下小牧蒔也の周りには死体が転がっている
桧秋
プロローグ
宇宙服の少女の瞳には、伝承通りに蒼い星が映り込んでいる。サイレンの音が反響し、船内は赤々と明滅する。彼女がほんの少し視線を動かせば、乳白色のドアは今にも強い力で破られようとしている。視界の端で表示される酸素残量は二パーセントを切っていた。
彼女は操縦室(コックピット)のホログラムモニターを撫でる様に操作した。忙しなく小型ホログラムの窓が虚空に開いては警告を発するが、彼女は構わず操作を続ける。機械のアームが降ってきて半透明のカプセルを差し出した。宇宙服の少女が手の平の上でそれを転がすたび、覆っていた膜がパチパチ弾け、菱形の機器が露わになった。黄金色をした機器の栓を引き抜く彼女の指は小刻みに震えていたが、ヘルメット内の呼吸は至って平静だ。
とうとう扉が拉げ、荒い息をした何かが室内へ入ってくる。彼女は一瞬の躊躇いの末、露わになった凸部を強く押し込んだ。
瞬時に眩い光と激しい熱風が船を襲う。
ぽう、と宇宙に微かな明かりが灯った。が、それも一瞬のこと。
今は暗闇ばかりがその辺りに漂っている。
生活指導室に射し込む西日はちっとも暖かくなかった。
縦長の部屋は四人で面談するのに少し窮屈で、校舎の裏の樹では真夏と早とちりしたアブラゼミが単騎鳴き。隣りに座る母は割と落ち着いてて、そして俺は怠かった。
煮詰まった空気の中、学年主任が咳を一つ。
「下小牧(しもこまき)君、これからは学校、来るよね」
「はい」
「もう一度訊くけどイジメは無いんだね?」
「大丈夫です」
「朝起きるのが辛い?」
「多少は」
「勉強が嫌?」
「それは嫌ですよ。でも一番の原因はあの……『面倒』なんです」
「マキヤ、わがまま言わないで」
母に小声で叱責される。担任が渋い顔をした。
「下小牧君。他の生徒は学校に来てるの。あなただけ特別扱いは出来ないです」
「いや何ていうか――」
学年主任が口を挟んでくる。
「学校を休んでばかりだと出席日数が足りなくなるよ。そしたら留年だ。一学年下の子達と同じクラスになる。これから先、困るのはキミだぞ」
空気が謝れと言っている。
「明日から頑張ります」
先生方の顔がふっと緩んだ。分かる。こんな不毛な話し合いに時間をロスしたくないよ。だって俺もそうだ。
適当な挨拶でそれっぽく場がまとまった感じになって、みんなして席を立った。さっさと家帰ろ。良い小説のアイデアが浮かんでいた。
学年主任が無言で俺の背を叩く。
(めんどいなー)
見ると主任の顔はぽっかりと大穴が開いていた。真っ暗な空間が此方を覗いていた。柑橘類の薫りがした。遠くの方で目覚ましのアラームが鳴っていた。
見慣れた天井。自分の部屋。仄かな柑橘の残り香がまだ鼻腔に漂う中、横を見れば枕元の目覚まし時計は六時五十分。朝になっている。
俺は左腕を伸ばしアラームを止めた。この後、母が部屋をノックする。三、二、一……。
トン、トン。
(やっぱりな)
「マキヤ? 今日の放課後、出席日数のことで面談があるんだけど。今日は学校行けるわよね?」
ドア越しの母の声。酷い既視感だった。
「分かってる。行くって」
あれ、さっき思いついたアイデアなんだっけ。病気(タイム・リープ)のせいで忘れた。
「あーあ……」
一しきり絶望した後、俺はベッドを力なく叩いた。
「めんどくせ」
風呂上がり、タオル一枚。少しのぼせつつ赤いグレープフルーツを頬に入れる。考えてみれば今日だけで二十時間弱? 学校に通ったことになる。最悪じゃ。
唯一の癒しはそう……身体の芯がぽかぽかして肌の表面だけ涼しい、今の感じだ。夏限定の。それも早速、失われてく。
明日は期末だ。明日の俺頑張れよ。
酸っぱい顆粒を噛み潰しながらパジャマ着、だらだら寝る支度を済ませていく。
「お母さん。もう寝るよ」
リビングの母とテレビに視線をやった。ちょうど建築資材高騰のニュースが終わるところだった。
「続いてのニュースです。本日未明、複数の男が市川市内の住宅に押し入り家主の老夫婦を縄で縛った上、金品を強奪し逃亡しました。同様の手口の事件は各地で相次いでおり――」
「闇バイト。家の近くじゃん」
「物騒ねー……」母がぽつりと零す。
そういえば、今日は父が出張でいないんだ。つまり今夜は家に俺と母だけ。
妙な胸騒ぎがした。
「ねえ。なんか武器持っとこうぜ」
台所からフライパンを持参。
「お母さんは?」
「大丈夫よ、そんな」
母は笑っていたが俺はフライパン片手に二階へあがる。洗面所の縁に置いとこう。いや待て、こんな所に置いといてもし寝てる間に犯人が来たら? 逆に凶器として使われるじゃないか。
心配性。自室にフライパンを持ち込むヤツなんて俺くらいだ。
ノーパソを開けて、ちょろっと書きかけのSFを進めた後、フライパンを自分の枕元に置いて寝ることにした。布団をかけ、ふと視線を左に向けるとフライパンがあった。
俺は軽く吐息を洩らし部屋を暗くした。
暑さで首元が蒸れていた。真っ暗。朝じゃないのは確か。七月とはいえ息苦しいな。
布団の上に誰かいる。何か冷えた感触が首筋に触れた。指だ。血の通っていない冷たい手が俺の首元を圧迫する。お母さん? 唾が飲み込めない。強盗? 誰かが俺を覗き込んでいる。そいつは俺の顔めがけて四角い、羊羹みたいな物体を近づけてきた。
パニック。俺は枕元を弄った。硬い感触。あった。ぐっと柄を握りしめた俺は正体不明のそいつへフライパンをスイングする。
ところが渾身の調理器具は人影をすり抜け俺の布団に激しく落ちた。その間に羊羹みたいなのが目の前まで来て、そして俺の右の目ん玉にそれがグイグイと押し込まれていって……。
「うわあッ」
跳ね起きると朝日がカーテンの隙間からじっと射し込んでいた。汗びっしょり、目覚ましを止め部屋を見回す。人の姿は、無し。フライパンはベッドから落ちていた。
