、斬れなかった感じだった」
「良心の呵責とかではなく?」
「ヒツマが言ってたじゃないですか、『自分の意思と関係なくマサムラは斬る』って。マサムラはきっとおみつり様みたく中身は機械で、内部のAIが斬る斬らないを判断してたんですよ。でもツナコはオニでも無ければ、ヒトでもなかった。マサムラのコンピュータは判断に長考、文字通りフリーズした隙をミカセオに突かれた。そんな所じゃないですか?」
「一理ある……。だが、そもそもの話として何故マサムラはヒトを斬るようになったんだろうな。AIが故障したとしても妙だ」
「やあそこにいたのマキマキー? お届け物だよっ」
雨雲の中からハレでない陽気な声が降ってくる。俺達はフローギアを外した。サーティワンアイスみたいなカラーリングの髪を揺らしゴーシュが白い歯を見せ、先に輪っかのついた棒状の器械を振っていた。
「自室に行ってもいないし帰ってこないからさ。こいつが欲しかったんだろ?」
「ありがとうゴーシュさん」
俺は彼女からブツを受け取ると、早速TCR内の機器群に当てていく。
「おい。……おいマキヤ。君は一体全体何をして――」
カインの言葉を遮る様に、ビーッと器械が鳴り始める。
あった。もう見つけた。
「おっ。早速役に立っちゃった系?」
俺はハンカチでそれを包み取った。
「カイン船長」
「なんだ」
「裏切り者の正体が分かったかもしれない」
食堂には乗員七名が集まっていた。人が集まるまで医務室へエリスの薬を返しに行っていた俺は、すっかり気まずい思いでいた。
「全員集められたってことはさ……」
「これ推理物とかでよくあるヤツだ。謎解きパートじゃん」
「アーデイを殺した犯人が……?」
「それについてはマキヤから説明がある。マキヤ」
カインに促され、俺は冷や汗を掻きながら席を立った。
「あの。みんな勘違いしないんで欲しいんだけど、アーデイを殺したかどうかは――」
「何か分かったんだろ? いいから早く教えてくれよマキヤ。もったいぶってないで」
(船長同席で問い詰めたかっただけなのに、何でこんな推理ショーみたいに……)
俺は音を立てず溜息をつくと、気持ちを切り替える。
「それじゃあ――」
「ちょい待ち念の為」
ゴーシュがふいふいと手を振った。
「なんか推理が始まりそうだけど一応。助手一号クン覚えてる? あのコーヒー、苦くて飲めたもんじゃなかったこと。アーデイにすっごい固い意思が無いとコーヒー一杯分も飲んだりはできない件。そこら辺はもうクリアした?」
「それにかんしては……これ。これを使えば良いんです」
俺は食堂のテーブルに置かれた味覚灯を持ち上げた。
「あーなるほど。味覚灯で筋弛緩剤入りのコーヒーを違和感なく飲めるようにしたってわけね」
「カイン船長。味覚灯の効き目は永続ですか?」
「いや……精々一時間から二時間で切れるぞ。以前試した」
「じゃあ、俺が舐めた時に苦くて飲めなかったのも説明がつく。つまりアーデイは我慢して薬剤入りのコーヒーを飲んだとは限らないってことです」
「それじゃあマキヤさん」マリーが不安そうに視線を動かす。
「結局怪しいのは……?」
「……前提として、レナータス号の初期メンバーはカイン、アーデイ、エリス、ゴーシュ、リック、マリーで間違いないですか? 後から乗船したのはサバタ、そして俺とアエズ。初期の六名と後から乗り込んだ三名は船で出会うまで面識は無かったってことでいいですか」
「どうなんだ」カインがサバタを見やる。サバタは自嘲気味に笑った。
「俺がアンタらエリート様方と面識あるわけねーだろ。むしろ怪しいのはそっちだ古代人。目が覚めるや否やエリスに突っかかっていったよなぁ?」
エリスのちょっと眠たげな視線が俺に向く。
「あれは気のせいだった」
(内心まだ引っ掛かってるけど)
それは口にせず『二人』を見て俺は言った。
「サバタ。マリー。君達はどういう関係なんだ? ここで説明してもらうぞ」
食堂の視線が二人に集まる。サバタは仮面を付けていて考えが知れないが、マリーはビクッと身体が跳ねた。
「さ、サバタとの関係……? 別に、乗員仲間だよ」
「嘘つけ。じゃなくて、それはおかしいな」
俺は軽く喉を整えた。
「……昨日の朝、アエズがナノマシンアレルギーで死んだ後、今みたいに食堂で集まって話をしたよね。あの時サバタは、俺を裏切り者じゃないかと疑っていた。でも、俺がこの時代に送られてきた理由を話したのはTCRで、サバタに直接話してない」
「マキマキ、そいつは『サバタがジムでマリーから聞きましたー』ってことで終わった話じゃんか」
「確かにサバタはそう言ったし、マリーも頷いた。その時は俺も流されたけど、改めて考えたら不自然だよ。だってTCRにマリーが来たのは、俺が身の上話を終えた後だったから。マリー、君は『船に裏切り者がいる』って話、誰から聞いた?」
「それはその、誰だったっけ……リック?」
「俺じゃないぜ」
「あ、アーデイだったかな」
「マリー。君はサバタから聞いたんだよ」
俺の指摘にマリーアポロは小さく口を開けたまま固まっている。カインが眉をひそめた。
「なんだか話が見えてこないな。サバタがTCRにいなかった事実と矛盾しないか?」
俺は丸めたハンカチを取り出し、中のモノが見えるよう広げた。
「なんだそれ」
リックの問いに俺は言う。
「盗聴器。TCRに仕掛けられていた。わあっ!」
声を吹きかけると、サバタは「うるせっ!」と叫ぶ。俺はカウボーイハットマスク野郎をしたり顔で見てやった。
「サバタはこれでTCR内の会話を聴いていた、だから裏切り者のことを知っていてついつい口に出した。俺にそれを指摘されたサバタは、咄嗟にマリーを利用することで己の矛盾を誤魔化した。サバタとマリー、君達は利害関係が一致する様な仲で口裏を合わせたんだ。違うというなら理に叶った説明をしてみろ」
静まり返る食堂。やがて、乾いた拍手の音が鳴る。サバタは気の無い拍手を止めると、低い声で「正解だ古代人」と言った。
「実はな、俺とマリーは乗船前からの知り合いさ。俺は遺物ハンター、彼女はクライアントの関係だ。あーあバレちった。で、それがなんだってんだ? 俺達が裏切り者で、アーデイ殺しに加担したなんて結論には、どう捏ね繰り回そうがならねーよ。大体、テメーがタイムリープして犯行を未然に食い止めればいいだけの話を、だらだらと探偵ゴッコなんかしやがって。こんなの、テメーがアーデイを殺したようなもんだろーがよ」
そう、確かにサバタの言う通り『怪しい』ってだけで直接的証拠は何もない。それは分かっていたから推理ショーみたいのは嫌だったんだ。こっちが公開処刑されかねない。
俺の額から汗が流れ始めた。
「盗聴器を仕掛けたことは認めるんだな……?」カインが険しい顔で問う。サバタは軽いノリで両手を広げて見せた。
「俺はお前等みたいな権力者側の連中を信用できない性質でね。別にトイレに仕掛けたわけじゃあるまいし、そんな目くじら立てることかぁ?」
「いい加減にしろ。許可なく太陽系に侵入し拘束されてた君を解放して船に引き入れたのを忘れたか。そんな我々を盗聴するなど、不躾にも程がある」
静かに怒りを湛えるカイン。サバタはズズズとバニラシェイクを啜っている。
「あたしが悪いんです」
翳った顔でマリーが立ち上がる。
「……どういうことなんだよマリー」
困り顔のリックにマリーは引き攣った笑みを浮かべると、小さく溜息をついてから話を始めた。
「昔からあたしは地球が大好きで。当然だよね、あたし達の故郷なんですもの。何でもいいから地球の遺物をコレクションしたいと思ってて。あたしてっきり、レナータス号の船員に選ばれたら地球に降りたり、遺物が手に入ると思い込んでて。でもそれは違った。だから、太陽系に向かう前々日のこと。新進気鋭の遺物ハンターだったサバタと連絡を取ってこっそり地球の遺物を回収してもらおうと……それで……」
マリーは話し疲れたのかぐったりした様子で髪を掻き上げている。
リックが周りを窺いながら言葉を継いだ。
「まあ、太陽系の座標軸は未だに限られた人間しか知り得ないし、遺物ハンターにとって垂涎の情報だよな」
「垂涎の情報? 笑わせんなっ」
サバタが乱暴にテーブルを蹴って立ち上がる。
「太陽系の警備体制も知ってるっていうから俺は話に乗ったんだぜ? なのにコイツは、二か月も古い警備情報を寄越しやがった。とんだ地雷だ」
「それについてはもう何度も謝りました!」
