牧野さんのたからもの
杉浦ささみ
恋人ができたかも
ぼくが一方的にゲームの話を吹っかけても、ご
他人からの優しさに縁がなさすぎるぼくは、はじめ、いじめっ子からの
ぼくがすすめたゲームを買ってプレイしてくれた。いっしょに下校してくれたりもした。今までの人付き合いからは考えられず、舞い上がるほど嬉しかった。
朝いちに学校にきて、ぼくの椅子に仕掛けられた画びょうを拾ってくれたこともあった。
ぼくは廊下から、こっそり様子を覗き見ていた。牧野さんは、そのことについて、口にしたりしなかった。かりそめの善人じゃないと確信した。
牧野さんには
でも、交遊事故にあってから体の機能が欠損し、忘れっぽくなり、やがて学校にこなくなった。
牧野さんは今でも病院にいって朝霧さんと遊ぶらしい。ベッドの上で暇してる朝霧さんに、ときどきプレゼントを持っていき、どんなに喜ばれたかを、ぼくにも話してくれる。
牧野さんは、朝霧さんと遊んだ日のことを、つぶさにノートに書き込むそうだ。
朝霧さんが忘れても、また思い出してもらうために、
ある日の夜、頬に泥をつけた牧野さんと町で会った。どうしたかと聞くと、知り合いの窯元で朝霧さんと陶芸体験をしたという。
いろんな人に友添を依頼し、ひと苦労もふた苦労もして最高の作品を作り上げたそうだ。
「楽しかったよ」と牧野さんは頬の泥を指でこそげ、黒ずんだ爪を感慨深げに眺めた。「ずっと覚えてよっと」
陶芸の話をするその横顔がきれいだった。ぼくがゲームについて早口になるのと同じように牧野さんも陶芸について熱弁した。席替えの少ないクラスだから、この幸せにも長期の保証があった。
ところが悲しいことに、ほどなくして朝霧さんは亡くなった。元から長くはなかったらしい。あまり朝霧さんと縁のないぼくも、なんだか胸が傷んだ。
牧野さんは涙を見せなかった。前向きだった。悲しみに暮れたクラスメイトも、そんな牧野さんに背中を押されたようで、じきに騒がしさを取り戻していった。
泣かなかったのは心が強いからというより、既に悲しみきったからだと思った。
訃報も葬儀も、長い連休の
なにはともあれ、牧野さんは
ぼくはもっと牧野さんと話した。牧野さんのことがもっと好きになった。
はじめて話しかけられたときから好きで、彼女の笑顔を見ているうちに好きが止まらなくなって、いつしか両想いだと確信するようになった。
もう、とっくの昔に気を許してるだろうし、こっちも大きく踏み込みたいと思った。そうすれば、いっそう親密な仲になれるはずだ。
牧野さんはいつも笑ってばかりだった。たまには困ってる顔や、絶望とまではいかなくとも悲しんでいる顔、あるいは怒っている顔をみたい。
男として、おちょくってやりたい。そういう欲があふれてきた。
ある日、いつものように学校に向かっていると、曲がり角で牧野さんと出会った。カバンを大事そうに抱える彼女は、いつも以上に笑顔が眩しい。
「……どしたの。なにか嬉しいことでもあった?」
その頃のぼくは、既にいじめられっ子ではなく、牧野さんにもタメ口を利けるようになっていた。
「なんだろねぇ」
鼻歌まじりにはぐらかされたぼくは、当ててごらんと試された気がしてムキになった。それはそれで楽しかった。
校門に差し掛かった。牧野さんはぺこぺこと挨拶をして、いつも通り楽しげに学校へと入っていく。
教室のそばの廊下を歩いているときも、ぼくの歩みに合わせてくれた。もうすぐ朝のチャイムが鳴る。廊下の雑踏はせわしなかった。
教室のドアはかなり近づいた。ぼくは少しだけ前に進み、牧野さんの歩調をうかがった。軽いスキップをし、よそ見をしている。ぼくはそこに景気よく足を引っ掛けてやった。
「あっ!」
ふわっと前のめりに崩れ落ちる。それがスローモーションに見えた。うまくいった、と心の中で叫んだ。ぼくはさっと後じさった。
