第18話 アリーナ炎上
アリーナが燃えている。
宮葉律樹はまだ生きていた。いや、生きていると表現していいのかは定かではない。より正確に言うと、まだ死んでいない、と言ったほうが正しい。
爆心地にほど近い場所にいた彼の体は全身が焼けただれ、皮膚と服が溶け合い、もはや見ただけでは男か女かも判別するのが難しいほどだった。
あれほど美しかった顔は見る影もなく、手を伸ばした相手には悲鳴を上げて逃げられる始末だった。
こんな風に終わるのか。
悪い人間だったつもりはない。律樹は彼なりに、精一杯生きてきたと自負している。それなのに、こんなところで。まだドームにも行けてないのに。
やっと掴んだと思った夢が、指の間からすり抜けていく。なんでこんな目に合うんだろう、と考えた。
なんでこんな風に死ななくちゃいけないんだろう。ただ手を握ってもらうことすらできず、たった一人で。剥き出しの肉に涙が伝う。激痛が走ったが、もはや反応する肉体の機構さえなかった。虫のようにただ動けなくなるのを待つだけ。
助けてくれ、誰か、誰でもいい、手を握ってくれ。こんな風に死にたくない。こんな惨めな死に方は嫌だ。頼む、誰か、誰でもいい、手を───。
「大丈夫」
誰かが手を握った。
律樹は蠢くように顔を上げた。ほとんど機能していない視界に、ぼやけた青年の顔が映る。怖がる様子はない。彼自身も怪我をしているのだろう。額が血に濡れている。それだけではない。よくよく見れば、彼の胸から下は崩落してきた巨大なコンクリートに押しつぶされ、体の下に真っ赤な血だまりができていた。
「大丈夫だよ」
律樹の手を握った青年が、もう一度言った。こちらを安心させるように微笑んでいる。
大丈夫なわけはないのに。不条理で突然な死はもうすぐそこに迫っていて、今にも律樹と彼を飲み込まんと大きな口を開けているのに、それでも最後の最後、見た目も立場も関係なく手を握ってくれた彼に、律樹は──。
律樹が目覚めた時、そこは一面の花畑だった。彼は色とりどりに芽吹いた草花の中に、埋もれるようにして横たわっていた。
「やあ、目が覚めたかい?」
爽やかな声。目線を動かすと、すぐそばに男が立っていた。ちょっと見ないくらい美しい男。律樹は「悪魔」と呟いた。赤い目に黒い羽根の悪魔。男が不満そうに顔を歪める。
「開口一番悪魔呼ばわりとは、失礼なやつだな」
「す、みません」
のどが乾き切っていて言葉がつかえた。
「いいよ。天使でも悪魔でも神さまでも、大した違いはないからね」
漆黒のスーツを見に纏った男が律樹の横に腰を下ろす。彼は長い足を組んで書類を取り出した。
「え~っと、詳しい説明は省くけど、まず君は死んでいて、君には新しい世界へ生まれ直す権利があり……」
律樹は視線を抜けるような青空へと戻した。右手にはしっかりと握られた感触が残っていた。目を閉じ、うわごとのように言う。
「あのひとは……、あのひとはどうなりましたか」
「あの人?」
「俺の手を握ってくれたひと……」
「あ~、うーん……」
ぱらぱらと紙をめくる音がして、悪魔が「お、あったあった、うんうん、ふむふむ。や~、残念ながら高瀬凪くんは今回限りみたいだね」と場違いに明るい声で答えた。
「今回限り?」
「うん。特に生まれ変わる予定もなく、死んでおしまいってこと。ようは消滅だね。消えてなくなる」
「俺は生まれ変わるのに……?」
「君って特別だから。そもそも、こんな風に君が死んだのもアリーナが爆発してみんなが死んだのも、元はといえば君のせいだし」
律樹は目を開けて悪魔を見た。彼はつまらなそうに真っ赤に染まった爪の先を見ている。
「たまにいるんだよね。君みたいな魂の人間がさ。人間のくせに馬鹿みたいに影響力があって、放っておくと人類史に取り返しのつかない変化をもたらす魂。勝手に救世主を名乗って大勢巻き込んで死んでいった女とかが代表例なんだけど」
「俺のせいって……」
「だからさ、君をあのまま放っておくわけにはいかなかったわけ。あの爆発の瞬間、あの場にいた全員が誰のことを考えたと思う? 君だよ、君! 親兄弟でも恋人でもなく、ただのアイドルの君を心配してた、一人残らずね!」
男は嫌そうに頭を振った。