マリーが甲高い声を身体から発した。
「気づいて連絡を取ろうとした時にはもうあなたは拘束されてた。確かにあたしの責任です。だからせめてもの罪滅ぼしに、サバタをレナータスの一員に引き入れるようカインに働きかけたし、マキヤさんに詰められて困っていたあなたに話を合わせた……!」
「へっ。なんかアンタ被害者面してっけどよ、一番信用なんねーんだよ」
サバタがヘラヘラしながら手をひらつかせている。
「そうだ人間共、醜く争えー……じゃなくて、みんな喧嘩は良くないヨ!」
ハレのとぼけた声に一瞬場が和みかけるも、
「なあ機械、こいつがレナータス号の船員に選ばれたのも、コネだろどうせ」
サバタの言葉でまた空気が悪くなる。
「そんな……」
「ここにいる連中みーんなそう思ってるぞ」
「違う! あたしは実力で選抜された。筆記試験も面接も全部あたしの――」
「自覚ない感じだ」
「え?」
「ゴーシュ。ちょっと」エリスが咎める様にゴーシュを見る。
「なんなの……?」
当惑するマリー。ゴーシュは気怠そうに水中ゴーグルを引っ張っている。
「……実はさ、この前ワタシとエリスでレナータス号のデータベースを閲覧してて、そしたら皆の面接映像とか出てきたんだ。マリーの面接って『兄妹が何人いますか』とか、『地球開拓に応募した動機はなんですか』とか。そんな生易しい質問ばっかなんだもん。超ビックリ。ワタシ達と全然違う」
「え、違うって、なにが……?」
「それは――」
エリスが躊躇いがちに説明する。
「他の人の面接は……私の場合なら例えば、『地球開拓に於いてナノマシンを用いたオートマチックテラフォーミングを用いることについて意見を述べなさい』といきなり試験官に訊かれた。他にも『青嵐グループのエネルギー部門についてどう思うか』とか。青嵐グループが輸入しているジャコー小惑星油田のガスは今、色々問題になっている。私は他企業のガス開発の例をあげ、それを真似たらどうかと説明した。要は、青嵐グループ以外のことまで知っているアピールをして、どうにか切り抜けたよ。試験官は私達を落とす為に質問をする。でもマリーにはそういったのが……無かったみたいだから」
「ほら、やっぱコネだコイツ。人類の一大プロジェクトだの銘打って散々宇宙中に宣伝して、その実態はしょうもない。上級市民が選ばれてんだよ。だから金持ちは信用置けねえ」
「なっ……え。なんで? そんなのあたし……ねえ、みんなそう思ってたの? あたしのこと、ただの馬鹿な金持ちの娘だ……って!」
「……そんなことないよなあ?」
リックの言葉は焼け石に水だった。マリーが唇を噛み締め目に涙を溜めながら食堂を飛び出していく。
「あーあ。名探偵さんのおかげで空気がどーにも悪いや。けっ」
サバタが食堂を出ていった。他の面々も溜息交じりに消えていく。
「えーっと、マキヤ。君のせいじゃない。サバタのせいだよ、落ち込むなって」
リックのフォローは俺をすり抜け食堂に霧散していく。最悪だ。俺は深く溜息をついた。
「だから……こうなるのが嫌だったんだよ」
今回の件で得られたのは、サバタとマリーが知り合いだったこと。そしてマリーの試験がイージーモードで、皆の仲がぎくしゃくしたこと……。
謎解きは大大大失敗だった。
船内の穏やかで涼やかな空調が、余計にこのどうしようもない空気を際立たせていた。
「マキヤ、温泉行こうぜ。少しは気分がましになるよ」
俺がレナータスで目を覚ましてから四日目の朝。船内日付では、一応七月四日らしい。死んだ面してた俺を、リックが誘ってくれた。フローギアを通して視たナナトの露天風呂を思い出し、俺の気分は前借りでちょっと良くなった。
C区画、実験室とランドリーの間に温泉はあった。脱衣所こそ男女で分かれているが、温泉自体は混浴で水着着用ということで、俺達は自室から水着を持ち込んだ。
「裸じゃないんだ。やっぱ、混浴だから?」
「いやいやマキヤ。温泉は混浴だろうとそうじゃなかろうと水着が当たり前だって。裸で入るなんてやばいな露出狂かよ」
「へえ……?」
詳しく訊いてみると百年前は裸で入るのが当たり前で、更に百年遡るとプールや温泉に入る時を除いて全裸で生活していたという。
「その頃は自然回帰が流行ってたんだってさ。あーあ、その時代の人が羨ましいぜ」
「人間の倫理観っていい加減だ」
水着に着替え、脱衣所の磨り硝子の戸をがらりと開ける。石造りの浴槽にはなみなみと張られた湯が透き通り、神々しいばかりの湯気が立ち昇っている。
感嘆の声が出た。ガチの露天風呂だ。いやここは宇宙だろ露天なわけない。なのにライトブルーの澄んだ空は天上を突き抜けている。肌も肺も、経験則からここは野外だよと謳う。唯一理性だけは屋内であるという事実を頭の片隅で繋ぎ止めていたが、そんなものも四十二度のお湯に肩まで浸かってしまうと何処かへ溶けて無くなった。
「ふぅーっ」目を開けるとリックと目が合った。リックは真っ白な歯を見せながらすいっと近づいてきて、湯舟からサムズアップを浮上させた。
「後は女の子さえ来てくれたら言うことなしだよなー」
「具体的に誰?」
「誰だって構わないよ。若い女の子であることが重要なんだ」
(こいつ……)
「マキヤは誰が来て欲しいよ?」
「俺ぇ? ……えーと」
静かに硝子戸が開いた。
「おっ噂をすれば」
垣根の向こうに視線を向ける。ゴーシュだ。いつものボーイッシュというかラフな恰好で、露天風呂に入るそれじゃない。リックが露骨に肩を落とす。
「あのぅ、温泉は水着着用でお願いしまァす」
リックのふざけた言い方を聞いて俺は呑気に笑っていた。手拭いを頭に載き首根っこまで温泉に浸かると湯の熱が身体の芯まで伝わる。
はあ……良い湯。
湯船に揺蕩っていると、ジャラジャラと金属の擦れる音が近づいてきて、気配が後ろで止まった。
ゴンと嫌な音が真横で鳴った。
「痛(いって)ぇ……」
眼を開けるとリックが顔をしかめ、頭を押さえている。見上げるとゴーシュがいた。
ぽたぽたスパナの先から赤い液体が零れ湯に染まる。ゴーシュは朗らかな顔をしてスパナを持ち上げると、それをまたリックの頭部に叩きつける。
リックの血液が俺の顔にかかった。
ゴン。
ゴン。
ゴン。
痙攣するリックに何度も打ち付けられる。手を緩めないゴーシュは普段と変わらない。明るささえ漂う。
事切れたリックは温泉に沈み赤茶色の濁り湯の花を咲かせていた。
嗚呼。逃げろ。
俺はゴーシュから距離を取って反対側から温泉を出た。振り向き様、彼女と視線が合う。
「あれ。マキマキ、もうあがり?」
ゴーシュはコンビニでも向かう様に歩いてくる。俺は脱衣所に逃げ込んだ。磨り硝子が閉まると見せかけの日常が戻ってくる。赤濡れた狂気に当てられ、自分の心はカタカタと震えていた。でも体はやけに冷静で、水着の上から服を着てC区画の通路に出た。
静かだ。濡れた体に衣服がひっつく。足を滑らせつつ俺はC区画を駆けていく。角を曲がったところで、唐突に伸びてきた手が俺の肩を掴む。俺は悲鳴をあげた。
「落ち着けマキヤ」
食糧庫の前には苦い顔したカインと怯え切ったマリーがいた。カインは頭を押さえており、血の線が一筋、額から頬を伝っていた。
「船長、その頭は……」
「ゴーシュに殴られた。そっちは大丈夫か?」
「リックが殺された」
「え、嘘っ」
「C区画で温泉に浸かってたら頭を割られたんだ……」
マリーが両手で口で覆い、カインは天を仰いだ。
「サバタとエリスに伝えなければ。ハレ、おいハレ! どうして応答しない……?」
カインは立っているのがやっとという感じだ。過ごしやすい夏色の気温が今のこの状況と変に噛み合わさって、余計に気が触れそうになる。
「俺が二人に伝えるよ」
自然と口が動く。マリーが驚いて硬直している。
「ダメ……マキヤさん危険だよ」
「マリーはカインと一緒に食糧庫の中に隠れててくれ」
「マキヤ。二人はこの辺りにいないようだった。BとCは後回しに、A区画か中央区画を当たれ」
先に中央区画を見て回った。が、誰もいない。さっさと見切りをつけA区画へ向かう。
自分が英雄になった気がした。不思議だ。もしかしなくてもアドレナリン。ともかくライトな足取りで見回り始めた直後のこと。
警報が船内を突き抜け天井のランプが赫々と明滅を始めた。
「レナータス号では現在、人災による異常事態が発生しています。これより九十秒後に区画間を閉鎖します。乗員は速やかに隔壁扉の付近から離れて下さい。繰り返します――」
