第6話 重み
翌朝。
窓の外では、雨が降っていた。
ぼたぼたと、重い雫が屋根を叩く音。
それはまるで、何かを警告するように聞こえた。
美咲は、ぼんやりとベッドに座っていた。
体が重い。
思考が靄に包まれている。
夜中の出来事が、現実だったのかどうかすら、はっきりしない。
あの骨。あの肉塊。
誠の笑顔。
そして、鏡の中で微笑んだもう一人の自分。
「――守る。」
小さく呟く。
それは祈りではなく、命令のようだった。
悠人を、守らなきゃ。
この家から、あの兄から。
それができるのは、自分だけだ。
朝食の時間。
食卓には、母親と誠が座っていた。
悠人の姿はなかった。
「悠人は?」
美咲が尋ねると、母親は顔をしかめた。
「体調が悪いって。部屋で休んでるわ。」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
誠は、何も言わずにご飯を口に運んでいる。
その仕草は、異様なほどゆっくりだった。
咀嚼するたびに、くちゃくちゃと音が立つ。
美咲は、スプーンを持つ手を震わせた。
食事を終えると、母親は買い物に出かけると言って家を出た。
リビングには、美咲と誠だけが残った。
誠はテレビをつけたが、画面を見ていなかった。
代わりに、美咲をじっと見つめていた。
「なあ、美咲」
「……何」
「昔、俺たち三人で、よく鬼ごっこしたよな」
「……」
誠は口の端を吊り上げた。
「今度は、悠人も混ぜてやろうと思ってるんだ。」
美咲は一瞬、何を言われたのかわからなかった。
だが、心臓が理解した。
「……やめて」
誠は笑った。
その笑みは、人間のそれではなかった。
美咲は、キッチンへ向かった。
冷蔵庫の脇、包丁立てから一本の包丁を抜き取る。
手に持つと、意外なほど重たかった。
重さ。
冷たさ。
鋭さ。
――これで、守れる?
それとも、自分も、壊れる?
答えは、どこにもなかった。
部屋に戻り、包丁を机の引き出しに隠した。
呼吸が浅くなる。
心臓が早鐘を打つ。
鏡を見る。
そこには、自分の顔が映っている。
だが――鏡の中の美咲は、微笑んでいた。
「いい子だね、美咲」
耳元で囁く声。
「守りたいなら、壊せばいい」
「壊して、壊して、壊して」
耳を塞いでも、声は止まらなかった。
午後。
悠人の部屋に入ると、彼はベッドで横たわっていた。
顔色が悪い。
けれど、目を開けると、美咲を見て微笑んだ。
「……お姉ちゃん」
その声に、美咲は胸を締めつけられた。
「悠人、大丈夫?」
「うん……ちょっと疲れただけ……」
か細い声。
それでも、彼は笑ってみせた。
美咲は彼の髪を撫でた。
温かい。
生きている。
この命を、守らなきゃ。
包丁の重みが、引き出しの中から存在を主張していた。
夕暮れ。
リビングでは、誠がソファに座って、悠人を呼んでいた。
「なあ、悠人。ちょっと来いよ。」
悠人は顔をこわばらせた。
美咲は立ち上がった。
「悠人、行かなくていい」
誠の目が、鋭く細められた。
「お姉ちゃん、邪魔しないで」
声は優しいのに、目は笑っていなかった。
悠人は美咲を見た。
助けを求めるように。
美咲は、ポケットの中の鍵を握りしめた。
机の引き出しに隠した――包丁の鍵。
今、決めなきゃいけない。
守るために、何をするかを。
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