「そんな危険な魂を、こっちはとても放っておけない。君があの世界に生まれてしまったのは間違いだった。本来ならもっと我々が干渉しやすい世界で管理されるべき魂だ。だから君は死んだ。ガス管をちょっと弄って、ドカンとね。つじつま合わせのためにどれだけ大量の人間が巻き添えになっても、それは大事の前の小事だ。払われるべき犠牲」
律樹の頬を涙が流れた。
「と、いうわけで」
悪魔がパンと手を叩く。
「君はこれから君にふさわしい世界に生まれ変わる。安心したまえ、超特別待遇だからね。君はある国の王子で、顔は美しく、頭も良くて、優しい両親と弟に恵まれ……」
「あの人にあげてください」
「え?」
律樹は横たわり、目を閉じまま唇を動かした。頬のすぐそばで花が揺れて、柔らかな花弁が皮膚に触れる。青い匂いがした。
「俺がもらうはずのもの全部、あのひとにあげてください。俺の手を握ってくれたひとに……」
「えーっと、そうすると君は消滅するんだけど、それでもいいってこと?」
頷く。男が黙り込む。しばらくして、男は大きくため息をついた。
「あのさあ、人間には分からないのかもしれないけど、世の中っていうのは建前が必要なワケ。君に巻き込まれて大勢の人間が死んで、このまま消滅していく定めの魂だって数えきれないほどあるのに、どうして高瀬凪だけが生き返れるの? ずるいよね。生き返るには生き返るだけの理由がなくちゃ」
「理由……」
伸ばした手を握ってもらった。
「とはいえ、正直君みたいな面倒な魂を完全に消滅させられるのはラッキーなんだよね。契約ってことにしておけばほとんどリソースも必要ないし。だからこうしよう」
悪魔が笑う。彼は握手を求めるように、黒い手袋をした手を律樹に差し出した。律樹の体を跨ぐようにして仁王立ちし、にこにこしながら腰をほぼ直角に曲げている。日差しが後ろから差し込み、赤い目以外は真っ暗に陰っていた。
「賭けをするんだ。君は次の世界で君が得るはずだったすべてを賭ける。僕は高瀬凪の魂を。君は記憶を失い、何も持たないただの人間として生まれ、その状態で高瀬凪に選ばれなければならない。もし彼が君を選んだら君の勝ち。どうぞ新しい世界で楽しく生きてくれたまえ。でも彼が君を選ばなかったら、君も高瀬凪の魂もきれいさっぱり消滅する。どう?」
律樹はもう、本当のところほとんど生きたいという意欲がなかった。彼は全力でアイドルという人生を駆け抜けたから。もう一度最初からやり直すくらいならこのまま眠る方がよっぽど楽だ。だから、もしこれが自分ひとりの問題だったら少しの寂しさは感じるだろうが消滅する方を選んでいただろう。
目を細めてこちらをみる悪魔の向こう、雲一つない空を見る。
でも、もし彼ともう一度出会って、今度はお互いに元気な姿で言葉を交わせたとしたら、そんな未来があるとしたら、もう少し頑張ってみたい。それがたとえ自分のエゴでしかなくても。
「思い出した?」
気づけば、アスターは見覚えのある花畑にいた。腕の中でライルが目を閉じて寝息を立てている。少し離れたところにはスーツを着た男が立っていた。
彼が手を振ると、アスターの黒い髪が金へと変わり、着ていた服が煌びやかなアイドルのステージ衣装になった。紛れもない、宮葉律樹の姿だ。
律樹は腕の中のライルを起こさないよう、そっと抱きしめた。管理者の方を見て「俺の勝ちだ」と静かに宣言する。
管理者は眉を顰め、首を振りながら一応の礼儀とでも言いたげに拍手をした。
「まあ、そうだね。確かに。おめでとう、これで君も凪くんも、晴れて正式な異世界の住人だ」
拍手がうるさかったのか、ライルが「う……」と身じろぎした。その姿が、いつの間にか高瀬凪の姿へと変わる。
律樹は胸が震えるような喜びを覚えた。眠る彼の手を握り、そっと手の甲へ口づける。
それを見ていた管理者が呆れたように肩を竦めた。くるっと背を向けて、花畑を歩いて遠ざかっていく。
「あ~あ、絶対勝てる賭けだと思ったのになあ」
そうだろうか? 律樹は最初から勝利を確信していた気がする。だって、凪が大丈夫だと言っていたから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます