ツメアト

川内 祐

私なりのI Love You

「月齢1.9」

 インスタで偶然見かけた写真に息を飲んだ。

 その写真が特別に世界を美しく切り取っていたからでも、被写体の魅力を最大限に増幅していたからでもない。

 その写真は、ほんの数分前。私が「今この瞬間の空の色だ」と、茜と紺碧の狭間に銀の匙の先を突き立て、稜線が黒塗りの壁画に変わった風景を切り取ったものとほんの少ししか違わなかった。

 大きな違いはたったひとつ。

 その風景に私が居るか居ないかということ。

 心を沈めるためにゆっくり吐いた息が白く立ちのぼり、街灯の光にふわりと消える。


 §


 巡る血も凍りつく冬の夜道を、私はゆっくり歩いていた。コートのポケットの中で手は空っぽを握りしめ、後悔からうつむいているのを、踏み固められた雪で足元が滑らないように注意しているように見せかけ歩いても、視界の端には銀色の月が爪のように引っかかっていた。

 甘いメッセージを送ってきた相手は、まだ待っているだろうか。

 いや、待っているに決まっている。いつもそうだった。彼は誠実に、真正面から私の言葉を受け止めようとする。だからこそ、私の心は重くなるのだ。

「好き」と言わなければならない。

 その結論に辿り着く度、私の胸は凍りつく。好きか嫌いか、と問われれば、好きには違いない。ただ、その言葉に宿る温度が、彼が求める熱には程遠かった。

 銀色の月が雲に隠れかけ、また顔を出す。銀色の「月光」と呼べるほどではない光の筋が私の心同様に冷たくも澄んでいる。

「心にもないことを告げてもいいの?」

 良心とも本心とも違うもうひとりの私が心の中で銀色の爪の痕に血を滲ませる。

「今は良いじゃないの。それでも」

 その堕落した衝動と呼ばれても反論できない答えは、決して悪意なんて含んではいなかった。むしろ彼を傷つけたくない、という思いやりだ。

 そして同時に、私はそれらが全て嘘であることも知っている。

 やがて私はポケットの中の手で掴むものをスマホに替え、震える指先でメッセージを打ち込んだ。

「私もあなたのことが好きです」

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥で鈍い痛みが広がる。銀の匙が心から腹の底まで深く抉る。彼の喜ぶ顔を思い浮かべながら、その言葉が自分の本心ではないことを強く自覚する。

 夜空を見上げれば、いつの間にか銀色の月は空から消えていた。まるで真実を暴くのを諦めたかのように。匙を投げたかのように。雲の中に溶けたのか、墨を流した海に沈んだのか。

 私は立ち止まり、小さく呟いた。

 「ごめんね」

 乾燥した唇が裂けて罰になる。


 §


 あれから数年。

 振り返った私の視線の先には紛れもない彼が立っていた。

 画角に私を入れたのは狙ってのことに違いないが、果たしてその風景の一部でしかない人物が、あの時結果的に自分のことを深く傷付けたオンナだと気付いていたのだろうか。

 彼は一歩も動かず、まだ空を眺めている。時折スマホの画面越しに。

 私も彼が眺める空の方を向き、再びスマホを手にする。

 そして彼の投稿に対して、自分が撮った写真に「月が綺麗ですね」とひと言添えてコメントした。

 程なく付いたハートマークは「読みました」という意味だけじゃないはずだ。同じ時間、同じ場所から撮られた同じ月の写真。

 あの時の嘘から満ち欠けを繰り返して、私の素直な心から湧き出た言葉は彼の心を銀の爪で優しく撫でられただろうか。

 近づく足音に振り返る勇気もない私を、彼は紺碧の空の下でそっと、しかし、しっかりと抱き寄せた。嘘さえ包み込む優しさで。

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