ハレの余所行きボイスはジクジクと不安を駆り立てた。不意に医務室から姿を現したエリスは俺を見るなり足を止めた。
「エリス。大変だ」
「マキヤ君。これは、一体……」
「ゴーシュが、犯人だったんだ。今、会った人を片っ端から殴って回っていて。リックが殺されて。それで、えーと……」
エリスの瞳が恐怖に染まっている。はっとして振り返ると、ゴーシュ・マンゲルシュタインがそこにいた。距離は二メートルも無い。てらてらと赤光りするスパナが嫌でも目に付いた。
「ゴーシュ。今の本当……?」
「そーそー。殴って殺しといた。アーデイを殺したのもワタシ」
「どうして、そんな……」
エリスが声を押し殺す。ゴーシュの唇がさらりと動いた。
「運命」
「え……?」
「この船に乗った時点でそういう運命だったんだ。ワタシも、キミ達もっ」
待ちきれないとばかりにゴーシュがひょいッと距離を詰めてくる。俺とエリスは後退していくが、二人して何かにぶつかった。娯楽用に置かれたレトロゲームの筐体だ。ピコピコと賑やかなメロディを発しながら起動したそれは、液状の金属体に溶けてはUFOキャッチャーやモグラ叩き、パンチングマシーンといったゲーセンのそれに姿を変えていく。ケミカルな光が俺達を染め上げる中、ゴーシュはスパナを振り上げた――。
「伏せろッ!」
くぐもった声が飛び強烈な青が走る。西瓜の破裂する様な音。目を開けると、通路の角に片膝ついたサバタがいて、その手の銃はシュウシュウと排熱している。ばったり倒れたゴーシュの頭の四分の一が吹き飛んでいた。
俺とエリスは言葉を失いながらサバタの元へ駆け寄った。
「殺したの?」
エリスは声を震わせ訊ねた。
「確かに、助かったけど。どうして……」
「古代人の女みたく気絶させなかったかって? ミスった」
「は……?」
「出力をミスった」
サバタはホルスターに銃を仕舞いながら深々と息を吐いた。俺はゴーシュに目をやった。別に警戒していたわけじゃなかった。だから、ゴーシュの手がぴくぴく動いてるのに気づき俺の思考は止まった。
彼女の身体が跳ね、不自然に起き上がる。左眼から頭部にかけてポッカリ穴が開き、さながら三日月。そんな彼女は笑っていた。
サバタが再度レーザー銃を抜いた。ゴーシュは跳躍、素早く天井を蹴り上げ距離を詰める。
「サバタ、外したら船に穴が!」
「チッ」
サバタはレーザー銃を俺に放ると、ポンチョの下から畳まれた紐を取り出し両手で強く引いた。衝撃の加わった紐は棒状に固まって、先端からバチバチとプラズマを零した。ゴーシュの投擲したハンマーを叩き落とすサバタ。ゴーシュが更に間を詰めてくる。
「お前等はB区画に行け!」
ここにいても何も出来ない。俺とエリスは逃亡した。ジム、栽培室、シミュレーション室……。それらに目もくれないで。
走って、A区画とB区画の境目を過ぎた所で息切れしながら足を止める。
「あと三十秒後に区画間を封鎖します。付近にいる乗員は速やかに隔壁扉から離れて下さい。二十五、二十四、二十三……」
振り返るがサバタもゴーシュもいない。
「あっあれ」
サバタの姿が見えた。足をやられたのか少し引き摺っている。
「ダメだった……。あれは、化け物だ」
「軽口なんか叩いてる場合じゃない。隔壁扉が閉まるぞ!」
「後ろっ!」
エリスの鋭い声。ゴーシュが脚を痛めそうな速度で通路を疾走してきた。俺はレーザー銃を構えたが、とてもじゃないが当てられない。
「威力弱めた? さっきの火力だと船が損傷する」
「どうやんの?」
エリスが俺の手から銃を引っ手繰る。その間に分厚い隔壁扉が上下からせり出し、区画を閉じ始めた。
「十三、十二、十一……」ハレの無機質なカウントダウンが心を掻き乱す中、サバタが隔壁扉に到達した。俺達は間髪入れずサバタの両腕を掴む。後はサバタの体を此方側へ引き寄せるだけ。隔壁扉は閉まり、三人とも助かる。
筈だった。
「くそっ」
抵抗があった。サバタの左足を、追いついたゴーシュの手が掴んでいる。俺とエリスは顔を歪ませ、何とかサバタの体を此方へ引こうとするのだが、ゴーシュの人間離れした馬力に対抗するので精一杯だ。そうこうする内に隔壁扉はどんどん閉まっていく。このままじゃ不味いのは分かる。分かってるのに。
「……ダメだ! 手を離そう!」
エリスは顔を赤くしながら呻き声を上げる。
「ああ畜生ォッ!」サバタが絶叫する中、隔壁扉に挟まれた彼の胴体はミシミシと嫌な音を立てた。そして――。
「ぐがあああああ……ッ!」
「嫌ァアア!」
阿鼻叫喚の中で派手に尻もちをついた。隔壁扉が完全に閉まり、引き千切れたサバタの上半身のみが俺達の元にあった。一拍の無言の後、エリスが短い悲鳴を二度上げ前触れもなく吐瀉した。
「さ、サバタ……?」
「た、タスケテ……」
「わ、分かった。ちょっと。ちょっと――」
ドン。鈍い衝撃が隔壁扉の向こうでした。俺とエリスは凍り付く。ゴーシュが隔壁扉を破ろうとしていた。最悪の想像が頭を過ぎる。
数回の衝撃の後、辺りには沈黙漂った。
「……止まった?」
隔壁扉は頑丈で彼女は諦めたらしい。それとも別の侵入口を探しているのか。それでも安全だ。
今はまだ。
「ま、待ってろよサバタ」
俺は瀕死のサバタと放心するエリスを残し、その場を後にする。
(何か。助けられる、未来の医療箱とか……)
「ハレ。サバタが重傷だ。どうすればいいっ!?」
お喋りなハレは何故か寡黙になっている。
B区画は、惑星地球化統制室、TCRがある。サーマルガーデンもあった。プールも。休憩室。天体観測室、屋内シネマに……。
下半身を失ったサバタを延命させられそうな設備はB区画のどこにも無い。というか、例え医務室があったところで助かるとは思えない。あんな……。
それでも。俺は、やれることを――。
(タイムリープだ)
足を止める。ここまでの数日間の記憶が頭の中で渦を巻く。
(いっそタイムリープが勝手に起きてくれればいいのに)
そうすれば全てが元通りだ。で、また惨劇が繰り返される。
そもそも、いつゴーシュはおかしくなったんだろう。昨日、それとも最初から? 原因は。裏切り者は。巨大なタイムリープとやらは本当に起こるのか。
まだ何も分かってない。
踵を返した俺は正規の時間に従って、AとBを遮断する隔壁扉の前へ戻ってきた。
「サバタ……?」
俺達を助けてくれたカウボーイハット仮面は一切動きを止めていた。エリスが鼻を啜っている。
「死んだの……?」
「うん」
ああそうか。俺のせいで。俺のせい。リックも。アーデイも。俺を何か恨んでた勾玉のあの子。そして俺の家族。
「何で俺……」
苦いモノが喉元へせり上がる。エリスの沈んだ声が言う。
「さっきまでは喋ってた……。お世話になった孤児院の牧師さんとか、そこにいる子供達に謝ってたよ……? 『こんなとこで死んでごめん、ごめん』って……」
俺は無言で、床に転がっていたサバタのレーザー銃を拾い上げると、彼の手に握らせた。それくらいしか今、彼に出来ることが思いつかなかった。
「……移動しよう。ここにはもう、死しかない」
アルカリ性の唾を飲み込み代わりに掠れ声を絞り出す。壁にもたれて座るエリスが何か言った。俺の脳はそれを聞くのを拒否した。
人工の日溜まりが手の平に照っている。
休憩室の長いソファ。気づけば、俺とエリスは小一時間口を聞かないで、ただそこにいた。
(少しは気分が良くなった……。良くなったよな)
自分でもよく分からない。
パチン。エリスが手を叩いた。空気が微細に震える。照明が室内モードに切り替わり、併せて空調もクーラーの効いた夏の自宅の肌触りに変容していく。
「まずは外部と連絡を取らないと……」
エリスがやつれ顔で唱えた。胃液のせいで少し声がしゃがれている。
「その為に、中央区画の通信室へ行く必要がある。けれど隔壁が邪魔。隔壁はA区画、C区画、中央区画へ通じる通路全てを封鎖している。船内回線は制限がかかっていて、カイン、マリーとは連絡がつかない」
「じゃあB区画から出る手段すら無い?」
そう、とばかりにエリスがだらり両手を投げ出す。俺は天井を見上げた。
「……まあ別の見方をすれば隔壁が閉まってるんだから、ゴーシュが襲ってくる心配は無いな」
「それは喜んでいいの……?」
「喜んでいい」言葉を被せる。
「ハレ……何でハレは、俺達の呼びかけに反応しないんだろ」