二階の洗面所の前に立った俺は恐る恐る、右眼を薄目で開けていく。
異常なし。黒い瞳孔が見つめ返す。ははバカらし。フライパンのせいで変な夢見たんだな。間抜け。
自分に呆れ鏡から視線を外すと、洗面所の縁に白く丸い鳥がいた。寝ぼけてるんだ。目を擦る。やっぱり消えた。いやいる。身体が硬直した。確か北海道の、シマエナガってヤツ。それは右眼を瞑ると消えて、開けるといる。
シマエナガの幽霊はくりっとした円らな瞳で首を傾げた。
「おはよーございます」
兄貴の部屋が開いて黒髪を靡かせ女の子が後ろを通り過ぎていった。「おはよー……」シマエナガに気を取られ反射で挨拶した俺は、ぎょっとした。
「だっ誰」
長髪、ルックスの良い、同い年くらいの女の子が階段の手すりに手をかけている。
「あー私のことは気にしないで下さい」覇気のない声で呟きながら一階へ降りていく。俺はしばし呆然としていたが、我に返って母を叩き起こしにいった。
「まじで変なのがいるんだ家に! 強盗かもしんねえ!」
「あんた何言ってんの」
やっと起きた母の手を引き一階へ降りると侵入者はダイニングの椅子に座り、我が物顔でコーンフレークに牛乳をかけている。
「えっ……」母も戸惑っている。幻覚じゃなかった。女の子は顔を上げると母を視認し愛想良く笑みを浮かべた。
「望月……槐(えんじゅ)です。マキ君とは幼馴染で、今日から居候になります」
「……そう。そうだった」
「え?」
母の顔を見る。母は熱に浮かされた様に必死に思考を巡らせていた。
「ほらマキヤ、幼稚園の頃によく……遊んだ、の、よね……?」
「は?」
「彼女のお家がご近所にあって、エンジュちゃんとは家族ぐるみの付き合いで……」
「許嫁」
「そう許嫁。エンジュちゃんのお母さんにマキヤが気に入られて、冗談だと思うけど『許嫁にならないか』って言われたわ」
何言ってるんだお母さん。いや俺の頭がおかしいの。
我が物コーンフレーク女がすらすら嘘を吐くと母も「そうそう」とイエスマンになっている。いやイエスマザーか。とにかくこんなヤツ知らない。知らないぞ。
ホントに。
俺が困惑する間にも二人の認識が次第に一致していくホラーが発生していた。
そして、望月槐という女は俺が小さな頃の幼馴染で、複雑な家の事情とかで一時的に我が家へ居候することがなんと認められてしまった。
「あ。ドッキリだ?」
俺は二人を指差し声を裏返した。
「俺が半不登校だから、どっかのテレビ局に依頼してんだ? そうか、この片目だけ見えるシマエナガも片目にコンタクトか何かを――」
「トリモチ。その子の名はトリモチです」
望月が爽やかな笑顔で言い放ち、母はぽかんとしている。
俺は。
俺はどうする?
そうだ学校行こう。
その日俺は生まれて初めて朝七時半よりも前に校門をくぐったのだ。
「珍しいなぁー、下小牧が二日続けて登校なんて」
「勉強してんだよ。話しかけんな佐藤」
日本史のノートを開く。一旦家の不審者は忘れることにした。あの、あんなのは。今は期末テストに全力。全力でヤマを張ろう。そもそも半不登校の俺にとって授業を休んだ箇所は捨てる以外他がない。チャイムが鳴り先生が入ってきても俺は無心で鎌倉時代をローラーしていた。だから教室の異常に気づかなかった。
「望月槐です。今は同じクラスの子のお家に『居候』しています。よろしくお願いします」
クラスがざわつく。フリーズ。黒板の前に、制服姿のあいつがいた。
「期末試験中に転校かよ」「可愛くね?」「誰と居候ですか」「男子と同居だったり?」「きぇーっ」
「はい静かに。じゃあそこ、空いてる席に座って」
「はい」
望月は教壇を下りて滑らかに此方へ歩いてくる。申し合わせたように俺の隣りが空席になっていた。いつから? 望月は澄まして座ると俺の方を見て軽く笑った。俺は反対方向を向いた。机の端でシマエナガがささくれた木の皮を剥いでいた。
日本史の試験が始まるまで十分間あった。その間、望月は女子に囲まれ質問攻めを食らっている。まだ俺の家に居候とはバレてない。まだ。
「え、じゃあさ望月さん結局どこ住み? スマホの地図で指さしてよ」
「えーとね……」
うわーやめろ。こんなヤツ知らないって。
「ねえ、望月さん全然スクロール出来てないんだけど」
「あは……私スマホ音痴なんだ」
「えーやばっ。やばいよそれ」
そうこうしてる間に一限目が始まり、生徒らが席に戻っていく。セーフ。いや試験の方もやばい。
「……はい始めっ」
担任の一声。試験用紙をめくる乾いた音が一斉にあって、シャーペンが綴る細かな音が教室を支配する。問題に目を通していった俺は、やがてゆーっくりと椅子の背に体をもたれた。
ヤマ、外した。
桓武天皇て誰だっけ。前九年の役とか北条氏を必死に暗記したこの一時間、全然意味なかったじゃん。
「クソー」悪態。小声で。ヤマ張りを平安時代にしとけば……。
せめて赤点は回避できた。
(こういう時こそ、時間が巻き戻ればいいのに)
そう思った。
シマエナガが微かに開いた窓の隙間から飛んでいく。それを目で追う内、俺の視界が滲みだした。アレが起きた時特有の柑橘類みたいな強い臭気が押し寄せる。突き抜ける夏の青空が裂けて清純な雲の隣りに風穴が開いた。世界がどんどん破けていって、そして――。
「珍しいなぁー、下小牧が二日続けて登校なんて」
「は? ……あ、ああ」
冷や汗。既視感が苦しい。俺は周囲をそっと見やった。まだ空席が目立ち先生も来ていない。つうか時計を見ろ。まだ七時半。やっぱりタイムリープだ。
「どうした?」
「いや、勉強してんだよ。話しかけんなよ佐藤……」
一周目の自分の言葉をなぞった俺は冷や汗をハンカチで拭う。なんか変だ。こんな。なんというかまるで。
(まるで『俺の意思で』タイムリープしたみたいだ……。ラッキー……?)
