第3話

 翌日、ギリギリだけれど遅刻はせずに出勤できたオレは、いつもどおり仕事をこなした。数日ぶりに平穏な一日だった。


 イチカは今日から二連休で休み明けから遅番、明日はオレも休みである。

 貫田にセクハラを注意したと伝えるのは、明後日の夕方になりそうだ。


「ま、これで遅番でも安心してくれるだろ」


 目を潤ませたイチカを思い出すと、なんだか胃の奥がムズムズする。

 この感覚が何か深く考えないことにして、オレはその日の仕事を終えた。

 


 ――そして次に出勤した日、オレは本社から出勤停止を命じられたのである。



 オレの社用携帯は、死神からの宣告を淡々と伝えてくる。


「なんでですか、自分が何したって言うんです!?」

『加藤さんの勤務に関して本社に相談がありました。事実確認のために本日と明日は自宅で待機をお願いいたします。なお会社指示の待機ですので給与は保証されます、ご安心ください。年休を消費せずに有休が使えると思っていただければ。ただし、自宅待機は守っていただけますと幸いです』

「い、いや、だから相談ってどんな」

『それは今は申し上げられません。二日間の事実確認後、本社にて面談を行う予定ですので、その際に詳細はお伝えできるかと思います』

「面談……」


 ほぼ一方的に用件を告げられ、電話は切られた。本社――特に管理本部からの連絡は、店舗では死神と言われる程恐れられるものである。


 大抵が、店舗管理の不備を詰められるか、営業成績について詰められるか、勤務態度を詰められるか、のどれかだからである。


 否応もなくオレは出勤停止の自宅待機となった。

 本社から連絡があったのだろう。中番出勤の主任が時間を早めて出勤してきて、気まずそうにしていた。


「今日明日、よろしく……」


 店舗の鍵を主任に引渡し、店を後にする。

 過去に聞いた噂だと、出勤停止から面談という流れは、不正を詰められ退職を迫られる前兆らしい。


「まさか、オレの食事がバレた?」


 至極真面目に働いているつもりでも、不正に心当たりがあるのが痛いところである。


「なんでこんな急に」


 解雇の二文字が頭の中で踊り、オレの心拍数を上げていく。気付いたら家に帰りついていたけれど、どうやって帰ってきたのか全く覚えていなかった。




 このままではマズイ。

 自室でベッドに腰掛けたまま、ほぼ半日何もせずにいたけれど、夕方にはようやく頭が回り始めた。


 何もせず面談を待っていてはクビになるだけだ。

 しかし、打開策が全く思いつかなかった。

 それどころか、クビになったあとの事ばかり考えている。オレは心のどこかでクビを受け入れているんだろうか。


「まず、転職は難しくなるかもしれない」


 横領をするようなやつを雇用してくれるところなど、あるのだろうか。

 それに、そもそも。


「妖だとバレたのだったら、働くどころじゃないかも」


 見せ物にされるか、むしろ隠され人体実験に使われるか。

 そんな嬉しくない妄想ばかりが膨らんで、また心拍数が上がってくる。


 ぶんぶんとかぶりを振って嫌な考えを追い払おうとするものの、がっちり脳みそにくっついて離れてくれなかった。

 そんな時、ベッドに放りっぱなしだったスマホが着信を告げた。社用スマホではなく私用の方だ。静かな室内で唐突に鳴り響いた着信音に心臓が跳ね上がる。


「イチカ?」


 画面を見ると、発信者は物部イチカだった。


『あ、副店長! クビになるってほんとですか!?』

「うっ……!」


 あらましを主任にでも聞いたのだろうか。イチカのストレートな質問が胸に刺さる。悪気どころか心配してくれているのは声音でわかるけれど、今のオレにはダメージがデカかった。


 それでも燃えカスのような矜恃から、あくまでも平静を装って返答する。声は若干上擦ったかもしれない。


「どうかな。オレは身に覚えがないんだけど」

『なんか貯玉を使って不正したとかなんとか、噂になってるんです。不正の記録が副店長のシフトとも一致してて、ほぼ黒で本社が動いてるって!』

「え?」


 貯玉? 玉を食ったとかじゃなく?