「空調が切り替わったり、船の設備が生きている時点でクラッシュしてるわけじゃない」
つまり俺達は『ハレの意思で』無視されていることになる。
「ハレは反乱したのか?」
エリスの横顔は暗い眼差しでバーに飾られたワインボトルを見つめている。
「……ハレが乗員全員を殺したいなら、隔壁を閉めた意味が分からない。私も君もとうに殺されてたハズ」
エリスは両手で顔を塞いだ。一つ間があって、息継ぎする様に彼女は顔を出す。
「ハレは、きっと疑心暗鬼になっている。とりあえず区画を遮断した。今はそう捉えて……良いと思う」
『今は』という言葉が引っかかったが、俺はそれに触るのを止め、もう一つの疑問を思考プールから引き揚げた。
「ゴーシュのことをどう思った? 頭の四分の一を失って、平気で追いかけてきて。明らか人じゃない」
「私は、オニみたいだと思った」
フローギア中に使われる単語をTCRの外で聞くのは変な気分がした。塾の先生がポケモンに詳しかった様な、薄気味悪い感じ。
「マキヤ君はなんだと思った?」
「俺は、『死なない兵隊』っていうのを思い出した。リック――」
湯舟に沈んだリックがフラッシュバックし感情が閉塞する。
「……あいつが言ってたんだ。人類が地球を捨て、太陽系も捨てた原因の……禁忌群とかいうの。その時に、不死の兵隊がどうのって」
「母星棄譚の一つの伝承……」
エリスが思案に耽っている。
「確かに、あれだけ欠損しても活動可能なゴーシュ・マンゲルシュタインは不死といっていい」
「これは俺の想像なんだけどさ、オニっていうのは不死の兵隊の成れの果てなんじゃないか? それで、ゴーシュもこれからオニになっていく、今はその過程なんだ。ただどうしてああなったのかまでは」
俺が言葉を切る。エリスの視線が此方に向いた。
「ゴーシュは……いえ、私を含めた初期の乗員六名は、レナータスに乗船する際にメディカルチェックを受けている。その時点では健康体。だから彼女が人でなくなったのは、レナータス号に乗船した後」
エリスはおもむろに立ち上がると、バーカウンターに入って、ボトルを引き抜きグラスへなみなみと注いでいく。未成年で。いいのかよ。
視線に気づいたエリスは「ノンアルコールワインだし……」と弁解する。
「アーデイを殺したのもゴーシュ。この船に殺人鬼が二人以上乗っているとは考えにくい」
「ちょっと気になるのはさ……」
足元を初夏の風が吹く。俺もバーカウンターまで歩いていって、吊るされたグラスを手に取った。
「アーデイの時は隠蔽工作とかやってたのに今回は白昼堂々っていうか。人が変わったみたいに」
「本当に変わったのかも」エリスが言う。
「例えば、アーデイを殺した時はまだ彼女の理性が残っていた。けれどそれが抑えきれなくなって、爆発した。マキヤ君の言っていた、『船を爆発させたい裏切り者』っていうのも彼女で決まり。私達を全員殺して船の権限を乗っ取ってしまえば、レナータスの破壊手段は幾らでもある」
「なんか、最後の方は投げ槍な推理だな。俺達を殺すのは邪魔者を排除して船を爆破する為? 船を爆破して一体何のメリットが――」
「悪いけど考えたくない。色々疲れた」
カウンター内の彼女は無表情で唾を飲み込むと、作業ロボットチックに俺の空グラスへノンアルワインを注いだ。
「スケジュール通りならレナータス号は七月九日、つまり五日後には亜光速航行を止め火星へ向かう。それで一日ちょいで火星へ到着する予定。そこまで生き延びれば、後は火星側が何とかしてくれる」
「だとしても六日間はここに缶詰ってことになるぞ。C区画には食糧庫があるからカイン達は余裕だ。問題は俺と君だけど」
俺はテーブルに並べられた四角い箱のフタを開けた。心許ないナッツ類。向こうの長卓には個体数の減ったミニチーズケーキが少々。
「ここにあるのをちびちび食べて飢えを凌ぐのか。足りるかな」
「大丈夫」
エリスは後ろ手を組んで、莫迦みたいに貯蔵されたボトル群を仰いだ。
「水が無いと人は早くて四日で死ぬ。アルコールは水分補給にならない。けれどここにはノンアルコール飲料がたっぷり。飲み物さえあれば人は六十日持つ」
「それならいいか……え!?」
ぞっとしていると、エリスは小さく笑いワイングラスを持ち上げた。
「安心して。その前に燃料が尽きて船が墜落するから」
「それ、どこに安心要素があるんだ……」
お互いグラスを掲げる。死を意識した乾杯。無駄に玲瓏な音色。グラスに口づけ、紅い液体が喉を潤す。
苦っ。人生初のノンアルコールワインは味覚灯が必要だ。
B区画内をだらだら歩く。来た当初はあんな魅力的に見えたのに、今は色を失っている。サーマルガーデンもプールも無駄に疲れそうだ。天体観測室は五分で飽きた。
シネマ室で映画でも見ようか。
(辛い映画は観たくないな。かといって楽しい映画も、余計気が滅入りそうで……)
逡巡の末、俺は休憩室を選んだ。
(そういえば、丸一日TCRに触れてない)
ギヲンのこと、ミカセオ達のことは気がかりだが、とてもフローギアを被る気にはなれなかった。
腐ったまま、気付けばB区画は夜。ラウンジのソファで時間を貪っていた俺はエリスがいないことに気づいた。フラフラ通路を歩いて、天体観測室、シネマ室と覗いていくが見当たらない。最後に残ったのはプールだ。
「泳いでんのかな……」
裸ってことはない筈。
それでもすぐ引っ込める様にプールサイドをそっと覗くと、果たしてエリスはいた。プールの隅っこに体操座り、ポータルギアを弄っている。
「こんな所で何してんの?」
「ハッキング」にべもなく彼女は言う。ホログラムの霧がそこら中に漂っていた。
「ハッキングって言った?」
「……今は音声接続を切ってるからいいけど、プールから出たら黙ってて。ハレに気付かれたくないから」
「横、座っていい?」
「いいよ。何でそんなこと聞くの」
「それは俺がタイムリーパーだから……」
「ああ、それ。いいよ、もう。どうせ二人とも死にそうだし」
「そんなことない。いや、大いにあるけど」
プールの壁に背を当て座る。
「望月さんが言ってたんだ、大規模なタイムリープがここでは繰り返されている。だから君も、みんなも生き返って――」
「マキヤ君はそうかもしれない。タイムリープして記憶が残るから」
エリスの薄暗い目が俺を見越した。
「後でタイムリープすればいい。そう思ってるでしょ?」
用意していた言葉が失われる。代わりにエリスの言葉がつらつらと紡がれる。
「違うんだよ。タイムリープしたら今の私達は消える。君以外、記憶も引き継げない。別の世界の私は私でも、ここにいる私じゃない」
「……難しいな」
「分かりたくないだけ」
ぼそっとエリスは言った。その通りだ。分かりたくない考えたくない。心が崩壊しそうになる。
しばらくプールの青い水を見つめていた。
「……ハッキング出来るんだ?」
エリスのポータルギアは時折奇妙な電子音を吐いている。丁度いいと思ったタイミングで俺は訊いた。
「セキュリティの脆弱な所が無いか探していたら、一箇所」
エリスが壁際の操作パネルを指差した。
「プールの管理システム。TCRのサーバーセキュリティと比較しなくても、ガバガバ。ここを足掛かりにハレのメインシステムへ侵入できないか……ずっと試していた」
「結果は?」
「私の腕じゃ、隔壁扉をこじ開けたりは無理そう」
「じゃあダメじゃん。棄てようぜプールにさ」
「ただ、ハレの認識の一部は知れた。端的に言えば思考盗聴」
エリスはすくっと立ち上がり、ポータルギアの吐いたホログラムモニターに手を入れかき回す。壁のパネルが連動してピロピロと音を吐き、緑色のパーティクルウィンドウが宙に発生した。ウィンドウに表示された文字は翻訳がされていない。
「何て書いてある……?」
「これは機械言語」
エリス先生はすらすら答えてくれた。
「今、レナータス号の設備は問題なく機能している。隔壁扉は問題なし。気圧、重力、航行速度、オールグリーン。燃料は今の運用で十日は持つ計算」
気になった箇所を指差してみる。
「これは何て書いてあんの?」
「船の規定、要はマニュアルの引用。『レナータス号の船員は地球再開拓計画を予定通りの日数で完了すべし。もし船内で問題が生じた場合、出来る限り内々で処理する義務を負う』みたいなことが長々と書いてある。それを根拠にレナータス号は未だ軌道上に留まっている」
「変なマニュアルだな……。こっちの英文は?」