何か引っかかったが、俺は桓武天皇が平安遷都や勘解由使設置を行ったことを暗記していった。
よし。なんとか赤点は回避できそうだぞ。
今度は余裕があったから、ホームルームで担任に紹介され黒板前に立つ転校生を観察することができた。
「今日から転校してきました、望月槐です」
ピカイチのルックス。陽のオーラ。人気出ないわけないな、と客観的に思った。
で、続く言葉は『同じクラスの子と居候しています』だ。この問題発言が彼女の口から飛び出して……。
「皆さん、仲良くして下さい」
「……ということで望月さんはそこの空いてる席に」
一周目と違う。
ハテナが脳内に生え出る間にも望月が机の合間を縫って此方に歩いて来る。
そして彼女は俺にしか聴こえない小さな声で言った。
「カンニング成功」
ぞくっと背筋に冷たいものが走った。ばれた。両親や兄貴にも気づかれてない自分の病気(タイム・リープ)を知られた。しかもよりによって、こんな得体のしれないヤツなんかに?
動悸がする。口の中が渇き身体の中は熱を帯び外側はひどく寒かった。心臓の音がうるさい。落ち着け落ち着け。
なんとか四時限目の数Ⅱまで試験をこなした。教室に張っていた見えない糸が解けて弛緩した空気の中、俺は望月の姿がどこにも無いのに気づいた。
早足で教室を出ると、高校棟と本館を結ぶ空中廊下の先に彼女の後ろ姿を見つけた。
「望月っ……さん」
自称許嫁、大嘘吐いた望月槐は足を止め俺の方を一瞥する。そして傍にあった地域の風土や防災関連の本が置かれた資料コーナー横の三角テーブルと椅子に目を滑らす。ここで話そうと彼女の目が言っていた。俺は笑みを引き攣らせた。
「あのさ、ここは人通るしもっと――」
望月槐は話を聞かず椅子に腰かけた。こめかみから編まれた細い髪束がふっと揺れた。
「必要に応じて会話を行いますが、実は必要以上のことを話すつもりはないんです」
問答無用って感じだ。じゃあ観念。無言で椅子を引き、今朝知り合ったばかりの、ウソ吐きの女子と相対することにした。
穏やかな笑みを湛えながら望月は聞き慣れない言葉を発す。
「私は『TPO』の職員なんです」
「……ああ。確かTPOってタイム、プレース、オー……」
「時間保護機構(タイム・プロテクション・オーガニゼーション)」
「なんだそれ」
望月が答えない。俺は咳払いし、もう一度尋ねた。
「……あの、なんですかそれ」
「時間関係のお仕事です」
望月は朝食の献立でも話す様にそう告げると清純な雰囲気を纏うだけ纏って静やかでいる。それ以上は話すつもりない。そんな眼差し。
時間関係ってなんだよ。
「何でそんな人が、俺のところに?」
「分かっているくせに」
望月槐は両手を机の下から出し、繊細な指と指同士をぴたり重ねると上体微動だにせず言う。
「貴方が時間を操れるから、です」
冷や汗が額を伝い、俺の視線は自然と真横の廊下を行き交う生徒らに流れていった。
「あの望月さん、ちょっと――」
「他人に訊かれても心配ありません、認識干渉波が作動しています」
望月は頬の表面を指でなぞり黒髪を撫でつけ言う。
「『認識干渉』?」
望月は何も言わず、ただにこにこしていた。説明してくれない。訊かれて心配ないとか言っといて、自分の都合が悪いと話さない。
「清純なの見た目だけです……?」
望月は表情一つ変えない。
「私は清純じゃないのです」
俺は小さく咳払いした。
「ああそう、分かりました。俺は、まあ時間戻せるよ。子供の頃から。けどこれは一種の病気なんです。自分の意思で時を戻すとか無理なんですよ。そんな便利なことが出来てたら、朝起きて、学校へ行って退屈な授業を受けて教室で周りに浮かない様に気を張って過ごして、やっと終わったと思ったら勝手にチャラにされて、半日とか一日を戻されて、全部やんなって不貞寝して不登校をやっている、そんな今の自分は無かったと思う」
「いいえ下小牧蒔也くん。本日午前九時七分十九秒付近に貴方は生まれて初めてタイムリープを自らの意思で行使しました。その子(トリモチ)を介してね……」
望月がすーっと人差し指を伸ばす。彼女の視線の先は、俺の肩に乗ったシマエナガを真っすぐ捉えていた。俺はごくりと唾を飲み込んだ。
(やっぱりそうか。そうだったのか。さっきの感じ、自分でやってたもんな。解ってた)
でもなんだ、この女……子。心の中を見透かされた気がして急に怖くなってきた。
「あの俺昼食、食べないと。試験始まる前にカフェテリアで唐揚げと豚骨ラーメン――」
ガタリ。椅子を足蹴に立ち上がりかけた俺。チチチと舌を鳴らす望月槐。肩のシマエナガが飛び立って彼女の指先に止まった時、ふっと甘酸っぱい柑橘類の匂いが立ち込めるのを感じた。ベロリと空間が剥がれ望月とシマエナガに穴が開く。俺にも。そして全てが闇に飲まれていき――。
相変わらず平然と望月槐が椅子に座っていた。俺が足蹴にした筈の椅子は初期の配置にあった。紛れもなく、タイムリープしてる。
「ごめんなさい。トリモチを介して貴方の能力を使いました」悪びれもなく彼女が言った。
「まだ話が終わってないのです」
俺は間違いなくさっきよりは顔を強張らせている。望月は左耳にかかった細い三つ編みを軽く払った。
俺はもう一度覚悟を決め彼女と対面した。
「……つまり望月さんは俺に、タイムリープを制御する力を授けた?」
「そうですそうです。物分かりがよろしい」
「なら訊かせて下さい。そんなことして俺に、何をさせたいんですか」
望月槐は軽く白い歯を見せると、おもむろにスカートのポケットに手を入れた。そして何かを取り出し此方に向ける。
