第一章 日常

第一話

 海と森に囲まれた、世界の端の小さな村。

 アルビスは、賑わう市場のざわめきの中にいた。

 顔の汗を腕で拭いながら、昼下がりの日差しに目を細める。


「今日も――変わらない風景だ」


 ぽつりとこぼした声は、誰の耳にも届かず、風に溶けていった。

 視線を上げて歩き出す。

 短く整えられた黒髪が、真夏の陽光を受け、青や紫、深い緑を一瞬だけ帯びた。


 中央市場広場の石畳は、静かに古びていた。

 店先には海産物や野菜が並び、蔦の絡む壁がこの村の時間の流れを物語っている。


 アルビスは、片腕に日用品を詰めた紙袋を抱えたまま、広場の片隅にある小さな花屋の軒先で足を止めた。

 並べられた花々の中から、白いユリをそっとひとつ手に取る。

 その手つきに、店主の女性は優しい笑みを浮かべた。


「あら、アルビス。今日はユリね」


 アルビスは、突然の声に胸が跳ね、思わず肩を少しすくめる。

 慌てて顔を上げると、店主の柔らかな視線が彼を捉えていた。


「あ……っ!

 はい。でも、もう少し添えたいんです。

 何か合う花はありますか?」


 店主は棚の花々を見渡し、少しだけ考え込む。

 やがて、青紫の小さな花を差し出した。


「このスターチスなんてどうかしら。

 派手じゃないけれど、ユリを引き立ててくれるわ」


「きれいですね」


「ええ。──“変わらぬ友情”、それから“知識”の花でもあるの」


 その言葉に、アルビスの表情が少しだけやわらぐ。


「……そうですか」


 手もとのユリに目をやると、静かに息を整える。


「それにします。

 このユリと、そのスターチスを」


 店主は黙って頷き、アルビスからユリを受け取ると花を束ねはじめた。

 アルビスは紙袋を抱き直し、包まれていく花々を静かに見つめる。

 市場を抜ける潮風が、花弁をかすかに揺らした。



 花束を受け取ると、アルビスは家路へと急いだ。

 広場の中央には、長い年月を経てもなお正確に時を刻む時計塔が立っている。

 歯車の軋む音がかすかに響き、村のリズムを奏でていた。


 その時、広場の向こうから元気な声が響く。


「おーい! アルー!」


 時計塔の前で立ち止まり、振り返った。

 頭の上の獣耳がぴくりと反応し、声のする方向を敏感に捉えた。


 ロックが笑顔で手を振る。その瞬間――


 胸の奥に鋭い痛みが走り、体が強張った。

 視界がかすみ、膝が石畳に触れる。

 息が詰まる。 胸の奥で、鼓動が暴れるように跳ねた。

 アルビスの耳がわずかにピクッと動き、縮こまる。

 いつもの発作だ。理由はまだわからない。


 手に持っていた紙袋が倒れ、花束とともに日用品が石畳に転がった。

 花束が軽く揺れ、石畳に音もなく散る。

 スターチスの花びらが、風に乗ってひとひら、空へと舞い上がった。


「アル!? おい、大丈夫か!」


 ロックが慌てて駆け寄り、水筒を差し出す。

 アルビスは指先で縁をつかみ、震えを押し殺すように受け取った。


「……うん。

 ちょっと、深呼吸し損ねただけ」


 アルビスは水をひと口飲み、呼吸を整えた。

 額には薄く汗がにじみ、指先がまだ震えていた。

 それでも笑ってみせる。


「な、もう平気」


 ロックは散らばった荷物を丁寧に拾い集めていく。

 心配を隠しきれないその手つきは、どこか焦っているようにも見えた。


「またか。最近、前よりひどい気がするぞ?」

「まぁ、慣れたから」


 花束と拾い集めた荷物を抱え、ロックはアルビスのそばにしゃがみ込んだ。


「ほら、これ。落ちてた」


 アルビスは少し照れくさそうに、手を伸ばした。


「ありがとな」


 ロックは大袈裟に肩をすくめ、大きく溜息をついた。

「……アルは体が弱いわけじゃないんだよな。

 鍛えてるし、動きだって悪くない。

 それなのに、たまにそうやってガタがくる。

 まったく、不思議な体質だな」


「個性だよ、きっと」


 アルビスは何ともないように笑い返す。


「それでいいのか?」

「いいんじゃない?」

「いいのかよ!」


 アルビスのあっけらかんとした態度に、ロックもつられて笑いだした。


「あっ! そうだった!