「宇宙船員法第二十条。船長が死亡、船舶を去る、又はこれを指揮することができない場合において他人を選任しない時、運航に従事する海員はその職掌の順位に従って船長の職務を――」
「あ、もう良いよありがとう」
「そう?」
聞いといてぞんざいにあしらったから、エリスは機嫌を損ねたらしい。もう少し慎重に選ぼう。
「ここの、『4』っていう数字は?」
「ええと……ハレの認識するレナータス号の乗員人数。つまりハレ視点では、現在四名の乗員が生存中ということ」
プールの香りを感じながら眼を瞑る俺。
「俺とエリスに船長、マリー……。ゴーシュは?」
「彼女はレナータスの乗員の登録から除外されたみたい」
俺はゆっくりとプールサイドの高い天井を仰いだ。
「やっぱり殺人鬼だから?」
「ハレはポータルギアの健康チェックを参考にしている可能性が高い」
エリスは白銀の球体をぐにっと握り、ホログラムから健康診断アプリをピックアップする。
「ほら。さっきから健診アプリにアクセス出来ない」
俺も自分のポータルギアを膨らませ起動させる。
「……ホントだ」
「ハレが完全掌握して、私達の健康状態を常にチェックしている」
「そんなことするんなら俺達の腹減り具合をどうにかして欲しい」
「それはそう。海鮮パエリアとか配達して欲しいところ」
エリスはまた壁に背をつけ座ると、ポータルギアを触り始めた。
「判ったのは、そんなとこ……」
「あのさエリス」
「うん?」
「ここまで来たら俺、最期まで見届けるよ。死にそうになってもここで死ぬから」
俺の返しにエリスは「ふーん」とだけ。プールサイドの静寂はしばらく続いた。
ソファで一晩明かすのは心地良くなかった。意識が落ちる寸前、照明の消えた休憩室の端でエリスの影を見た気はしたが、起きると彼女はいなかった。
凝った身体の節々を動かしているとエリスが現れる。おはよう、と言いかけ黙る。
エリスの表情から何かあったのだと察した。
「ちょっとマキヤ君。見せなきゃいけないものがあって」
「え、分かった」
エリスについていった先はプールサイド。彼女はポータルギアを起動させホログラムの窓を開いていった。
「ここ見て。昨日君も指摘した、ハレ視点におけるレナータス号の乗員数」
「あれ、『3』になってる。昨日は『4』だった筈じゃ? あ、今『4』になった」
「『3』になったり『4』になったり、安定してないの」
エリスは顔を曇らせ数字口元に手をやった。
「マキヤ君、どう思う?」
「ええと……ハレは俺達の身体をアプリで監視していて、つまり一人、死にかけてるとか……? だから数字が不安定で――」
俺の脳裏に、頭部をやられ血を流すカイン船長の姿が浮かんだ。俺の表情の変化を読み取ったエリスが「彼だと思う」と呟いた。
「二人が閉じ込められたC区画には医療施設が無い。早くA区画の医務室に連れて行かないと、多分助からない」
「そっか……。じゃあ何とか、早いとこ……しないとな」
俺の言葉は空虚すぎた。助けられるわけがない、A区画にはアイツがいるのに。
食糧庫内で泣いているマリーが脳裏に浮かんだ。
「それともう一つ……」
「まだあるの?」
次にエリスが案内したのはTCRだった。エリスが何を言わんとしているのか、その時点で解ってしまった。
地球に降り立つとそこは何もない砂漠だった。
「どこだここ。本当に日本……?」
「地理で言えば、かつての島根と広島の県境辺り。鳥取砂丘が拡大して旧島根、旧岡山、旧広島の一部まで砂漠化が進んでいる」
二人で砂漠の丘を越えると、誰か斃れていた。
ミカセオだ。砂漠にこんなにいるのかというぐらい蠅が集(たか)っている。俺は呆然とミカセオの亡骸を眺めていたが、やがてはっとする。
「あれ、ツナコは? 彼女はどこ行って――」
「二人は盗賊に襲われた」
エリスが暗い顔で言う。
「さっき録画映像で確認した」
「それで、ツナコの方は……?」
エリスは小さく首を横に振る。
「その、映像っていうのは……」
「あの子の服だけ砂上にあった。彼女は、溶けてなくなった」
「そっか」
(つまりツナコは……そういうことか)
「全部俺のせいだ」
意味のない言葉が口をついて出る。
「俺がちゃんとミカセオとツナコを見ていれば、違う結果になってた」
「いいえ。私もハッキングを言い訳に二人のことを見捨てた。別の世界の辛い現実まで直視したくなくて……。B区画に缶詰でも、せめてこの二人のことは、助けられたかもしれなかったのに」
「いや……ごめん本当に俺のせい」
何やってんだろう俺。どうしようもない罪悪感で身体が掻き毟られる。もうやってられねえ。このまま、この世界を続けるのが嫌で嫌で仕方ない。
俺は無理やりフローギアを脱いだ。意識が剥がされ、ぐっと船内に引き戻される。
(タイムリープしちゃえばいい)
そうだ。もう初めまで戻そう。別に高校入学まで戻ったっていい。そしたら何もかも元通りだ。全部やり直せる、俺にはその力がある。
柑橘系の香りが鼻腔をくすぐった。TCRに裂け目が入り、空間がベロリと――。
鋭い痛みでタイムリープの香りが消える。エリスの手が俺の腕をぎゅっと掴んでいた。彼女の瞳は『逃げるな』と言っていた。
「……ごめん。俺つい」
「分かってるならいいけど……」
エリスから静かに確認を求められている。
「……約束したよな。俺はもうこの周、タイムリープしないよ」
エリスの細く白い手が離れる。俺の身体から力が抜けた。
その時だった。ドーン……という重低音が遠くで、あった。
あ。まただ。
それは重たい壁を叩き潰す様な悍ましい音だった。エリスの顔色が青褪めていく。
「これ、隔壁扉の方……」
はっとした。無心で駆け付けた。真っ二つにされたサバタの死体が転がる隔壁扉の前。足を止める。既に隔壁扉は盛り上がり、拉げてしまっていた。エリスがサバタの手のレーザー銃を素早く取り上げ、白銀の銃口を隔壁扉へ向けた。
ボコォと隔壁扉が凸る。彼女は震えていた。俺は彼女の手に自分の手を添え、いつでも銃を撃てるよう引き金に指を重ねた。
いつ破られてもおかしくない。
その状況下で、突撃が止んだ。
俺達はまだ信じられないで隔壁が突き破られるのに備えたが、五分、十分と時間が過ぎたところでその場を離れた。
休憩室に置かれたレーザー銃を俺はぼうっと見つめていた。
俺も、多分エリスも今、どうしようもない絶望感に曝されている。隔壁扉は壊れる寸前。いつゴーシュに殺されるか分からない。C区画ではカインが死にかけていて、ミカセオとツナコまで死んでしまった。
どうすればいい。
何度この問いを自分に投げかけた。タイムリープなんて力があっても、誰も助けられない。罪の意識が心を蝕んでいく。苦しい。叫び出したい衝動が定期的に湧き上がる。
この状況はいつまで続く?
一周目が終わるまで。
冷静な自答は心を治せない。宗教に溺れる人の気持ちが分かった。要は心の防衛の為の逃げだ。
エリスがおもむろに立ち上がり、ふらふらと休憩室を歩いていく。そして、バーのカウンターの下から何かを取り出した。
それは、薬の瓶だった。見覚えある。昨日おかしかったエリスから俺が取り上げたものだ。
ぼんやりしている内にエリスは瓶の蓋を開け、手の平に錠剤を溢れさせた。
止めないと。
そう思いつつ俺はエリスに同情すらしていた。
俺がカウンターまで行って彼女の手を掴む。だがエリスは強引にノンアルワインでそれらを流し込んでしまった。
荒い息をするエリスと目があった。エリスは無言のまま空のグラスにワインをなみなみ注ぐと、そっと俺の前にスライドさせた。
共犯にするつもりらしい。
俺は。
俺は……。
「いくぞー!」
プールに飛び込む。水飛沫。ゴポゴポと空気の泡に包まれた俺はプールの底を蹴り、バッと水面へ出て息をする。傍でエリスの笑い声が聞こえた。金メダルなんか取らなくても超気持ちイイ。鬱屈から解放された俺とエリスはB区画を遊び尽くした。プールで自由形競争してエリスに勝った! 超楽しい。プールの水をタンクに詰めて、サーマルガーデンで水鉄砲早撃ち五番勝負。二対三で俺の負け! 超楽しい。屋内シネマで古典映画を見た。休憩室のナッツとワインをホログラムでポップコーンに見せかけて食べたけど、味はそのままだった。でも楽しい。途中から飽きて、映画そっちのけでスクリーンに入って、中のプティングを食い荒らした。いくら食べてお腹は膨れないが超楽しい。
最高!
最高。
最高!!
