第二十話「死闘」
俺の思考が。
絶望的な計算とトラウマの狭間で、高速で回転する。
その、ほんの一瞬の思考の隙。
それを見逃すほど、目の前の男は、甘くなかった。
リーダーの男の巨体が、俺の視界から一瞬で消える。
(速い!)
気づいた時には、奴は俺の背後にいた。
そして、その巨大な戦斧の刃が、俺のがら空きの首筋めがけて薙ぎ払われようとしていた――。
死。
その絶対的な感覚が、俺の全身を支配する。
思考じゃない。
もはや、それは生き残るための本能だった。
俺はストックの中から、一つのアイテムを無我夢中で願った。
(滑らせろ!)
俺の思考に応えて、スキルが発動する。
俺の背後で巨大な戦斧を、今まさに片手で振り抜かんとしている、リーダーの男。
その戦斧の柄を握る右手めがけて、べっとりとした透明な液体、(N【油】)が出現した。
次の瞬間。
「なっ!?」
リーダーの男の、驚愕の声。
彼の自慢の剛腕が生み出す恐るべき遠心力。
それによって、油で摩擦を失った戦斧は、その手をすっぽ抜けた。
ゴウッ!と、凄まじい風切り音。
戦斧は彼の右手から滑り落ち、俺の髪を数本切り裂きながら、すぐ横を通り過ぎて背後の木の幹に深々と突き刺さった。
俺は、その奇跡のような一瞬を狙っていたが、確信はなかった。
地面を転がるようにして、男から距離を取る。
数メートル後方で体勢を立て直した俺が見たのは、武器を失い、油でぬるぬるになった自らの右手を、信じられないという目で見つめるリーダーの男の姿だった。
「てめえ……今の、なんだ」
その瞳は、もはやただの獲物を見る目ではない。
得体の知れない「何か」を警戒する、狩人の目に変わっていた。
「さあな」
俺は額から流れる汗を手の甲で拭いながら、不敵な笑みを浮かべた。
「言っただろ。俺は、ギャンブラーだ、ってな」
「ふざけた真似を……!」
リーダーの男――グレンは、木の幹に突き刺さった戦斧を一度だけ忌々しげに睨めつけた。
だが、彼はすぐにはそれを取りにいかなかった。
代わりに、その巨大な両の拳を、ゴキリと鳴らす。
そして、その傷だらけの顔に、獰猛な笑みを浮かべた。
「武器がなきゃ、戦えねえとでも思ったか? ガキ」
次の瞬間、彼の巨体が再び地面を蹴った。
戦斧を手にしていた時よりも速い。
左右に巧みにフェイントを入れながら、俺との距離を一気に詰めてくる。
(まずい!)
俺は咄嗟に、ストックから(N【ボロ切れの布】)を数枚、俺と奴との間に具現化させた。
ひらひらと舞い落ちる、ただの布きれ。
だが、それはほんの一瞬だけ、奴の視界を確かに遮った。
「小賢しい!」
グレンは、その布を腕の一振りで薙ぎ払う。
だが、俺はその刹那の時間を稼げれば十分だった。
俺は、奴が布を薙ぎ払うのと同時に、後方へと大きく跳躍し、距離を取る。
そして、着地と同時に、最後の罠を仕掛けた。
まず、自分の手前からグレンへと続く、幅1メートルほどの一本の獣道に、ストックから数本の(N【汚れたロープ】)を腰の高さに何本も張り巡らせた。
横への回避を封じ、一本道へと強制的に誘導するための罠。
「そんな子供騙しが、通用するかよ!」
グレンは、俺の意図などお構いなしに、ロープをその剛腕で引きちぎりながら、獣道の上を一直線に突進してくる。
だが、それでいい。
彼が目の前の障害物に意識を奪われる、その一瞬。
それこそが、俺の狙い。
奴が最後のロープを引きちぎり、俺に止めの一撃を叩き込もうと大きく踏み込んだ、その瞬間。
俺は、彼のちょうど一歩先の地面に、最後の切り札を具現化させた。
ガチャ産の(N【磨かれた小石】)の袋。
それを、奴の足元にぶちまけた。
「なっ!?」
勢いよく次の一歩を踏み出したグレン。
その全体重がかかった足の裏で、彼は固い地面ではなく、予測不能に転がる無数の滑らかな球体を踏みつけた。
「ぐ、おわっ!?」
巨体がバランスを失い、大きく前のめりに体勢を崩した。
その、千載一遇の好機。
(今、だ!)