 アルに話したいことがあったんだよ。

 ……なあ。今夜、時間あるか?」


「もしかして……『大揺らぎの満月』?」


 アルビスの瞳が、わずかに光を宿す。


「さすが! 察しがいいな!」


 ロックの声は一段と高くなった。

 溢れ出す言葉が追いつかないと言わんばかりに手振りを激しくし、その場の空気をかき回すような勢いでまくしたてる。


「三十年に一度のチャンスだぞ?

 村の外では動物が狂暴化して、不思議なことが起こるってよ」


「まさか、村を出る気か?」


 アルビスは呆れたような笑みを浮かべた。


「まぁ、場合によっては?」


 ロックはおどけた様子で答えた、そのとき……


「――村を出るですってぇぇぇ!?」


 背後から響くドスの効いた声に、ロックが飛び上がった。

 二人は顔を上げゆっくり振り向くと、ロックの母が腕を組み、鋭い視線を向けていた。

 広場に似つかわしくないほどの威圧感が漂う。


「う、うわっ! 母ちゃん!?」

「掟を破るつもりなの!?」

「だって!

 次に見られるのは俺らが四十過ぎてからだぞ!?

 今のうちに見とかなきゃ、ロマンが――」

「ロマンより掟!

 この掟を守っているからこそ平和に暮らせるの!

 もう、あんたは今晩外出禁止!

 見張ってるから覚悟なさいっ」

「そっ……そんなぁ~~」


 母の一喝に、ロックはしゅんと肩を落とす。

 思わず笑いをこらえきれず、アルビスの口元がゆるむ。


「ぶはっ、ロック残念だったな」


 ロックは頬をかきながら、アルビスに小声で謝る。


「ごめん、アル。せっかく誘ったのに」

「いいよ。俺も少し予定があったし」


 ふたりの間に、いつもの穏やかな空気が戻る。



 そのとき、ロックの母が何かを思い出したように声をかけた。


「あ、そうだアルビス!」

「はいっ!」


 反射的に背筋を伸ばすアルビス。


「この前、あなたのお父さんが冷蔵庫を直してくれたでしょ?

 すっかり調子がいいのよ。お礼を言っておいてね。」

「それはよかったです。父も喜びます」


 アルビスが軽く頭を下げると、母の表情がやわらいだ。


「本当に昔の人はすごいわね。

 今じゃ、一から作るなんてとても無理だわ」

「だからこそ、仕組みを知るのが面白いんです。

 どんな原理で動いてるのか」

「ふふ。ほんと、あなたのお父さんそっくり。いい趣味ね」


 母の手元に何かが光った。


「そうだ!

 これを渡しておこうと思って」


 差し出されたのは、金属製の小さな宝石箱。

 古びているのに、どこか温かみのある彫刻が施されている。

 銀とも鉄ともつかない淡い光を帯び、まるで息をしているかのようだった。


 アルビスが受け取った瞬間――

 胸の奥に、ごく微かな熱が走る。

 痛みではない。ただ、ほんの少し心臓の鼓動が早くなった気がした。


「……この彫り、古い時代の精密細工に似てる。

 しかも鍵穴がない?

 これは特殊な仕掛けですね」


 アルビスは日差しにかざし、角度を変えながら観察する。

 箱の表面に刻まれた模様が、光を受けてわずかに揺らめいた。

 その様子に、ロックの母は思わず笑みをこぼす。


「うちの蔵から出てきたの。

 開け方がわからないのよ。

 きっと先祖が誰かからもらったんでしょうね」


「これ、もらっていいんですか?」


 アルビスは顔をぱっと上げ、瞳をキラキラと輝かせた。


「もちろん。

 いつもロックと遊んでくれるお礼よ。

 それに、こういうの好きでしょ?」

「ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げ、宝石箱を胸にそっと抱いた。

 ロックは鼻から息を抜くように、短く溜息をつく。


「母ちゃん、ほんとにアルに甘いよな」

「あんたも少しは見習いなさい」

「へいへい」


 日用品を詰めた紙袋と花束を抱え直すと、アルビスは改めて頭を下げた。


「じゃあ、俺、そろそろ行きます。

 ロック、またな」

「おぅ、気をつけてな」


 アルビスは笑顔を残して歩き去った。

 アルビスの背中が見えなくなったあと、ロックは小さくつぶやく。


「母ちゃん、村を出るなんて言ってごめん。

 ……アルを、元気づけたかったんだ」


 母は、少しのあいだ時計塔を見上げ、落ち着いた声で答えた。


「わかってる。

 その気持ち、きっと伝わってるわ」


 二人は顔を見合わせ、わずかに笑みを交わした。

 青く澄んだ空の奥では、見えぬ満月が、黙したまま夜の出番を待っていた。

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クレイスフィール ー黎明ー:無継者の目覚め 嶺岸朔 @s_minegishi

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