パァン。乾いた破裂音。びくっとする俺。廊下を歩く連中も振り返る。望月はクラッカーを鳴らしていた。
「おめでとう。マキくんは救済プロジェクトの対象に選ばれたんです」
「はあ?」
他人に向けてクラッカー撃ってニコニコして。幼稚園で習ったでしょダメって。抗議しようとした俺だったが、体に引っ付いている筈のゴミの類が見当たらない。微かに火薬が香るだけで足を止めた連中も超人的スルー能力を発揮し各々の世界へ帰っていく。俺の思考が乱れる中、望月は滔々と言葉を綴った。
「以後下小牧蒔也は人生をやり直す力を得ました。そこで今から一か月間、私はマキくんのことを観察します。貴方は幾ら能力を使っても良いし、別に使わなくても良い。マキくんは自由にこの一カ月間を過ごして下さい」
「これは、何かのテストですか?」
俺の問いに対してやはり正面の女の子は口角を持ち上げるだけ。
「ただし一つだけ」
思い出した様に望月が口を開いた。
「さっきも伝えた通りこれは『救済』なんです。つまり私達の介入が無かった場合、貴方は悲惨な人生を送ったということ。貴方の視点でいうと『送る』になりますけど」
望月槐はポケットから折り畳まれた紙を一枚取り出すなり、ぴらっと開いた。
「下小牧蒔也、千葉在住で現在十六歳。東奥高校の一年生。夢は作家ですね」
「なんでそれを? 誰にも、言ったことなんか――」
「高校一年生の頃からタイムリープ能力の過剰な発動を起こし学校を休みがちに。保健体育など単位が足らなくなり高校を自主退学。定職には就かずアルバイトと執筆を行うも文学賞は悉く落選し――」
「ちょっと待った。なんですかそれ」
「貴方が辿る正史の人生です。読みます? 規則上問題ありません」
爽やかな口振りで望月は紙を差し出してくる。
躊躇いはした。
俺は震える手でその紙を受け取ると、慎重に目を通していく。
自分の出生日からそれは始まっていた。俺の人生が他人事の様に淡々と羅列されている。幼稚園入学卒業、小学校の立ち位置。障害物競走で一等を取ったことまで。中学受験に合格。エスカレータ式で高校入学。交友関係。そして今年、来年、再来年と未来の日付を呼んでいく内、ワイシャツの下から汗がつつぅと脇腹を垂れていった。良いことが、書かれてない。俺の応募した小説の大半は一次選考すら通らず落選するらしい。あまりの惨さにもう、三十六歳から先は見られなかった。
「貴方の人生は狂っていくのです。ここから」
望月槐はわざとらしく眉を弱らせ、足元を指した。
「大人になって夢を追い続ければ十年後くらいには叶う。そう思っていた? 十年後、いえ二十年経っても貴方の夢は叶いません。大学に行かなかった為にコンビニのバイトすら満足に受からない底辺無職が貴方の未来です。はっきりいって……詰みです」
悪意のない悪意。望月はそんな顔をしていた。
「あ、大丈夫。心配いりません。貴方は未来を変える力を手にしたのです。貴方を苦しめ不登校にしていたタイムリープが今度は貴方自身を救ってくれます」
「……半不登校」
「ああ、そうですね」
望月は腕時計に目をやった。
「この話は以上です。観察結果については一カ月後に話しましょう」
「どっか行く気?」俺の声は思いがけず掠れていた。望月はこのまま消えそうな雰囲気を出していた。だが望月はきょとんとする。
「私はどこにも行きません。観察期間中は基本、貴方の家に居ます」
「……居候を一カ月も?」
「はい」
俺が辟易した表情をしたのに気づいた望月は、ふっと表情を翳らせ自分の体を見回した。
「私では不満でしょうか」
望月がしゅんとするので俺は慌てた。
「いや、あの望月さん。不満っていうか。見た目はその、綺麗……だし――」
「では引き続き私が担当します」
「あっ……」
「改めてましてよろしくね。あ、タイムリープを行う時はそうしたいと願って下さい。トリモチが補助輪となって円滑に能力が発動します」
望月槐はさっぱりした顔つきで席を立つと、そのまま本館の方へと消えた。俺は少しの間消えた方向を見ていたが、やがてテーブルで跳ねるシマエナガを見た。
それから一週間後。期末試験の解答用紙が全て返却された。結果は、補習だった。
一学期が終わり、待望の夏休みが始まった。俺はクーラーをかけ、扇風機をかけ、テレビを見た。寝転んで漫画を読んで、ゲームをした。勿論小説は書いている。望月はといえば特筆することもない。ただ三食を摂り外食についてきて、ファミレスではよくパフェを頼む。「居候の身だから」と母の家事を一手に担うので母は大助かり。一方で俺は妙な肩身の狭さを感じている。
「なあ望月さん? TPOにはそういう仕事も入るの?」
ある夏の日の真っ昼間から風呂掃除をする望月の背に聞いたことがあった。
「いえ。私がこういうのに興味あるだけです」
「へえー」
やっぱり変わってるな。俺はアーモンドアイスを舐めながら、
「未来から来たんですか?」と、この二週間で導き出した結論を望月にぶつけてみる。エプロン姿の彼女は振り返ると清涼な笑顔を作り、案の定。
「いつか話します」
強めのシャワーが浴槽の泡を流していった。
その日は一階に降りると父親がソファで眠りこけ、母と望月は朝食を食べていた。望月は制服に着替えている。
「おはよう。今日もエンジュちゃんが作ってくれたのよ。ホント助かるわ、マキヤと大違い」
「カボチャは昨日濾しておいたんです」
外ではスズメがチュンチュと鳴いている。座ろうとして「うがいした?」と母。俺は不機嫌丸出しでうがいした。椅子に座る。ウィンナーにパンにチーズにカボチャのスープ。中世みたいだ。冷えたスープをスプーンで掻き混ぜながら望月を見ずに訊ねた。