『岡田さんの件ですか? あれはホントなら私が』

「いや、違うよ。岡田さんの件がどうこうじゃ……」


 イチカにはまったく責任がないと言おうとして、そのままオレは思考に飲み込まれていく。


 貯玉。シフト。

 これはつい先日、貫田に罪を認めさせた時にオレが言った根拠と重なるものだ。

 不正のログは遅番の時間帯で、オレは早番で出勤しているのだ、と。

 つまり――


「貫田さん……」


 オレは貫田に裏切られたのだ。


『副店長? 加藤さんってばー!?』


 スマホから聞こえるイチカの声がどこか遠い世界の音のようだった。


「――ごめん、イチカちゃん」


 どうにか呟いた声は聞こえただろうか。オレは一方的に通話を切ると、どさりとベッドに倒れ込んだ。


 貫田がオレに罪を被せようとしていたのを、阻止したつもりだった。

 不正の指摘こそしたけれど、大事にするつもりはなかった。


 仲良しこよしな相手ではない。

 それでも入社以来――十年以上の付き合いである。

 貫田だって話せばわかってくれると思っていた。


「そう思ってたのは、オレだけってことか」


 口に出した自分の言葉が、じわじわと胸の中に侵食してくるようだ。

 何も考えたくない。

 オレはベッドに倒れ込んだまま、ゆっくりと目を閉じた。



 * * *



「貫田さん、このエラーコードなんです?」

「自分で調べろよ」

「教えてくれてもいいじゃないですか。時間ないのに」

「この前教えた」

「え、いつ?」

「うるせー。メモ見ろ、メモ」


 入社間もない頃のオレの教育係としてついたのが貫田だった。

 まったくの未経験で社員として入社したオレは、実のところパチンコで遊んだことすらなく、よく採用されたものだといまだに思う。


 そんなド素人の教育係にされた貫田は、そりゃあ面倒だっただろう。

 アルバイトでも知っていることを知らないのだ。おかげで古参のアルバイトには下に見られる始末だった。


 それなのに「社員なのだから」と責任は求められる。責任と言われてもわからないものはどうしようも無いので、オレが何かやらかすたびに連帯責任として貫田も一緒に説教を食らっていた。


