第2話 お盆、山の夜の怪

 子供の頃、お盆で親戚のところへ泊まりに行く際、

父が運転する車で三国峠を通ったら、丁度流星群のピーク時にあたったことがある。

恐らく極大日だったのだろう。

周囲に遮るものもない満天の星空を次々と疾る細い閃光。

あの煌めきはきっと一生忘れることはない。


 同じ日だったかどうか、往路か復路かも定かではないが、

山中にあったドライブインだかパーキングだかで一時トイレ休憩をした。

当時我が家で運転できるのは、父一人だけ。

長い道中、しかも夜間である。

こまめに休まねば危険極まりない。


 WCの矢印看板を頼りに、人気のない裏手の方へ向かった小学生の私。

お母さんも一緒に来てくれれば良いのに。

蒸し暑く湿った夏の夜気がぬるく頬を撫でていく。

夜遅く真っ暗な休憩所のトイレには裸電球が首吊りのようにぶら下がり、

曇って見えにくい小さな窓ガラスには巨大な茶色い蛾がべったり。

クスサンだろうか、ヤママユ系のモスラっぽいヤツだ。


 当然の如く和式ボットン。

そして男性陣は見た事がないだろうが、女子用であっても

昔の公衆トイレは汚れていたものだ。色々と。

 便器周りのアレコレを踏まないように、細心の注意でもってまたぐ。

小さな子供の足ではなかなかに大変だ。

『トイレは清潔に!』って貼り紙もあるじゃないか、

ご丁寧にびっくりマーク付きで!

なんで周りが濡れてたり、茶色い汚れがこびりついてたりするんだよぅ……


 半泣きで用を足して手を洗って前を見れば、

ぷらぷら揺れる裸電球の頼りない灯りを背に

逆光で影に澱んだ情け無い表情の少女が

口をへにょりと引き結んで、汚れた鏡の下半分を見上げていた。

(今では見る影もないが、六年生当時体重二十八キロの小柄体型のチビ助だった)


 壁のコンセントから繋がったぶっといコード、黒い糸で巻かれているやつが

一度天井に引っ掛けられて、そこから裸電球がぶら下がっている。

背伸びをすれば何とか手が届く。

来た時と反対にプラグを捻って電気を消して。

 用も足した。手も洗った。後始末もした。

ミッションはコンプリートされた。

大きな達成感を小さな胸に、ヨタヨタ車に戻ろうとした時、

好事魔多し。

災禍は奇襲を好むもの。


 後は車に帰るだけ、と安心し切った愚かな小娘の耳を襲う大音響。

突然、闇をつんざく大きな悲鳴が響き渡った!




キィエアァァァァッ!




 腰抜かしそうになったわ。

ほんと大きな声だったんだよ。

あの時は進退極まったものだ。

 後ろには水木しげるが張り切って描きそうな不気味なトイレ。

前には楳図かずおの世界が奇声を発して手招いている。

まさに前門の虎、後門の狼。

小学生には大変な試練である。

さっき済ませたばかりなのに

ちびりそうだ。

己の尊厳の危機でもある。


 しかし暗い暗い夜の山の中、

蹲るのは愚の骨頂。

得体の知れない悲鳴の主の先には

家族が車で待ってくれている!

窮した少女の背中を押したのは、揺るぎない家族への信頼だった。

 半泣きが全泣きになりながらも

覚悟を決めてそろりそろりと

私は闇に足を踏み出して行った。


 乱れる呼吸音、バクバクとうるさい心音。

視野は狭窄し、覚束ない足取りで、

ひび割れた細いコンクリートの通路を踏み外さないよう慎重に進む。

出来るだけ静かに音も立てないように。


 通路はもの寂しい暗がりに、ほの白く浮かんでいる。

ろくに手すりも無いところを手探りで進めば

左手に何か鉄柵のような物が触れた。


……こんなのさっきもあっただろうか?


 手すりになるかも知れない、と握ってみれば妙にザラついた手触り。

それでもしっかりと硬い金属の存在感は頼りになるだろう。

鉄柵の棒を掴んで背筋を伸ばし、息を吐いたその瞬間。

 ふい、と気を引かれて鉄柵の向こうに視線を投じる。


 い  る  


闇の底に、ナニカ意思のあるものが、ひそりと凝っている。


 見  た  な  ?

 見  た  ぞ  ?!





ぞろり



闇が凝ったような塊は

地を掃くように長い尾を打ち払い、

鎌首をもたげ、

ぎろりと私を見据える。

再びの叫び声。



キィエアァァァァ!!!


    トッ トッ トッ トッ!



逃げる間もあればこそ。

鉄柵を握り締め、

硬直した幼い私の元へ

黒い闇が奇声を上げながら一直線に向かって来た!


 彼我を隔てるは、ひしゃげかけた黒い鉄柵ひとつ。

これを抜かれたら無事では済むまい。

目を見開き、金縛りにあったように立ちすくむ私へ

コマ落としのような慮外のスピードで、

飛びかかって来た。



……一羽の孔雀が。





 狭く錆びた檻の中、

昼間は観光客にジロジロと見られて

さぞやストレスも溜まっていたのだろう。


『何じゃワレェ、ここはワシがシマやで

通るんならエサ寄こさんかい!』

『挨拶も無しに通りよるか、こんガキャぁ

いてこましたるぞワレェ!?』


 あの奇声を訳すとこんな感じだったのだろうか。


 山中の小さなドライブイン。

恐らく専門の飼育者もいない環境だったはず。

『見せ物』としてオス一羽だけを飼っていたのだろう。

一族から引き離され、遠い国に自分だけ。

自慢の飾り羽根を披露する素敵な女の子も居ない。

番う相手が居なければ、優雅に飾り羽根を開くことも無かっただろう。

『役立たずな見せ物』のレッテルを勝手に貼られ、

狭い檻の中に閉じ込められる生活。

 毎日毎日、翼も持たないみっともないイキモノがぞろぞろとやって来ては

ピカッと光る得体の知れない小箱を向けて

『羽根開かないねえ』『せっかく見に来たのに』などと勝手なことを囀っている。

どれだけストレスがかかっていたことか。


 子供の頃の私が驚かされたことなんて

比較にならないほど理不尽な不遇を託っていた彼。

人間の身勝手で酷い暮らしをさせてしまっていた彼。

恐らくこの世にはもう居ないであろう彼。

貴方があそこで懸命に生きていたことを、

私は絶対に忘れない。


 輪廻の輪の次の世では

信頼できる家族に囲まれた幸せな一生であることを切に願う。





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