「望月さんも今日から補習かよ。俺が言うのもアレだけど赤点なんか取ったの?」
「取ってないです。でも夏休み前に先生に訊いたら誰でも補習は参加OKと伺いましたので」
「勉強熱心で偉いわね」
母が居候女を手放しで褒める。お母さん、そいつはただ観察対象をストーキングしたいだけなんだよ。俺は雑にパンを千切り齧っていると、
「マキくん覚えてますか」望月が俺を瞳孔の中に入れた。
「観察期間終了まで残り一週間です」
「ああ、もうそんな経つんですね」
「トリモチを貸してもらえますか? 現在の状況を見ておきたいんです」
「いいですよ。はい」
肩に止まったシマエナガを人差し指に移し、望月の手に託す。望月は手の平の上の小鳥をじーっと見つめた後、それを口に入れた。
「え、ちょっと」
俺が慌てふためくのを尻目に望月は明後日の方向を見つめモグモグやっていたが、やがて彼女は胸元を指した。見るとワイシャツの襟元が膨らんでいてシマエナガが顔を出した。食べたふりだ。
「ふざけろ」まんまと騙された俺は俯き湿気た息を吐いた。
「冗談は置いといて。やはり」
頭脳明晰系キャラみたいな口振りの望月が肩を竦める。
「マキくんは初日のタイムリープを除くと、使用記録が一度きり」
「ああ、そう」
「そうです」
望月の眼が気持ち鋭くなった。
「しかも唯一使用した場面というのは、夕食に母親の作ったハンバーグにかける味噌ソースをフライパンに余したまま捨ててしまったのを見て十三分前に巻き戻り、たっぷりハンバーグに味噌ソースをかけ食べ直したこと――」
「お母さんの特製ソース好きなんだ」
「そんなに褒めてくれるなら作った甲斐もあるわ」母が会話に反応した。認識干渉の影響でタイムリープ関連の話には絶対割り込んでこないので、反応の変なゲームのNPCみたいになっている。
望月はトリモチを摘まんで俺に返すと少し寂しげに言った。
「客観的に言えば、マキくんは能力を活かしきれていません。ハンバーグのソースの量で貴方の未来は左右されない。私達が介入する前と今の状況で、状況が好転したとは言い難いですね」
俺はソーセージの肉汁と香草の風味を味わって、小さく飲み込んだ。
「……そうかな。勝手な巻き戻しが止まったし、ハンバーグの味噌ソースをたっぷりかけて食べ直せたし満足だけど?」
程よく冷えた水で喉を潤す。
望月が尋ねた。
「今さらですが、どうして期末の二限目以降の試験、やり直さなかったんですか」
「それは――」
俺は少し言い淀んだ後に言った。
「めんどいから」
「え?」
「めんどいじゃん。勉強し直すの」
望月は小さく口を開け動きを止めている。何だかこいつの鼻を明かした気がして俺は若干誇らしくなった。
「俺は今までの人生に後悔ないんだ。だからもし幼稚園児からやり直したって俺は今の俺に辿り着くと思うな。全部同じ選択を選ぶよ」
「……これから先も本当に、そんなことが言えるなら――」
「え?」
望月は視線を斜め上に向けている。
「今日補習でしょマキヤ」
「やばっ」
母の指摘を受け、俺は急いで残りの朝食を口に放り込んで、替えに走る羽目になり、結局彼女の真意を訊くことはなかった。
「マキくん早く」
「分かってるって」
玄関で望月が囃し立てる。確かに補習に遅刻したら先生に何言われるか分かったもんじゃない。
「えっ、望月さんっ?」
俺が靴を履き終わるのを待たず望月は俺の手を引き家を出ようとする。青いプラスチックの靴ベラが玄関にカランと音を立てて倒れた。今日の望月はやけに積極的だ。女の子と手を繋ぐなんて何時ぶりだろ。家の前の小路を抜けて大通りに出る。これじゃ犬に主導権を握られた子供だ。五十メートルほど走ったところで俺は望月の手を振りほどいた。久々に走って息があがるのに対し望月は呼吸一つ乱れていなかった。
「先に行っちゃいますよー」
ステップを踏んで望月が遠ざかっていく。俺はやれやれと足元の、踏みつけた靴の踵を指で立ち上がらせた。その時だった。
バーンと激しい音がしてアスファルトの道が揺れる。思わず身じろぎした俺は、薄目を開けて前方を見た。
道脇のファミレス『ゼンディーズ』の巨大看板が柱の根元でぽっきりと折れ、道の真ん中に落っこちていた。望月を下敷きにして。
「望月さん」
心の無いまま俺は近づいていった。看板は望月の体に直撃しており、彼女の無防備な足が看板から覗いている。そんな状態だった。
「女の子に落ちたぞ!」
「おーい誰か救急車呼んでー」
通行人の間延びした声が遠く聴こえた。人の数が増えていくが、誰も近くに寄ろうとしない。望月の体から零れた鮮やかな血を吸いアスファルトの地面が黒く濡れていく。
「ねえ君。近づかない方が良いよ危険だから」
誰かの手が俺の肩を掴む。
「ち、違います」
俺はその手を振り払うとその場から立ち去った。
気づくと俺は学校へ向かうバスに揺られていた。
自分の足が高校前で降りる。アブラゼミの合唱。正門の前、強い夏の陽射しが照り付けてジリジリと陽炎が漂っていた。
補習は何事もなく終わった。望月は元々補習参加者じゃないので、名前すら出なかった。夕方が学校を染めている。トリモチの姿は朝から視えない。いつもの様にバス停に並び独り帰路に着く俺は、自分が思ったより薄情な人間だと気づいた。だって望月がああなってもタイムリープしないんだから。
「……だって死んだら仕方ねーじゃん」
呟いてみる。俺は絶対主人公にはなれないな。こんなヤツに感情移入する人いねえもん。
「ただいまー……」
父は野球を観ている。母は台所にいる。補習してた時から気づいてたが、トリモチがいなくなっている。
目を合わせないよう洗面所に向かう最中、母が言った。