心臓がドキドキする。はやく顔を覗き込んでやりたい。なんだか、いけないことだと重いながら、ぼくは腰をかがめようとした。
すると、ひりつく悪寒がぼくを襲った。腰をかがめるのは止めた。どうしたんだと思う暇もなく、激しい後悔がやってきた。
牧野さんの体がリノリウムの床に倒れたとき、巻き添えになったカバンから奇妙な音が響いたのだ。
なにかが崩れる音だ。それがトリガーになったのだろうか。牧野さんの顔から、さっと血の気が引いた。
廊下のみんなが足を止めた。ざわつきが一気に波及した。牧野さんは泣き出したのだ。
「牧野さん、大丈夫?」
「牧野さん! 牧野さん!」
誰もぼくには目をくれず、牧野さんを中心に大きな輪ができた。カバンを抱えてうずくまる背中をぼくは眺めていた。
気の抜けたチャイムが響き渡るも、それに従う生徒は少ない。朝の日差しが、狂ったように眩しかった。
すると「ちょっと牧野さん! なにしてるの!?」と女子生徒が叫びだした。「危ないってば。やめなよ!」
よごれた白い紙が落ちていた。カバンは全開だった。そばには欠けた器が転がっていた。
牧野さんはカバンのなかでバラバラになった土の破片を掻き集め、「朝霧ちゃん……朝霧ちゃん……」と
教師も止めにかかったが、牧野さんは動かなかった。
「どうしよう。持ってこなきゃよかった」
牧野さんは、廊下にべったりと手形を残し、不格好なその器を撫でた。
3分の1ほどが欠けきっている。油性マーカーかなにかで、魚屋の湯呑みのようにびっしりと文字が書いてある。牧野さんの筆致だ。
牧野さんは周囲に目もくれず器を抱え、その手をかすかに震わせた。
器は手の上でぎりぎりの形を保っていたが、指の揺らぎのかすかな変化で、あえなく崩れ去ってしまった。真っ赤な指の隙間から、残骸があちこちに転げ落ちる。牧野さんは叫んだ。
ぼくは滝のような冷や汗を流した。足元をさっと見回した。
「〇月✕日 朝霧ちゃんといっしょに陶芸……」「絶対忘れないように……」「ずっと友達……」
もう牧野さんの声は枯れきっている。泣き腫らした目はぼんやり
牧野さんは床に手をつき息を漏らした。尖った
ぼくは恐ろしくなって牧野さんから遠ざかった。彼女は保健室に連れていかれた。ぼくは無実を装った。
*
その日を境にして、牧野さんは口数が少なくなった。机に突っ伏し、かと思うとすすり泣いたりするようになった。歩くとき、不気味なほど足元を警戒するようになった。秋になり牧野さんが全く喋れなくなるまで、そうかからなかった。
枯れ枝が目立つ季節になったころ、牧野さんはもう学校に来なくなった。窓辺の眺めがよくなった。
教室に冷たい空気が漂いはじめる。広々としたガラスは曇りがちになり、やんちゃな生徒の手形が引かれるようになった。
すりガラスのような日々に、修学旅行や、受験、将来のあれこれも、ぼんやりした像として過ぎ去っていく。
ぼくは誰にも罪を話さなかった。もう傷つきたくなかったし、このまま大人になるべきと思った。
さらに日々は過ぎ去った。
*
牧野さんに恋人がいたという噂は、しばらく経って耳にした。
真偽不明の情報だけれど、正直、自分のこととは思わなかった。そりゃいるよねとぼくは思った。こんな根暗が選ばれるわけない。
ぼくは、単なる優しさを性愛と見誤っていただけ。向こうはずっと友達のつもり。もしくは無理して接していたのだろう。
ふざけ合いの一環として足を掛けるなんて、巡り巡っても考えつかない誰かと、幸せな未来を築くはずだった。ぼくはそれを壊してしまった。
それでも牧野さんはずっと優しかった。
言葉を失う最後の最後まで、犯人捜しをしなかったし、ぼくを責めることもなかった。
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