「あははははっ!」
「ね、だから言った! タイムリープしなくて良かったでしょ!?」
「マジでそう! さっきまでの俺バカじゃん!」
顔に落書きされた映画俳優が大真面目な顔して演技しているのを笑っていると、エリスが笑い疲れたトーンで言う。
「ねえもう一度約束して。『この周は最後までタイムリープしない』って」
「え、いいよ。俺、下小牧蒔也はタイムリープしない! ここに誓いますっ」
「良し」
エリスは敵の宇宙人にパイを投げつけるとスクリーンから出ていった。俺もエリスの後を追った。
「五感映画も……いいえ五感映画だからこそ作り物感がする」
エリスはやれやれと指を舐めた。
「生クリームなんて付いてないぞ? はっ、ばっちり騙されてる」
エリスはむっと眉をひそめた。
「そうじゃなくて。あれは本来映画の中に入ってリアルを楽しむもの。だけど五感映画は現場の空気まで伝わるから……。結局、スクリーンの外から見た方がリアルって話」
「ああなるほどね」
どうでもいいや。
船内照明はすっかり夕方だった。
「本当の星が見たい」と言うから、天体観測室に入る。
エリスが巨大望遠鏡の座椅子にひょいと座った。
「一緒に見ない?」
「え、俺?」
エリスの隣りに座り、巨大なレンズを覗き込む。
「ぼやけてよく視えないぞ?」
「焦点を合わせないと。ちょっと待って」
望遠鏡の調整をエリスが始めた。エリスの肘が俺の体に当たる。俺は身体を縮めつつ、手持ち無沙汰で辺りを見回す。
夕焼けの照明で天体観測室は真っ赤に染まっている。
(何か……変な感じだ)
漫画とか恋愛小説でよく出てくる、変な雰囲気というか。あれは、きっとこれのことだ。
音の鳴らない様に唾を飲み込む。エリスの気持ちもきっと一緒だ。気まずい沈黙が漂う。ああドキドキしてしょうがない。
調整が終わったのかエリスが姿勢を戻し俺を見る。エリスの顔がすぐそこにあった。俺の両手が彼女の白い首元に伸びる。
「マキヤ君……?」
俺の手が彼女の首を絞めていた。エリスの白んだ顔が段々赤くなっていく。苦しそうな彼女の口元から透明な涎が一筋垂れた。
「やめてっ」
エリスに突き飛ばされ、俺は我に返った。
エリスの瞳は怯えていた。
「独りにして……」
エリスは一言呟くと天体観測室を出ていく。
俺は呆然と自分の手を見つめた。どうしちゃったんだ、俺。
「マジでおかしくなってんじゃん。はは……」
誰もいなくなった天体観測室。小一時間はそこにいたと思う。次第に頭が冷静になってきた。一つ確かなのは、俺がエリスを傷つけたということだ。
「謝れ」
俺は怠い身体を持ち上げ、天体観測室を出た。休憩室を覗いたが誰もいない。サバタのレーザー銃が無くなっている。きっと俺を警戒して護身用に持ってるんだ。そう思った。
無人の通路を歩く。初夏の気候に設定された夕暮れのレナータス。隔壁扉はさっきと変わらない。サーマルガーデンにもシネマ室にもエリスの姿は見当たらない。念の為に天体観測室も覗いた。後はプールだけだ。
何でだろう、嫌な予感がする。心が勝手に自衛を始めた。
俺は男子更衣室を抜け、プールサイドに出た。
「エリス」
彼女は壁にもたれて座っている。彼女に近づくほど脚の歩みが緩やかになる。エリスの右手にはレーザー銃が握られていた。彼女の周りには赤いものが飛び散っている。
エリスは頭を撃ち抜いていた。
言葉を失う。しばらく彼女の亡骸を俺は見つめた。
何やってんだよ。
何やってたよ俺。
すぐに謝れば良かった。
分かったはずだろ、精神が不安定なの。
俺はもうエリスに近寄ることすらせず足早にプールを後にする。感情が無い。休憩室のソファに倒れ込むと、不意に涙が溢れてくる。よく分からないまま俺は泣いた。
そのまま俺は寝てたらしい。気づくと朝になっていた。向こうの人影に気づき、俺は目を擦った。
「おはようマキヤ君」
エリスの声だ。
「あれエリス。君、死んだのに」
「何言ってるの?」
エリスは怪訝な顔をしてくる。俺は飛び起きた。
「エリス、なんで生きてんだよ?」
「え……? ちょっと」
俺は彼女の手を掴むと強引にプールに連れて行く。
「ほら、エリスが。あれ……」
エリスの死体は消えていた。
「何で。無くなってる」
「当たり前。私は生きてるから」
俺は放心状態でエリスを眺めた。エリスは俺と目を合わせず、「見て」とハッキングしたプールの管理システムのホログラムを指でなぞる。
「乗員数のところ。『2』になってる」
「本当だ。え? それだと、俺達しか生存者がいない……ってことになる」
つまりカインだけなくマリーも死んだのか。混乱する俺に、エリスは普段より柔らかな口調で言った。
「マキヤ君は、きっと薬のせいで幻覚を視たんだよ」
「そうなのかな……」
「もう少し、休んだ方が良いんじゃない?」
「……ごめん。そうするよ。起きてたって何もないしな……」
病人みたくエリスに付き添われ、俺は休憩室のソファに寝かされた。
「眠れそう……? 寝た方がいい」
「さあ。今起きたばっかだよ」
「寝られるまで一緒にいてあげる」
なんだかエリスがやけに優しい。ともかく彼女は生きていたんだ。俺はほっとして、彼女に見守られながら再び目を瞑った。
だいぶ前から警報音は鳴っていた気がする。目を開けると船内は赤く明滅していた。エリスの姿は休憩室に無い。ハレが英語で何か喋っている。赤点すれすれでも分かる。これは多分、船が間もなく爆発する的な内容だ。
「いつになく目覚めが良いな」
皮肉じゃなく本当に目が冴えた。まるで生まれ変わったみたいだ。俺は身体を起こし船内を歩いた。通路の奥、C区画へ続く隔壁扉が開いていた。俺は一瞬躊躇して、C区画へ足を踏み入れた。食糧庫を覗くと、カインとマリーは原型を保たない状態で転がっていた。死んだのはついさっき。おそらくゴーシュにやられたのだ。初夏を模した風が心地良い。でも急がないと。俺は彼等をそのままに中央区画へ向かって走った。何か無駄に蒸気まで噴き出して、船が悲鳴を上げ始めている。とにかく爆破を止めないと。
ゴーシュに出会わないことを祈りつつ中央区画に到着した俺は、螺旋エスカレータを伝い半地下のフロアへ降りる。船の中枢、目当ての操縦室(コックピット)へ続く乳白色の扉は、前と違って俺が近づいただけですーっと開いてくれた。
操縦室の内部には蒼いホログラムの小窓がたくさん浮かんでいる。今まで誰かいた様な気配がしたが、それでも。いやそんなモノよりも青色の惑星に意識を盗まれた。
地球はTCRから見るそれより遥かに大きく美しく感じられた。引き寄せられる様に窓へ近づいてった。
「動くな」背後から冷たい声を浴びせられた。
「……君かよ。裏切り者って」
「あのまま寝てれば良かったのに」
エリスは俺にレーザー銃を向けたまま操縦室のドアをロックする。
「そうすれば何も知らないで死ねたよ」
「何で船なんか爆破すんの?」
硝子に映ったエリスに問いかける。彼女は操縦席に座ると、片方の手でホログラムの操作を始めた。
「私だって爆破したくなかった。船で問題が起こらないよう、私なりに目は光らせていたつもり。でもこうなった以上、爆破するしかない。それが私の任務だから」
「君の任務?」
「私はTPO職員なんだ。即ち時間保護機構(タイム・プロテクション・オーガニゼーション)から送り込まれたスパイってところ。七年前、『地球を再開拓する為の宇宙船が、人類に大いなる災いを齎す』という情報が未来から伝わった。本音を言えば組織も地球の再開拓自体を止めたかっただろうけど、色々な利権が絡んでそれは不可能だった」
「未来から伝わった情報が……『大いなる災い』だ? ずいぶんと抽象的なんだね」
蒼い星と向かい合って両手を挙げながらツッコんでやる。
「歴史改変時に選択され得る人の行動は――」エリスは表情一つ変えず、静かながら芯のある声で言い返してきた。
「未来から伝わった情報が精密であるほど良くも悪くも限定化される。もしそれが誤った対処法だった場合、歴史改変は永久に失敗し続けることに。だから、過去へ伝える情報は、必ずぼかしを入れ大ざっぱに伝達する。それがTPOの掟。現場としてはもう少し情報が欲しかったけど……」
ホログラムの青い小窓達が音もなく付いたり消えたりを繰り返している。
「まず開拓船は、本来と違う型に変更。搭載予定だった最新の人工知能も旧型のハレに。その上で元々の乗員とは違う者が一名送り込まれた。それが私。レナータスに自爆機能が付いていることは船長のカインリヒ・ハ・カウスフォッグ並びにHALE-二二二(にーにーにー)型すらも知らされていなかった」
「……なあ。何でこうなった?」
勇気を出して振り向く。エリスは不機嫌を目頭に溜め、白銀の銃口を構え直した。
「動くな、と言った筈」
「何が原因でこんなことに――」
「それはボクがお答えするよ」
天井からアニメ声が降ってくる。久方ぶりのAI音声。あまり良い思い出はないけど懐かしく感じられた。
「ハレ……何で今まで無視してた?」
「そりゃボク視点ではキミ達みんな容疑者なんだもの。仲間同士殺し合ってさ。でも途中から二人に悪意が無いことは解った。それでも、どっちにしろあまり情報を与えたくなかったんだ。キミらの精神状態は、お世辞的にも良くなかったし」
「つまりどういうこと? 説明しろよ」
「マキヤ君も見たでしょ私の死体」
今日の昼食エビフライ、のテンションでエリスが言う。
「あれは薬の幻覚でも何でもない。確かに私はプールサイドで自害したんだよ。結局死ねなかったけど。つまり、私はもう『人じゃなくなってる』。それはマキヤ君、君もだよ」
「俺も……?」
「今ここで心臓を撃ち抜いても君は元気。私が保証する。信じないなら撃ってあげようか」
「やめてくれマジで」
エリスの姿が望月と重なる。エリスはふっと笑った。
「大丈夫。この船の自爆に巻き込まれたら細胞の一つも残らないで死ねるよ」
「何一つとして大丈夫じゃないよ」
「どうして? 私達は人じゃなくなってる。昨日、天体観測室で私を殺そうとしたよね」
「いや、あれはその――」
「実はあの時、私も殺そうと思ってたの。気が合うね。先を越された」
からっとした口調で恐ろしいことを告白され、俺は黙るしかなかった。
「薬で誤魔化していたものの、私も君もあの時点で恐らく発症はしていた。ハレの思考データで乗員数が『3』と『4』を行き来してたのは、カインの危篤を表していた訳じゃない。実際には私と君、あるいは両方の発症の進行を意味していた。その後プールの管理システムの乗員数が『2』になっていたことを憶えている? あの時には私も君も、完全なる人外になったということ。そうでしょう、ハレ」
「おっしゃる通りデス」
「は、発症……? なにが、発症したの」
「黙っててゴメンナサイ」
ハレが小さく息を吸った。
「正しくは遺伝子の改造です。お二人の体は着々と変容していたんです、悪性のナノマシンによって。なのでマキヤやエリス、それにゴーシュは人ではない別の生命体になっています。ハイ」
「はあ? 意味分からない」
「出来た」
エリスの言葉に呼応してアームが天井から下りてくる。半透明の膜に包まれたカプセルを彼女は手中で転がし始めた。
「それは?」
「船の爆破装置」
「……そんなもの。そんなものエリスに渡すなハレッ!」
天井に叫ぶ。ハレは珍しく気落ちしたトーンで言い返してきた。
「勿論ボクだって自分を破壊したくないですヨ。でも見たでしょ? 未発症だったカインとマリーはゴーシュに殺されてしまいましたし、もうレナータスに守るべき人類は一人たりとも残ってません。ここにいるのは元人間の何かなんです」
(元人間には俺も含まれている……)
ハレの言葉を頭が理解したくないと喚いた。
「キミ達を改造した悪性ナノマシンは今も船内に浮遊しています。もし火星に船が到着してしまえば、他の人類まで汚染されてしまう。汚染された人類が銀河中に散らばれば、今度こそヒトという生物は絶滅しかねない。こうなってしまった以上、ボクの火星への帰還は赦されないんです。それで困っていたら、『私なら船を完膚なきまでに爆破させられる』ってエリスが言うんですよ。ボクに自爆機能が付いてるなんて半信半疑だったけど、まあ誰も守る必要ないですし、隔壁扉は全て解放して彼女の好きにさせました」
「質問。その悪性ナノマシンとやらの出処は?」
俺の問いに「地球です」ハレがあっけらかんと答える。
「故障や初期不良のナノマシンを回収するポッドがあったんです。ご存じです?」
「あ、そう言えば……ゴーシュがそれを修理するとか、なんとか」
「ハイ。彼女に最初におかしくなったのも、ポッドに一番接してたからでしょうネ」
「ハレ。何でそんなナノマシンが地球の大気中にあったか考察して」
エリスの問いに「良い質問ですねー」とハレは一考。
「……まあ普通に考えれば、昔人類が地球を捨てた原因こそ悪性ナノマシンだったんじゃないですか? 現にこの船も滅茶苦茶になりましたし」
「禁忌群の正体がナノマシン。そんなこと知れ渡ったら、青嵐グループの株が大暴落しそう」
「何であれ人類を狂わすナノマシンがボクらの投下した回収ポッドに混入し、他のナノマシンまで変容させ、船内で増殖した可能性が高いんデス」
『分かった?』と言いたげにエリスが俺の方を見る。
「なるほど。そいつが全ての元凶か。じゃあポッドを捨てれば……」
「今さら手遅れですけどね」
これでエリスとハレは一応、言いたいことは全部言い終えたらしい。
「いやー自白ってすっきりしますネ。推理物の最後でぺらぺら馬鹿みたいに喋りまくる犯人の気持ちがよおく分かりました。冥土の土産になりましたヨ」
「でも俺が人間じゃないなんて……まだ信じられないな」
ハレを無視してエリスに語り掛ける。
「君だってそうじゃないか?」
「マキヤ君悪いけど、私は自分が人かそうでないか自分の手で確かめたから」
エリスにさらっと反論され、何も言い返せない。
「……でもさ、気づかない内に改造されるなんてことあるか? だってさ――」
ピュン。レーザー銃から青い光線。俺の心臓が撃ち抜かれる。
「あっ」
撃ったエリスも「あっ」という顔。そのまま二人、見つめ合う。
「……え。あれ、ほんとだ。俺、生きてる。生きて……って、何で撃ってんだよ」
「口で言うより早いと思って」
こいつ。やっぱり実は望月なんじゃないか?