「ねえ知ってる? ゼンディーズの看板が落ちたの」
「あ、ああうん」頭が白む。
「金属の柱が錆びて腐ってたって。もし人のいる所に落ちてたら大変だったわよ」
「うん……え?」
俺は台所の母を見た。母は何食わぬ顔して夕食を作っている。
「あの、お母さん。望月、さん……」
「うん? 誰その子」
母の言葉に俺は戦慄した。
「なんだ彼女か?」
父がからかってくる。
「いや。何言ってんだよ二人とも。望月さんは居候の……さ」
「居候?」
「いや何でもない」
俺は会話を途中で切り上げ、普段着に着替えて自室に閉じこもると自分のスマホを確認する。あった。望月の電話番号。登録しただけの、かけたことすらない番号にコールする。
「……あっもしもし。望月――」
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。恐れ入りますが、番号をお確かめになってもう一度……」
無機質な録音音声が流れる。なんだこれ。何が起こってる。俺は天井を見上げた。
学校の知り合いに片っ端から電話した。が、出たヤツは誰一人として彼女のことを憶えていなかった。忘れてるんじゃない。望月槐なんて女、最初からこの世にいなかった。皆の振る舞いからして、そう結論づけるしかない。
「どうなんだマナブ。大学は」
「思ってたより大変だよ。週六で講義があんだから」
夏休みも後半に差し掛かっていた。久々に東京から帰ってきた兄貴が酢豚を頬張りながら言った。午後一時半、少し遅い昼食だった。十一階の中華レストランの広いソファ席で俺が鶏の唐揚げのレモンソースを取り分ける。
「訊いたぜマキヤ。オマエ最近元気無いって?」
「え、あー……補習が面倒で」
両親の視線を感じつつ答える。
「もっと楽しんだ方が良いぜ。ここ食えるの最後なんだから」
ちぇっ、兄貴の奴、優等ぶりやがって。
「分かってるよ」
この商業施設は八月末で閉館予定で、ビルに入ってる店舗は人気店だろうと巻き添えを食う形だ。
兄貴と両親がビルの思い出に花を咲かせる中、俺は十一階から千葉の街並みを見下ろした。米粒ほどの人間達が歩道を行き交う中、一人佇んでこっちを見ている女の子がいた。
「望月さん……?」
俺の空見だったんだろう。兄貴に話を振られて曖昧に返事した後、再び窓から見下ろすが、望月らしき人影は消えていた。
「今まで御来店頂きありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。無くなってしまうのが残念ですよ」
会計が済み顔馴染みの店員とも最後の別れを告げ、俺達はエレベーターに乗る。俺だけ一個下の階を押した。十階にはカラオケ店があった。
「友達とか?」
「いやヒトカラ」
俺の返事に兄貴が鼻で笑った。何がおかしいんだムカつくな。そう思ってる内にエレベーターのドアが開きBGMの騒がしい音が流れ込んでくる。
「じゃあまた」
家族に軽く手を振り、俺はカラオケ屋のカウンターに向かった。
「お一人様ですか」
「はい。時間は二時間で……――」
その時だった。
ドォオオンと金属の拉げた様な、恐ろしい音がフロアに響く。ビル全体が震え、店員が口を噤んだ。
「地震ですかね……」
店員の呑気な言葉とは対照的に俺は嫌な予感がしていた。音は下から響いてきた。エレベーターの方。
「すみません、やっぱやめます」
俺はカラオケ店を出ると、回れ右して近くのエスカレーターを下へ下へ駈け下りる。一階に着いたところで救急車の音がした。
「何があったの」
「エレベーターが落ちたって」
「うっそぉ」
一階の客の立ち話を訊いて血の気が引いた。まさか。そんなわけない。向こうで救急隊員がわらわらとビルに入っていくのが見えた。エレベーターの前に人混みが出来ている。恐い。見たくない。それでも野次馬の隙間を縫っていくと、エレベーターのドアが内側から軋んでいた。
「離れて下さい!」隊員が力ずくでドアを開ける。
「酷ぇな~」
「シート早く」
中に入ってたのは、俺の家族じゃなくて……ああ俺の家族だ。落下の衝撃でグチャグチャに混ざり合い白骨が皮膚を突き破り内容物が飛び出している。眩暈。吐く。現実離れした光景に足元がふらつく中、俺は病気を使っていた。空間が裂け世界が暗闇に飲まれ、柑橘類の強い香りが血の味を吹き飛ばす。そして、そして、そして……。
俺は中華レストランの前にいた。ちょうど父親が会計を済ませたところだった。
「今まで御来店頂きありがとうございました」
「いえいえこちらこそ。無くなるのが残念ですよ」
酷い既視感だった。良かったみんな生きている。顔馴染みの店員と最後の別れを済ませ、兄貴がエレベーターのボタンを押した。一、二、三、四……点灯するランプが十一階へ上がってくる。ああやばい。やばいやばいやばい。
「マキヤ、オマエ顔真っ青だぞ」
「ホント。具合でも悪いの?」
「い、いや……」
ここにいちゃダメだ。これに乗るな。そう言いたいのに、何故か声が出ない。視線。遠くから、近くから、誰かに視られている? 得体が知れない。手足を縛られ、喉はきつく絞められた様だ。
エレベーターが着いた。家族は何も疑わずエレベーターに乗り込んだ。俺も乗った。震える指で十階を押す自分。自分が他人で、俯瞰で見ていた。
「友達と予定か?」
「いや、ヒトカラ」
兄貴が鼻で笑う。それどころじゃないんだ。マズいんだって。
エレベーターのドアが開きフロアの喧騒が流れ込んでくる。俺の足が自然と前に出た。
お母さん。お父さん。兄貴。皆の目が俺を見ている。俺は。俺は。
「じゃあ、また」