「しんどいー」

「あのなぁ。オレのがよっぽどしんどいだろうが。さっさと仕事覚えろよ」

「努力はしてるんですって」

「ったく。なんでオレが教育係なんだよ」

「そんなことオレに言われても」

「くそ。せめてバイトに舐められんな。指示が通らねえ」

「うーっす……」


 好きで舐められているわけじゃない。

 だが、組織内の指示系統がオレのせいで乱れているのも事実。オレは毎日必死で仕事を覚え、クタクタになるまで働いた。


 そんなしんどい思いをしても何故この仕事を続けられたかといえば、それはもちろん食事の環境が整っているからである。


「これのために働いてる……」


 倉庫整理のタイミングで、ポケットに忍ばせたパチンコ玉を口に放り込んだ。ボリボリと咀嚼し、香りを堪能し、しみじみと飲み下す。

 いつでも腹を空かせていたオレが、ここで働き始めてからようやく満腹を知った。


 しかしオレはこの時、痛恨のミスを犯した。

 貫田が様子見に来たことに気づけなかったのである。


「……お前、今何した?」

「ぬ、貫田さんっ!?」

「玉食ってただろ? 何やってんだ」

「いや、これは……」

「?」

「だ、誰にも言わないでもらえませんか。貫田さんに迷惑はかけないんで」

「なん――」

「お願いします!! オレ辞めたくないんです!!」

「お、おう……」


 面食らった貫田はそれ以上追求せず、オレの頼みどおり誰にも言わずにいてくれた。

 些細なことで金食い虫だと知られてしまったオレは、その件以降一層仕事に打ち込んだのだ。


 貫田に迷惑をかけないために。


 努力のかいあってオレは仕事を認められるようになり、アルバイトから舐められることはなくなった。

 長く勤めてオレは副店長になり、貫田は店長になった。


 長く一緒にいると、お互いの嫌な部分だって見えてくる。

 文句を言うこともあるし、意見が食い違って議論になることもあった。

 それでも。

 好きにはなれなくても、それなりに上手くやってきたと、思っていたのに――。



 ぼうっと意識が浮上し目を開けると、暗い部屋に窓から月明かりが射し込んでいた。


「昔の夢見てたのか」


 上手くやれていると思っていたのはオレだけだった。不正をオレに擦り付けようとしていた時点で、気付くべきだった。

 貫田にとって、オレは罪の身代わりにする程度の存在なのだと。


 裏切られたことが思った以上にショックだったのが、我ながら意外である。


「クビになる前に退職願を出した方が……いいかもしれないな」


 心が諦めに支配されていくのがわかる。

 不正のログがオレのシフトと一致していたということは、シフトは既に改竄されているのだろう。

 店舗管理のシフトだけではなく、本社管理の出勤簿まで改竄済みに違いない。


 うちの会社のタイムカードは半デジタルとでもいおうか、実カードで打刻したデータが本社で記録されていくシステムである。

 改竄は難しそうだが、カード自体を入れ替えてしまえば別人の名前で出勤簿が付けられることになる。


 不正を行った日、貫田は自分のカードとオレのカードをすり替えたのだと思う。

 オレが意気揚々と貫田に突きつけた不正の根拠は、とっくに対策済みだった。


 だからこそ貫田は、自分に塁が及ばないと確信を持って本社に密告したのだろう。

 こうなってしまっては、例の会員カードがオレの手元にあるのも完全に裏目だ。

 横領犯が持っているはずの会員カードを、一番疑わしいオレが持っている。


 警察に持ち込むなんて面倒を抱え込む必要もなく、本社はオレを黒だと断じるに違いない。

 あとは認めさせるだけ。

 それらの状況証拠をひっくり返すに足る決定的な証拠が提示できなければ、解雇確定だ。


「詰み、か……」


 自然と口が笑みを形作る。

 追い詰められ諦めると、人は笑うらしい。

 窓に切り取られた夜空には細い三日月が浮かび、世界がオレを笑っているようだった。



 その時、チラリと視界に何かが瞬いた。

 空にではなくベッドの上、放られたスマホの通知ランプだった。

 のそのそとスマホに手を伸ばしロックを解除すると、強烈な光に目が眩む。


「……っ!」


 ゆっくりと明るさに順応した目に飛び込んできたのは、何度あったかもわからないほどの不在着信だった。


「鬼電……」


 発信者はイチカだ。

 おかしな切り方をしたから、心配したのだろう。

 休憩時間の度にずっと電話を鳴らしていたようだ。


「悪いことしたな」


 セクハラの件も、解決していないかもしれない。それなのに彼女は遅番で貫田と顔を合わせることになっている。

 また無力感の大波に襲われ、思わずため息が漏れた。

 イチカが電話で言った言葉が脳裏によみがえる。


『ほぼ黒で本社が動いてるって』

「ほぼ黒ってなんだよ。白だっつーの」


 記憶のイチカに毒づくと、「ですよね!」と笑ってくれるのだが。

 自分の妄想を自覚するとより情けなくなり、肩を落とした。


「バイトにまで話が伝わってるとか――」


 死神は余程確信を持っているのだと伺えるのだが、ふと何かが引っかかった。


「なんだ? 何か変な感じが……」


 何かはわからないが、胸の奥がザワザワと落ち着かない。解雇の不安がよみがえったのだろうか。

 しかしこの違和感を手放してはいけないと、オレの中で何かが叫んでいる気がする。


「イチカが何か――?」


 小さなトゲが指先に刺さっているような違和感だ。

 抜こうにも掴めず、小さすぎて痛くもないけれど、見えているからとても気になる。


「見えている……聞こえている……?」


 状況を整理しろ。電話の内容を思い出せ。


「オレは何を聞いた?」


 もう少しで手が届きそうなのに。


 自宅待機を言い渡されて、家で絶望し、半日呆けた。夕方に遅番のイチカから電話があって、貯玉不正でほぼ黒だと噂が流れてて、貫田の裏切りを知った。


 ――ぐぅ。


 オレの腹よ、空気を読め。


 こんな時だというのに、空腹を訴え始めた腹の音に思考が途切れる。PC前の呑気な顔をしたクマが浮かび、またイチカが笑った気がする。


「! ――――そうか、それで……」


 唐突に脳内で点と点が繋がって、違和感の端を指先が掴んだ。

 その瞬間、見計らっていたかのようにスマホが着信を告げる。散々思い浮かべていたイチカからの電話だった。


「もし――」

『副店長! 助けて!!』

「は? ちょ……」

『バカ女が! いちいち加藤に電話してんじゃねーよ!』


 貫田の声だ。

 電話が音を拾うくらい近くにいる。

 イチカが助けを求めていて――

 

 オレはスマホを握りしめたまま、家を飛び出した。 

 

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