俺は、そのがら空きになった足元に滑り込むように、鋭い足払いを叩き込んだ。
体勢を崩していたグレンは、なすすべもなく、その巨体を地面に叩きつけられる。
うつ伏せに倒れ伏し、完全に無防備なその背中が晒された。
俺は、その千載一遇の好機に、全神経を集中させた。
ストックから、最後の、そして最大の「ゴミ」を取り出す。
それは、好事家がどこで拾ってきたのか、見栄えだけは立派な、しかし何の価値もない、(N【巨大な陶器の壺】)。
俺は、それを倒れたグレンの後頭部の真上、高さ5メートルの空中に具現化させた。
そして、ただ一言、呟く。
「――チェックメイトだ」
巨大な壺は、重力に従って落下する。
狙いは寸分違わず、グレンの後頭部。
ゴシャァァン!!!
壺が派手な音を立てて砕け散った。
グレンは、短い呻き声を一つ残すと、そのまま動かなくなった。
【ガチャポイントを、300pt、獲得しました】
(300……!? さっきまでの雑魚と合わせても、まだ755ポイント。1000には、まだ、足りない……!)
俺は、その場にへたり込んだ。
勝った。だが、課題はクリアできていない。
俺は倒れたグレンを見下ろした。
今、この無防備な男にとどめを刺せば、ボーナスポイントでおそらく1000ポイントは優に超えるだろう。
(人を殺してまで、手に入れる力。それは、本当に、俺が望んだものなのか?)
違う。
絶対に、違う。
俺は、剣に手をかけなかった。
別の方法を探すんだ。
たとえ、この課題に失敗して、ボールスさんに見放されようとも、この一線だけは、越えちゃいけない。
俺が、そう覚悟を決めた、その時だった。
「……ぐ、ぅ」
倒れていたはずの、グレンの呻き声。
彼が、ゆっくりと、その巨体を起こそうとしていた。
俺の一撃は、致命傷にはほど遠かったらしい。
「て、めえ……」
血走った目で俺を睨みつけるグレン。
その手が、腰の鞘に収まっていた一振りの短剣へと、ゆっくりと伸びていく。
「しまっ……」
俺が剣を構え直すよりも早く。
意識を取り戻したグレンが、獣のような雄叫びを上げ、最後の力を振り絞って俺に覆いかぶさるように飛びかかってきた。
その手には、抜かれた短剣が鈍い光を放っている。
避けられない。
死。
その、あまりにも絶対的な感覚が、俺の全身を支配する。
思考じゃない。
もはや、それは、生き残るための、本能だった。
俺は、無我夢中で、腰に差していた護身用の短剣を、ただ前に突き出していた。
ブスリ、と。
肉を貫く、生々しい感触。
「……ごふっ」
俺に覆いかぶさってきた男の動きが、ぴたりと止まった。
俺の短剣は、彼の胸のど真ん中に深々と突き刺さっていた。
彼の「信じられない」という顔が、目の前にある。
そして、その口から、大量の血がゴボリと吐き出された。
熱い飛沫が、俺の顔にかかる。
【ガチャポイントを、800pt、獲得しました】
俺は、崩れ落ちる巨漢を支えることなく、その後ろへとよろめいた。
顔にかかった、生温かい鉄の匂いのする液体。
そこに、どんな表情が浮かんでいたのか、俺自身にも分からなかった。
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