エレベーターのドアが閉まった。この先どうなるか俺は知っている。なのに。
俺が呆然とする中、地を裂く様な轟音がビル内を突き抜けていった。
戻せすぐ。俺はタイムリープを使った。再び世界が破れ、強い柑橘の臭気と共に裂け目から闇が溢れ出していく。
兄貴がエレベーターのボタンを押していた。激しい既視感と吐き気。時間がさっきより進んでいる。それになんだ? 空気が重い……。パソコンで動作の重い3Dゲームをやってるみたいだ。点灯する数字が散らつく。脳が擦り切れそうだ。父が俺の顔を覗き込んだ。
「マキヤ、オマエ目が真っ赤だぞ。顔色も悪いし」
「どうかしたの?」
「大丈夫。大丈夫だから……」
さっきより強い視線。無数の視線。手が震える。糸で引かれる様にエレベーターに乗り込んでいた。鏡に映る自分の唇に血の気はなく、目は充血していた。今まで同じ時間を二度も繰り返したことはない。それが影響したのか。それだけで? それで俺は、気づくと十階のボタンを押していた。
「友達と予定か?」
「いや、ヒトカラ……」
「お前おかしくね」兄貴の声が遠くでした。
ドアが開いて、俺は独りで階を降りる。
まただ。家族を乗せたエレベーターが落ちていく。奈落の底へ。ノンストップで。
気づけば俺は何もない、谷津の干潟にいた。俺はタイムリープをしなかった。
そうした方が良いと誰かに言われた気がした。嘘だ。堪えられなかった。目の前でお父さんお母さんが、死ぬのを繰り返し……苦しみから俺は逃げた。
干潟に波面が風でさざめき夕陽がぼやける。視界の端に白いものが飛んだ。久しぶりに見かけた。
トリモチの姿を追って振り返ると、消えた筈のあいつがそこにいた。
「望月さん」
「観察期間はこれで終了です」
望月の肩に止まるシマエナガを凝視した後、俺は鼻を啜った。
「訳分かんねえ」
「マキくん。貴方は合格したんです」
望月は爽やか笑みをふっと浮かべる。
「……合格?」
「これはテストだったんです」望月は片手を持ち上げた。シマエナガが手乗りする。
「貴方が正しい歴史に対しどれだけ従順でいられるか。あるいは、どの程度柔軟にタイムリープを行うか。ここまでの貴方は正直期待外れでした。全然タイムリープせず私のことも助けないし。ですが家族の死に対しても貴方は何もしなかった。出来なかった。これなら自信を持って推薦できます、貴方は私達の求めていた人材だと」
能面の様だった俺の顔の筋肉が、僅かに和らぐ。
「テスト。テスト……? ってことは……じゃあっ君みたいに俺の家族もホントは生きてて――」
「いいえ」
望月は俯くと小さく溜息をついた。
「私と違い、貴方の御家族はエレベーター事故に巻き込まれるのが正史なんです。貴方が助けなかったのは、それが運命と無意識に理解していたから。そこが貴方の評価された点なんですよマキくん」
「……はあ? 嘘じゃん」
「いいえ本当に――」
「嘘つけっ」
俺の叫びが干潟に響く。望月は顔を上げると真っ黒な瞳が俺を捉えた。
「でもマキくんには無理でも……私達ならご両親とお兄さんを助けられる」
「えっ?」
「マキくんは御家族の死を観測してしまった。ですがそれは貴方の『主観』でしかない」
俺は彼女の言葉が理解出来ず小刻みに首を振った。
「何言ってんの。だって状況的に、そうで……!」
「まだ観測していない者からすればマキくんの御家族の死は確定されていない」
望月が一歩前に出る。手から飛び立ったトリモチが夕暮れの谷津干潟を飛翔した。
「歴史改変の抜け道です。例えば彼等を直前で救出し、培養したクローンの肉体を影武者に使えばいい。貴方の目撃した家族の御遺体は魂の入ってない肉の集まりでしかなくなる」
「そんな、詭弁みたいなこと――」
俺は言葉を飲み込んだ。
「いや……もうなんでもいい! 助けられるっていうならそれで――」
縋る俺の手を望月がすり抜けた。
「私と、取引しませんか?」
「取引……」
望月が背を向けたまま言葉を溜めた。
「……遠い未来の地球で巨大タイムリープが発生しています」
「巨大タイムリープ……?」
「普通のタイムリープなら数時間、長くても数日。けれどそれは百年の時が巻き戻ってしまう。世界は狂ったレコードの様に同じことを繰り返し、時空が傷んでいます。このままだとあらゆる時系列が壊れてしまう。マキくんは『未来へ行き、時間軸を正して』欲しいのです」
「そんなの、それこそ……君ら時間保全機構(TPO)の役目なんじゃないか?」
「下小牧蒔也くん。貴方が適任なんです」
望月が俺を真っすぐに見る。相変わらずこの女の子は他人の話を聞かない。
「お願いです。どの時間を探しても貴方ほど向いてる人は……いません」
彼女の潤んだ瞳に俺が映っていた。
俺の気持ちは分かり切っている。
逡巡の後、俺は言った。
「やる。タイムリープなら……得意だ。その代わり、お母さん、お父さん。あと兄貴を」
望月の顔がふっと明るくなった。
「でもどうして俺が適任? なんで俺なんか……。確かに、タイムリープはやれるけど?」
深夜、暗い路を歩く望月の背を追いながら訊いてみる。
「ああ。それは、マキくんがSFを書く程度の科学常識もありますし……」
「まあシュレディンガーの猫とか、量子もつれとか知ってるけど」
「それに貴方がこの世界から消えても大した影響がないからです」
望月のあっけらかんとした言葉に俺のテンションは駄々下がりした。蒸し暑い真夏の夜道。虫も夏バテか鳴き声が弱っている。
「あのう望月さん。核心突くかもしれないですけど、まさか俺って未来へ行ったまま帰ってこれないんじゃ……いわゆる片道切符……」
「成功すれば帰れますよ」
成功すれば……?