「そうか分かったよ! 俺達はゴーシュみたいな化け物になったんだな? そうなんだよな!?」
エリスはこくりと頷いた。
彼女の掌で黄金色に輝く菱形の金属片。エリスは慎重にそれの栓を引き抜いた。
「後は、押し込むだけ。レナータスは跡形もなく消滅する」
「待ったエリス」
一息入れ、エリスの瞳をじっと見つめた。
「俺は……タイムリープしないって言ったけど、船の爆破には賛成できない」
「マキヤ君」
「死にたくない」
「……こ、この期に及んで?」
エリスは白け顔で軽く笑い、口元をすぼめた。
「今までの話、聞いてた? 私達はもう人じゃない。改造されてしまった。今こうして話していられるのは、二人とも人じゃないから。ゾンビがゾンビを襲わないのと一緒。船の爆破は受け入れて」
「じゃあ何で君の手は震えてるんだ?」
エリスは表情を変えないで金色の起爆装置を握る手の震えを、もう片方の手で押さえつけた。
「別に」
「隠さなくていいよ。そりゃ死にたくない、誰だって」
「マキヤ君。私を説得しようなんて考えないで。任務は遂行する」
「……分かった。君の任務を尊重してレナータスの爆破は受け入れる」
「だったら――」
「でも俺は死ぬつもりないし、君に二度も自殺はさせない。俺と君はタイムリープが起きる最後まで、絶対に生存する。なんなら火星だって行く」
「マキヤ君……正気?」
「全然正気」
俺はポータルギアを起動させ船内の地図を開いた。
「格納庫にサバタの小型船がある。それに乗ってここを離れた後、スイッチを押してレナータスを爆破する。これで君の任務は遂行だ。俺達はサバタの船で火星へ行って、全ての事情を話して火星基地で治療を受けよう。改造されたなら、改造し直せばいい」
「何、それ。いや、でも……任務は曖昧だから……?」
エリスが考えに耽っていく。
「そうか。確かに。船さえ爆破すればいい……別に死ななくてもいいんだ」
「……あのう、マジで言ってます?」
ハレがうんざりした声を発した。
「二人だけレナータス号を出て火星へ向かう? ふざけるな。ボクがそんなこと許すと思います? 人類の敵になったキミらを外へなんか出すわけないです。隔壁扉も閉じて完全に通路を閉じますよボク」
思い出した様にエリスが天井を見上げた。
「ハレ、それは無理。何故なら私達はコックピットにいるから。この船のコントロールは完全に掌握可能」
「へえ、たかが二等航海士兼通信士のアナタが? やめて下さい、船長でもないアナタにそんな権限ありません」
「宇宙船員法第二十条は?」
エリスは一拍置くと、つらつらと難しい言葉を羅列した。
「船長が死亡、船舶を去る、又はこれを指揮することができない場合において他人を選任しない時、運航に従事する者はその職掌の順位に従って船長の職務を行う。カイン船長とアーデイ副船長が死亡している以上、二等航海士である私が船長の責務を負う」
「ふぇーっ。いやエリス、キミはもう人じゃないしボクはキミを乗員としてカウントしてないです」
「でも生存しているとは認識してるよね? でないと今ハレと私の会話が成立しているのはおかしい」
ハレは沈黙している。
「まあ認めないならハッキングするけど。コックピット内からハッキングされる想定なんてしてない筈。きっとセキュリティはガバガバ」
「……ああもうやられた!」
ハレが甲高い声で喚き出す。
「こんなことならコックピットに入れなきゃ良かったですヨ!」
「ごめんねハレ。急に気が変わっちゃった」
「勝手にして下さい、この裏切り者!」
エリスは黄金の小型機械をポケットに入れ、雑に銃を俺へ放ると操縦席のホログラムに腕を突っ込み、ピアノの鍵盤でも弾く様に指を動かし始めた。
「……よし、出来た。あと一時間は船のドアが自由に開閉するよう設定した。亜光速航行も停止。これで誰にも邪魔されることなく格納庫から宇宙へ出られる」
「ありがとうエリス」
「マキヤ君……あのね」
「なんだ?」
エリスは何か言いかけたが、「いえ」と言葉を濁した。
「しっかし、キミ達はホントにラブラブですねー」
ハレに茶化されて俺もエリスも一瞬固まる。
「うるさいよハレ」
「顔が赤いですよ二人とも」
「見えてないクセに」
「……ああ、そうだ! 船を爆破する前に食糧庫の美味しいもの、ありったけ持ってって下さいよ。高級タラバガニもあるし、爆破したらもったいないですよ?」
「あ、それもそうだな。サンキューハレ」
「もう、このリア充共め。爆発しちゃいなよっ」
コックピットを出て、食糧庫のあるC区画に向かおうとする俺の手をエリスが掴む。
「なんだよ。食糧庫行かないの? わっ、強いって」
エリスは無言で、A区画へ続く通路に引っ張っていく。
「エリス?」
「マキヤ君。君はハレが本気で何もしてこないと思ってる?」
「えっ?」
エリスの真剣な目つきに惚気た気分が一瞬で吹き飛んだ。
「何だよ。どういうあれ」
「ハレは今必死になって、自らの意思で自爆出来るようプログラムを書き換えている最中」
「根拠は?」
「無い。けど、そうに決まってる。食糧庫へ向かうよう言ったのは時間稼ぎ」
「それはハレが反乱したから? じゃなくて……?」
「逆。あの子は今、人類の為に行動してる。私達を生かしたところで人類には何のメリットも無い……私も君もただの危険分子だから」
エリスの言葉に薄ら寒さを覚えた。そうだった、俺もう人間じゃないんだ。
格納庫のドアが開いた。がらんと無駄に広い深緑色の空間に二人の靴音が反響する。サバタの船は全長十メートルほど。古そうだが、このレナータスと比較しなければ充分立派だ。
「あのさ。他人の船なんて操縦できんの?」
船に乗り込んですぐ聞いた。エリスは少しムスッとする。
「私はTPOのエージェントで地球再開拓の六名に選ばれたエリートでもあるんだよ。それにこの船、結構簡単なタイプ。一週間も練習すれば君でも操れる」
「そんな機会ないんでエリスに任せます」
「任せて。今から船をエアロック内に移動させる」
エリスが操縦席に座り、慣れた手付きでスイッチをパチパチ上げていく。
「ワープ機能は?」
「……一丁前にあるみたい。けど、火星基地のジャマー装置がある限り太陽系内では不可」
「わざと不便にしてるんだ?」
「二、三日で火星に着くよ。近いから亜光速航行も必要ない」
船が小さく震え稼働を始め、ゆっくりと宙に浮かんだ。そのままチューブ内に移動し、背後の気圧扉が閉まった。
「減圧を開始。船は……ええと? 船の名前……」
「シン人類号」
「今つけた名前」
やがて外部のハッチがゆっくり開き、宇宙が姿を現した。エリスがレバーを引くと、サバタの船は宙へ身を躍らせる。途端に身体が重力を失い、ふわっと浮いた。
「うわーすげえー」
感嘆の声が出る。目の前に見えるのは勿論地球。宇宙飛行士になった気分。SF小説の良いアイデアが湧いた。メモ帳を開いている内にどんどんレナータスが遠くなっていく。
「……よし。そろそろ――」
エリスが黄金色の器械を取り出した時だった。全身を真っ白な光が突き抜ける。そして――。
激しい衝撃が船を襲った。ガクンと座席が揺れ、コックピットが異常音を吐く。
「何だっ」
慌ててシートベルトを締める。
「ハレが、自爆したんだ」
エリスは悲しい顔をしてモニターを見つめる。
「もう少し遅かったら、私達も爆破に巻き込まれていた」
真っ白な光が収束していく。船の警告音が収まる。それからいくらモニターを覗いても、レナータス号は跡形も無くこの宙域から消えていた。
「……食糧庫、寄らなくて良かったな」
二人で安堵の息を吐く。次に自然と笑みが零れた。生きる喜びがじわっと胸に滲んだ。
「ほらエリスも。もっと笑えば」
「あははは……」
エリスはどこかぎこちなかった。
「さっきは。言わなかったけど……」
「え?」
