第4話 ノート
夜中に目が覚めたのは、風の音だった。
古びた窓枠がわずかに軋み、カーテンの隙間から月の光が差し込んでいた。
美咲は寝返りを打ち、深く息を吐いた。
眠れない。
そもそも、この家で眠れるはずがなかった。
思い出すのも嫌なほど、ここには「何か」が棲んでいる。
形のない、声のない、息苦しい気配。
階段の下からわずかに聞こえてくるテレビの音も、生活の気配というより、空虚なノイズに思える。
胸の奥がざわつく。
気配の正体はわかっていた。
兄――誠。
彼がこの家の中心にいる限り、安心なんて言葉は存在しない。
――悠人。
その名を心の中で呼ぶだけで、喉の奥が痛んだ。
部屋で一人、彼は今も眠っているだろうか。
何も知らずに。
それとも、全て知っていて黙っているのだろうか。
いても立ってもいられなくなり、美咲は立ち上がった。
部屋のドアを静かに開ける。
廊下には、足音を忍ばせるように、冷たい空気が満ちていた。
悠人の部屋。
ノックをせずにそっと開けると、部屋の中は真っ暗だった。
カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされて、小さな影がベッドの上に横たわっている。
「……寝てるか」
声に出すのが怖くて、囁くような息しか出なかった。
そっと部屋に入り、彼の机に目をやる。
整頓された文房具。教科書。折りたたまれたプリント。
そして、違和感のある黒い表紙のノートが、机の隅に置かれていた。
なぜだかわからない。
だが、それが目に入った瞬間に、心臓がざわついた。
美咲はノートを手に取った。
ノートの中には、日付と短い文章が綴られていた。
読み始めると、思わず息を止める。
『3月21日』
「兄さんが夜中に台所で何かを食べてた。すごく静かに、でもずっと食べてた。」
『3月24日』
「冷蔵庫の奥に知らない肉があった。赤くてぐちゃぐちゃで、変な匂いがした。」
『3月30日』
「お母さんに言ったら、そんなのあるわけないって怒鳴られた。僕の頭がおかしいって言った。」
――誠の奇行。
だが、それは断片的で、証拠もない。
日記は続く。
『4月3日』
「兄さんが僕の髪の匂いを嗅いでた。夜中に起きたらすぐそばにいた。気づかないふりをした。」
『4月10日』
「クローゼットの中に小さな骨があった。動物のものかもしれない。でも、なんでそこにあるのかわからない。」
美咲はノートを持つ手に力が入った。
寒気が指先から這い上がってくる。
悠人は、この家の異常さをずっと記録していた。
それも、誰にも気づかれないように、静かに。
助けを求めることもできずに。
その時だった。
背後で床が軋む音がした。
「……夜更かし?」
ぞっとして振り返る。
そこには、誠が立っていた。
月明かりに照らされて、彼の表情はよく見えなかった。
「……ちょっと眠れなくて」
美咲はノートをそっと閉じた。
誠は一歩近づいた。
「悠人、ぐっすり寝てる?」
「……うん」
「よかった。最近、よく眠れないみたいだったから」
その声には、まるで心配の色が含まれているように聞こえた。
でも、美咲は知っていた。
この男の笑顔は、常に嘘でできている。
「また、話そう。ゆっくりと」
誠はそれだけ言うと、静かにドアを閉めて去っていった。
残された美咲は、冷や汗をかきながらノートを見つめた。
ページの最後に、日付は書かれていなかった。
ただ、震える文字で、こう記されていた。
『お姉ちゃん、助けて』
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