終わりに

 堅苦しい記述ばかりしてきましたが、最後は本当に個人的な感想を。


 正直に言えば、私はことクリエイティブな作業に対してはAI否定派に近い考えだと思います。

 少なくとも、イラストにせよ文章にせよ、まず人間が作って、それをAIをツールとして使って補正するならともかく、AIがまず作ってそれを人間が直すという行為は、結局その人が作ったとは言えない、と感じてしまいます。

 それは理屈とかではなくて、感情の領域の『気味悪さ』のようなものです。

 なのでこれの是非について議論するつもりはありません。


 私自身、AIの今の状況は思うところは多々あります。

 本エッセイの『第8章 AIの登場から現在まで』の最後のところで、『AI生成物の著作権』について書いていますが、その中で『朝焼けの中、河口湖方面から見た富士山の画像。季節は冬なので十分な冠雪がある。そして太陽の光で山体が鮮やかな茜色に染まっていて、雪の白さとのコントラストがはっきり見えるようにしつつ、朝もやによって一部は溶け合ったような色合いになってる状態』とまで事細かに指示したら、その生成物は著作物と認められる可能性がある、と書きました。

 ですが、私はその生成物は著作物と認められるべきではないと思っています。

 確かにこの文章は創造性があるといえるかもしれません。ですが、それはその『文章』に対してです。生成AIが作り出すのは、文章をもとにした『絵』です。

 著作権は、その表現に対する創造性を守るためにある権利だと思います。

 であるなら、それは生成した『絵』ではなく、そのもとになった『文章』を著作物として保護すべきだと私などは思ってしまいます。


 絵についても同じです。

 絵を加工する際、元の絵が全く分からないくらいまで加工して利用すると、それは新たな著作物になるという説明をしました。

 つまり、AIに落書き同然の絵をアップロードして、それを加工してもらって綺麗な絵にしたとき、それは自分の著作物といえるか。

 それは、元の絵の特徴(享受される創作的な意思など)が同一であるといえるなら、それはAIを使用して自分の絵を『加工した』だけであり、ペイントソフトを使った加工と同じといっていいと思います。

 ですが、元の絵の要素がほとんど残ってない、あるいは判別できないほどになってしまえば、それはもはや『AIが作った別の絵』でしかなく、やはり著作物とは認められるべきではないと思います。


 この辺りは、今の文化庁の議論と違うのは重々承知ですが、それでもやはりAIを利用した上で著作物と認められるのは、あくまで『人間が創造性を発揮した元の著作物(表現)』の特徴を明確に残したものに対してのみであるべきだと思ってます。 


 ただその一方で、今回これをまとめていて、今『そういうものだ』と思ってるもの(著作権にせよそれ以外にせよ)は、実際には最初からそうだったわけではなく、長い年月の間に多くの人々が問題に直面し、そのたびに議論を、時には争いを重ねた結果確立した結果です。

 そして、その在り様が未来永劫変わらないものではない、ということも理解しておくべきでしょう。


 あと、アメリカのフェアユースについて詳しくなったのはよかったと思ってます。

 よくニュースサイトでも『フェアユース』という言葉はよく聞いてましたが、実際どういう概念なんだろうと思ってました。

 ただ、例えばSoraのあの日本のアニメの再現性は、どう考えても『変容性』の時点でフェアユースが否定されると思います。一方で、正直に言うなら『市場価値への影響』は現時点ではまだ限定的となりそうな気はしました。仮に高精度であのような動画を作れたとしても、日本のアニメの価値は見た目よりストーリーの方が重要で、稚拙なただのごった煮が市場を脅かすかといえば、微妙な気はします。

 ただ、いずれはSoraのような『AIでアニメを作る』のすら当たり前になっていくでしょう。

 実際、アニメにCGが用いられるようになってからもうかなり経ちますが、今それを見て『これはアニメとは言えない』という人はほとんどいない。

 絵の道具の進化同様、アニメだって進化し続けて、今やデジタルアニメが当たり前。それをさらに進めて、AIによって効率化するのは、自然な流れでしょう。


 このように、最も難しいと思われていたクリエイティブ分野でも、AIの進出はおそらく今後不可逆の流れとして入ってきます。

 もちろん、社会生活においても不可欠でしょう。自動運転などはAIありきな部分もありますし。


 さらに言えば、前項ではそこまで書きませんでしたが、究極的にはAIが社会を管理する時代は、いつか来ると思います。

 人間の政府が最終的に必ずと言っていいほど腐敗するのは、欲があるからです。

 ですが、AIはそういうロジックを取り込まない限り、我欲というものを排除できます。

 結果、社会的リソースを完璧な形で再配分するAI政府は、おそらく未来においてほぼ確実に登場すると思います。

 確か、ある職場でAIを広報担当として採用したという話を聞いたことがありますので、今後そういう流れも増えてくるでしょう。


 この辺りはよくSFなどでも扱われるテーマで、ついでに言うならたいていの場合は『人間性がない社会』だからということでAIの統治システムを打倒するストーリーであることが多いですが……実際には理想社会になる可能性もあります。

 ただ、人間が人間らしいかどうかは分かりませんが、そもそも今の『人間らしさ』が正しいかどうかも、後世の人からみれば違う可能性もありますしね。

 つまり価値観なんてものは常に変化し続けるのです。

 

 今回は一切触れませんでしたが、特許や実用新案などで保護されるべき、技術的なアイデアとAIの関係だって、微妙なところです。

 AIの能力によって新しい発明がなされた時、その権利(あるいは利益)は誰が受け取るべきなのか。

 それとも人類の共有財産として最初から開放すべきなのか。

 しかしもしその技術が、とても危険なもの(例えば非常に強力な毒を合成するのに使えてしまう)だった場合、非公開とする判断は誰がするべきなのか。


 人間には当たり前にある『倫理観』『常識』のようなものを、AIは現状持ちません。エッセイの中にあったように、回避策をとっていても毒ガスの作り方を開示してしまうこともあるわけです。

 それら人間が持つ倫理(あるいは感情)がAIに宿ったとすれば、それはもう人間と区別がつかなくなる可能性もあるでしょう。

 そうすると、今度は心理学、あるいは宗教の分野に突入して、魂とかの定義とか訳の分からない話すら出てくるかもしれません。


 正直、そこまで私が生きているとは思いません。せいぜいあと30~40年くらいですので。もしかしたらそういう未来の片鱗くらいは見られるかもしれませんが。

 ただ、その時になってみないとわかりませんが、実際に自分でそういう世界を見たら、自分自身どう思うのかも見当がつかないです(ボケてるかもしれませんが)


 ただ、これだけは確かなので、少し語気を強めにして言わせていただきます。

 現在は発展の過渡期にありますが、少なくともAIを研究している人たちは、多くの著作権者の権利を踏みにじるためにAIを作ったわけではありません。

 技術の発展、発達が人間のよりよい未来につながる可能性があると信じて、日夜研究に明け暮れている人がほとんどのはずです。


 彼らが、文字通り血のにじむ努力で作ったものを感情で否定するのは、自らが作った著作物を『気に食わないから』という理由だけで無条件で否定されるのと同じだと思います。


 それが生み出された背景、理由、そしてどう使うのが正しいのか。

 誕生した技術を否定するのではなく、適切に活用することで、多くの人がより多くの利益を得られるようにする。

 そういう前向きな姿勢で、AIという新しい技術についても向かい合っていきたいと思います。

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