この恋は偽物かもしれない

@sheep-sleep

第一夜

なんてことは無い始まり方だった。麗らかな陽射しの元でも、桜吹雪の中でもない。その日は、薄重たい雲が月を覆う湿った春の夜だった。

カンカンカン。鉄の階段を叩く靴底の音が近隣の静寂を乱す。本来、白色に塗られていたはずのその階段は、経年劣化という避けられない宿命を受けて、いまや全体的に赤錆び心許ない姿を晒していた。

階段を上りきった先、一番奥の部屋が私の帰る場所だ。いつも通り、と言ってもまだ一ヶ月そこそこの話だが、塾から帰った私は204号室を目指してアパートの廊下を歩いていた。

突然、ぎょっとした私は廊下の中ほどで足を止めた。私の部屋の扉の前で蹲っているものがあるのだ。こちらに背を向けてパーカーのフードを深く被っているので相貌は分からない。蹲っているので体格は不確かだが小柄に見える。肩口に覗くうねった明るい髪だけが人物像を示す手がかりだった。兎にも角にも、こんな夜更けに人の部屋の前を占領するような奴は只者ではない。

後ろを振り返ってみる。ここから不審者までの距離より、踵を返して階段までたどり着く方が早い。しかし相手が超危険人物だった場合、階段を降りる音が相手を刺激するかもしれない。だとしたらもうひとつの手段は……

私は革製の学校指定バッグを握り直した。幸いにも教科書が何冊も入っているので重量に不足はない。

家賃が安いからといってこんなボロアパートを選んだ過去の自分を呪いつつ、ゆっくりと一歩踏み出した。

と、その時、丸まった肩がぴくりと動いたかと思うと、不審者はのそりと立ち上がった。

フードを脱ぎながら振り返る様子を固唾を飲んで見定める。が、その顔を拝んだ瞬間緊張は和らいだ。

女性だった。

と言ってもまだ怪しい人物なことには変わりないが、長い茶髪から覗く彼女の目に妙に引き込まれてしまい、一瞬時を忘れていた。

お互いに気まずい沈黙が流れる。最初に口を開いたのは彼女の方だった。

「すいません管理人さ〜ん。鍵があかないんですよぉ」

と言いながら持っている鍵を私の部屋の鍵穴に突っ込んでガチャガチャいわせている。

彼女の両頬は不自然に赤く、目は潤んでいた。おぼつかない足取り。

完全に酔っぱらいだ。

どうやら私を鍵屋か大家かとでも勘違いしているようだ。これは相当飲んでいるらしい。

私は毅然として言い放った。

「ここ、わたしの部屋なんですけど」

私の声に反応して、彼女は鍵穴から手を離さずに首を回してこちらを見た。

「あれ?なんで高校生がこんなとこにいんの〜?」

やっと彼女は私を見た。右手で鍵を回したままで、さっきの言葉も聞いてなかったようだが、ぼやけた意識の中、ついに彼女は私を認識したらしかった。

「だから、そこわたしの部屋なんでどいてくれませんか!」

その言葉を聞いて、彼女はあっと素っ頓狂な声をあげた。と同時にばき、と鍵穴から嫌な音も聞こえた。

今度は私が頓狂な声をあげるはめになった。

「あーー!!!!ねえ、ちょっと!!何してくれてるんですか!?」

相手の方が身長が高いのも忘れて私は奴に掴みかかった。激しく揺すぶると、流石に酔いも覚めたようで顔を真っ白にしていた。

「ごめん。本当にごめんね」

私は何も言えなくなった。

お互い何も発せず、永遠のような沈黙が流れる。そんな中でも私は彼女を淡々と見つめ続けた。

圧をかけたかった訳ではない、彼女を見ていると不思議と、懐かしい気分になるのだ。ずっと、この夕暮れに似た瞳を見るのは初めてではない気がしていた。

長い沈黙を破ったのはまたしても彼女の方だった。

「あー、雨宮さん、だよね?」

204号室の表札を仰ぎ見ながら彼女は尋ねた。

が、私は何も答えない。

「最近越してきたよね?」

「………………」

「本当にごめんなさい……」

「………………」

「鍵は弁償するから、ね」

「そうして下さい」

やっと返事が返ってきたのが嬉しいのか、彼女は目を輝かせた。電灯の白い光に照らされた琥珀色を見ると、こんな時でも綺麗だと思ってしまう。

何かを逡巡している様子で、彼女は口を開いた。

「あの、君、明日も学校だよね。でもこんな時間だから大家さんも寝てるだろうし……」

妙に歯切れ悪く言い淀んでいる。つまり何を言いたいのだろうか。

「合鍵がポストにあるんだ。ドアが直るまではうちで過ごさない?」

彼女は私の部屋の隣の203号室の表札を指して言った。『風間』と綺麗な字で書かれている。

予想外の申し出に私はまた黙り込んでしまった。その隙に彼女はポストの差し込み口に手を突っ込んだかと思うと、剥き身の合鍵を取り出した。いささか不用心である。

私の返事を聞く前に彼女はもうドアを開けていた。

「はい、どーぞ」

手招く彼女は何故か嬉しそうだ。

部屋の中から漂う甘い香りに脳が燻されて、もう何も考えられなくなった。

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