「怖がる必要ありません。どうせやり直せるんです」
望月の言葉を反駁する。
「そうだよな……なら楽勝では? あ、そんなこといってタイムリープに回数制限があるとか……?」
「マキくんは何度でもやり直してくれて構いません」
何度でも。エレベーター内の光景が蘇って胸が苦しくなる。夜道の真ん中で溺れそうだ。じっとりとした湿気にシャツを引っ張っていると、望月がちらり俺を見る。
「繰り返し再生されたビデオテープは擦り切れてしまう。今、時空はかなり危険な状態です。マキくんが未来へ行ったら、巨大なタイムリープ現象内で時を巻き戻しながら問題解決に努めていくことになる。ですが、これって入れ子構造なんです」
「入れ子、構造?」
街路灯に照らされた望月の白い腕が残像になって揺れて見えた。
「タイムリープそのものが時空を傷つけるのに、その中で更にタイムリープするのはちょっと、良くない……それぐらいは貴方の感覚で分かるはず」
「なんとなくは。その……俺がタイムリープし続けるとどうなるんですか?」
「マキくんの行う能動的タイムリープの影響なんて些細なものです。精々――」
横断歩道の半ばで望月の足が止まる。ふっと振り返り俺を一瞥。
「世界に馴染めなくなる。とか」
「……は?」
薄ら寒いものが背筋を伝って溶けていく。
「それって、どういう……」
「だから、周囲の環境に馴染めなくなるんです」
「……ああ。ああ、なんだそーゆーこと? いや俺、不登校みたいなもんだし。今だって馴染めてないっていうか」
「じゃあぴったりですね」
「……なんだよぴったりって。俺はテトリスか」
青信号が点滅を始める。渡り切った所で紳士が赤色に替わった。
「ていうか俺達どこ向かって――」
「着きました」
望月についていった先は、市内の大きな病院だった。今、俺に必要なのは確かに病院かもしれない。
「ここから、未来へ?」
望月はウィンクするとずいずい病院の中に入っていく。カギも何故か開いている。
「そんな堂々入っていいんですか」
「大丈夫です。警備員に見つからないのは未来で確認済みですから」
「ああそう」
深夜の病院ほど怖いものはなかったが、廊下の薄緑色の非常灯を頼りにすいすい進む望月にも俺は妙な薄気味悪さを感じた。
病院特有の消毒液の匂い。給食の匂いもした。それらの裏側に薄らと、饐えた死の匂いも漂っていた。
「ここです」
月の光を浴びた望月が手術室を手で仰いだ。
「ここから、未来に?」
望月はいつもの爽やかな笑顔で後ろに手を組んでいる。俺は恐る恐る手術室のドアを開けた。
中には手術台と器具があるだけで、タイムマシン相当の物は見当たらない。おかしいなと思った時、俺の首筋に何かが刺さる。それが注射針と気づいた時には無機質な薄緑色の床の上に俺は臥せっていた。
「なん……」
見上げると普段と変わりない彼女の顔が見返していた。
「この時代に生身の人が未来へ行く方法は限られているんです」
彼女は手術室をバタンと閉めると、片手で乱暴に俺の体を持ち上げ手術台に載せた。電気がパチッと点灯する。眩しさに目が眩む。
「何するつもり」
「冷凍保存。マキくんはこれに、入ってもらいます」
望月が提示する金属質の楕円容器はバスケットボールほどの大きさしかなかった。
「こんなの入れない……」
困惑する俺。望月は無言で俺を手術台に固定すると、やがて大きなノコギリと電動カッターを手に俺の前に立った。
「長期の冷凍保存には容量も限界があって、たった千四百CCなんです。ところでマキくんは人間の脳の容量が何CCか。ご存じでしょうか」
「望月さん。マジでやめてくれ」
時間の戻しに意識を集中しようとするが、グッと望月の冷えた手が俺の手首を掴む。鋸の刃が俺の腰に当たった。
「そんなことしたら私も早めに貴方へ注射するだけ。不毛な時間のイタチごっこは人を絶やすほど愚かな行為ですよ」
冷たい指先が胸を這い、そして俺の首を絞めた。その時俺はようやく気付く。四者面談の日の夜中、俺の部屋にいた人物が誰だったのか。こいつじゃん。強盗。逮捕してくれ千葉県警。
「未来へ行けるのは一人。私はマキくんを安全な場所に保管し、貴方に全てを託します」
「そん、なの……」
「まだ落ちないように」
そう囁いといて望月は首にかける力を緩める気配がない。
「目が覚めたらマキくんは宇宙船の中にいる。貴方は未来で発生している巨大タイムリープを食い止めさえすればいい。でも船内には裏切り者がいて、宇宙船もろとも爆破しようとしている。裏切り者の企みを阻止出来なければ、貴方は宙の藻屑と消えるでしょう」
「な、何言ってるか分かんないって……」
注射と首絞めの影響で意識が朦朧としてきた。
「ギヲン。覚えて下さい。ギヲン」
「ギヲン……」
「『マキくんは仲間とギヲンを目指しタイムリープを止める』。この旅の目的は至ってシンプルなんです。後は……まあ、自力で真相に辿り着いて下さい」
「ちゃんと説明を……」
望月槐はいつもと変わらない涼やかな笑みを浮かべている。それすらも視界の汚れと共に失われていく。
「さようなら、下小牧蒔也」
望月の囁き声と共に、耳元で電動カッターが回転を始めた。
それが俺の見聞きした最後の光景だった。
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