第2話:大仏

 冒頭に述べた、局面の難解さ以上に相手よりも持ち時間を多く消費しているという事態に澤出は戦慄していた。それは---対局相手についた多くの裏の異名だった---「オの奈良」「この頃少し変よツトム君」「鉄便ツトム」。すべては無尽蔵に放出されるオナラにまつわるものだった。大抵は、完璧な無音でのスカシが武器になる。将棋の対局は順位戦ともなると6時間ずつの持ち時間で昼食&夕食休憩も挟み、終局は時に深夜にまで及ぶこともある。そんな中でも、一日中、スースー、スースー出し続けるのである。オナラマラソンという競技が五輪にあれば、金メダル間違いなしだろうとの推測は、もちろん奈良が居ない場所での棋士仲間での下馬評であった。昼食 & 夕食での喫食すら、オナラエネルギーの充填としてしか考えていないのではないか?との分析すらある。特に大事な対局の時ほど、ニンニク入り焼肉弁当などを食べ、ニオイがキツくなるものを摂取している傾向があり、本人も一つの武器として最近はむしろ積極活用しつつあるのではないかとの邪推もされていた。また、名前が奈良というだけあって、無音で強烈なのをても、大仏然として顔は至って顔で顔色ひとつ、眉一つ動かさないのだという。したがって、対局相手は、油断して無警戒状態のところで鼻孔がゲリラ的強襲を喰らうことになる。まぁ、例えて言えば、王様を全く囲っていないところでいつの間に取ったのか分からない「香」で王手を喰らうようなものである。最も、これも棋士の仲間うちでは、「香」ならどれだけいいことか、将棋にいつの間に「臭」っていう駒が出来たんだ?と半ば笑い話、半ば真剣なクレームを酒の席で負かされた棋士たちがボヤくのである。しかも、年々、その戦略性と戦術性が研ぎ澄まされてきているというのである。対局と言っても、すべてが中継されるわけではない。中継対局の場合は、終始一貫して無音のスカシなのだという。しかし、テレビカメラの入らない対局などでは、終盤の秒読みの緊迫した場面で、普段は微動だにせずに放出しているくせに、わざと大きく片尻を上げてみたかと思えば、出さずに、安心して止めていた呼吸を再開したタイミングでスカす時間差攻撃や敢えて音付きオナラを自分があと残り5秒以内に指さないといけないようなタイミングで音付きブッパを差し挟んでくるなど、自在のコントロールと戦術性を近年高めており、タイミングや音の出し入れなどの使い分けバリエーションが増しているというのである。例えて言えば、バレーボールでのAクイック、Bクイック、時間差攻撃、ツーアタックにフェイントと常に相手あらゆる攻撃に備えて神経を研ぎ澄ましていなければならない状態であった。したがって、対奈良戦は、棋風や最新定跡の研究に加え、対オナラ対策にも気を使わなければならなかった。棋士は攻めと守り、両方の手を読まなければならないが、いつ放出されるか分からないオナラの直撃弾を受けないか、特にその警戒で思考量が半分ぐらいになってしまうのに加え、嗅いでしまったら、確実に数秒間は思考などできないクサさなのである。というわけで、棋士仲間の間では、奈良勉と対局する際は、相手よりも決して持ち時間を消費して、先に秒に追われる1分将棋に入ってはならない、という鉄則があった。ちなみに、「この頃少し変よツトム君」は、終盤の秒読み1分将棋に突入すると、急にモゾモゾしたり、片尻上げる仕草でリアル放出かフェイク放出か分からない動きで陽動作戦を仕掛けてくる様を「山口さんちのツトム君」の替え歌と掛けて出来た異名であるし、「鉄便ツトム」は希少な金などと違って豊富に採掘できる埋蔵量を誇る鉄と、空を超えてラララやってくる「鉄腕アトム」を掛け、無尽蔵かつ放たれたと思ったら音がしないのに音速で空中を漂い突き進んでくる様からつけられたニックネームだとのことである。


 一方、澤出 香澄 七段は凛とした美しさを誇り、棋風はバランス型。どんな将棋にも対応出来る柔軟性が持ち味。ちなみに、オナラは人前でなどまずやったことがない。7年前に一度、父親と家の中でぶつかった際にプリッと出てしまったのを家族に聞かれたことがあるかないかぐらい。したがって、棋士の仲間内では、ゴジラ対メカゴジラではないが、名前を文字って大一番の本対局を「オナラ奈良 対 さわやかサワデー澤出」と囁いていた。

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