「戸惑うと思って」
エリスが視線を逸らした。
「でもここまでの行動って、本当に私達の意思なのかな……」
「はあ……?」
「だって死にたくないだけなら、レナータスを爆破しないで静かに、あの場所で終われば良かった気もしていて。ハレにそう説明すれば、あの子は多分受け入れたはず。なのにわざわざ船を出て、今、私達は火星へ向かおうとしている。これって本当に私達の意思……?」
エリスの言わんとしていることを理解し俺の顔から表情が失われていく。
「……いや。それはただ生きたいからだろ? それは人として当たり前のことで。火星基地の人に全て説明して、治療してもらう為に俺達は今、火星を目指してるんだって」
「そうだよね……うん。きっとそう」
エリスは頷いたが、どこか浮かない顔。正直俺もこれが自分の意思なのか、それともナノマシンに操られて火星の人間まで巻き込もうとしているのか。分からない。
「でもさエリス。死んで欲しくないのは本当だよ。もう君が死ぬのは見てられない」
「……そうなんだ」
ちょっと空気が照れた。
ピーッ。間の悪いことに異音を船が吐き出す。
「このオンボロ船……」
エリスが溜息をついたのと同時にガン! と天井から鈍い音がした。
「え……? デッキの方。デブリでもぶつかった……?」
「何か張り付いてんじゃない? エイリアンとかさ」
冗談で言ったつもりだった。再び鈍い音が上方でする。音が、コックピットの方へと移動している。俺達はそっと顔を見合わせた。
正面を向く。硝子窓の向こう。広がる宇宙。巨大な地球。そして。
ヌーッと、頭の欠損した化け物が上から顔を覗かせる。オニ化の進んだゴーシュの成れの果てだ。エリスが悲鳴を上げる。そいつはクチャアと大量の歯を見せびらかすと、硝子窓に向かって頭をぶつけ始めた。コックピットの硝子にヒビが入る。
「え、エリス!」
「マキヤ君、宇宙服着てっ」
エリスはレバーを引いて宇宙船を旋回させた。
「どうする気だ」
「火葬する」
船は地球へ向かってスピードを上げていく。ゴーシュだった何かと目を合わせたくない俺は、硝子から顔を背けつつ宇宙服に身を包む。その頃には、エリスが何をしたいのか漠然と理解した。
「掴まって」
やがてシン人類号は焔を纏い始めた。船が地球の大気圏へ突入したのだ。それは船体に張り付いたゴーシュも例外ではなかった。彼女は火達磨になって、黒焦げになって、そしてとうとう船から剥がれ、引力の導くまま地球へと落ちていった。
「いぇーいざまあみろ人殺し!」
「よし。次は再上昇。下手したら船が真っ二つになるけどいいよね……」
「いいよ!」
それから二十分後。果たして、シン人類号は無事に宇宙へと戻ってきた。俺達は今度こそ安堵して、ハイタッチして、火星へと向かうのだった。
「……キヤ君。マキヤ君。あと一時間もしないで火星に着くよ」
エリスに揺り起こされ、薄目を開ける。赤銅色の大きな星がヒビ割れた硝子の向こうにでっぷりと浮かんでいた。
「本当に着いたんだ」
「当たり前。どこへ着くと思ってた……?」
エリスが白い歯を見せる。なんだか夢みたいだ。
(ツナコに見せられた未来視ほどじゃないけど、そんな悪くないな……)
不意にエリスが鼻を啜り、目元を擦った。
「なんだよ。泣いてるの? 何で?」
「泣いてるよ。嬉し涙。私、途中からレナータスと共に死ぬんだって諦めてたから。まさか火星まで行けるなんて」
「俺のおかげ?」
「……そう。君のおかげ」
エリスがにこっと笑う。何だか調子が狂う。
「いや俺何もしてないし。まだタイムリープも起きてない。ええとレナータス出て、もう二日?」
「そうだね。いつゴーシュみたいに体が変容したって不思議じゃないよ」
「背中から翼が生えたり、尻尾が生えたり……?」
「目が増えたり首が伸びたり口が裂けたり……」
「妖怪かよ……」
エリスの言葉は全く笑えなかった。不安な顔をする俺を見てエリスが楽しそうに背伸びをする。
「大丈夫、二人とも化け物なら怖くない」
「怖いだろ」
「怖くない」
俺は真面目な顔をする。
「でも本当に、何も解ってないんだ。ギヲンに到達してタイムリープが防げるのかも。そのタイムリープだって起こる気配が無い。君と望月さんが同じ外見だったことも……」
「それ。少なくとも望月槐なんて人は『TPOにいない』よ」
「ええっ!?」
「どの時間軸のTPOに於いても、そんな人がいた記録は無い」
「本当に? ちゃんと、確かめたのか?」
神妙な顔で頷く彼女。
「レナータスの通信室でTPOの火星支部に連絡して確認した。多分その人、TPOと無関係の時間遡行者か、あるいは何か別の……――」
操縦席がピピッと何かに反応し出す。エリスが不思議そうな顔でモニターを表示させた。緑色のレーダーを見るなり彼女の顔色が変わった。
「どうした?」
「ステルス戦艦……」
エリスの指差す先、肉眼でも見えた。火星の手前には突如として藍色の艦隊が現れ、V字状に整列している。
「火星の守備隊」
エリスがモニターを操作した。
「こちら開拓艦レナータスの生存者です。至急、救助を要請します。どうぞ」
応答が無い。俺もモニターに話しかける。
「俺達二人、地球由来のバグったナノマシンに改造されたっぽいんです。何か、治療班とかいないんですか?」
いくら待っても返事はない。それどころか火星軌道上に浮かぶ戦艦共はマゼンタ色の淡い光をぽうっと帯び始めた。
「なるほど……そういうこと」
エリスの額から一筋の汗が伝う。
「どういうこと……?」
「私達を助ける気なんて、ハナから無いってこと。どう見てもアレ……一斉砲火の準備してる」
「そんな……。じゃあ逃げないと! エリス、旋回を……!」
彼女の手が静かに俺の手へ重ねられる。エリスの目を見て俺は口を噤んだ。
「もう充分かな」
エリスはすっかり落ち着いていた。俺は返す言葉が見当たらない。
「マキヤ君。ここまでしてくれてありがとう。私は嬉しかった」
「……いや。多分、そろそろ巨大タイムリープが起こるって! 起こる筈なんだ。そしたら一緒に時間を巻き戻って、それまでは何とか……」
「間に合わない。それよりも約束して」
マゼンタ色の星々を背景に彼女は言った。
「次のループでは皆助けるって」
「ああ。解ってる」
「今回はアレだったけど、ゴーシュのことも。ミカセオやツナコのことも。ハレも。それと、私のことも……」
「当たり前だよ。絶対に助けるから」
「じゃあ、約束の――」
マゼンタの色が強くなり、ピカッと光って辺りから色が飛んだ。俺とエリスは抱き合う。すぐに船体が消え、抱いていたエリスが消える。そして俺の体も何処かに消えた。
瞼に光が当たっている。薄目を開けた。白い。きっとレナータス号の医務室だ。既視感でくらくらする。
「目が覚めたみたい」
何度も聞いた声。さっきまで聞いていた様で、遠い昔の様でもある。
まだ視界がぼやけていた。でも覗き込んでいるのが誰なのか俺は知っていた。
焦点が合ってくる。エリスの顔には、何ら特別な感情は見られなかった。B区画に閉じ込められたことも、火星まで行ったことも何もかも、今のエリスは経験していないのは明らかだ。
(そうだよな……赤の他人だよな)
それでも。
逸る気持ちをこらえ、俺は手を差し出した。
「……初めましてエリス。俺は下小牧蒔也」
「へ、変な名前……。というか何で私のこと……」
俺はすたっと裸足で医務室に立つ。冷たっ。
「ぜ、全部知ってるんだよ。これから船で何が起こるのかも」
呆気に取られるエリス。アーデイにサバタもいる。今度は誰も死なせない。
タイムリープ二周目が今、これから始まる。
下小牧蒔也の周りには死体が転がっている 桧秋 @hiakihisui
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