救世に関する三篇

 あなたさえ幸せなら、それだけでいい。そう思ったことがあった。

 息を吐いて、手のひらを擦る。白く滲んだ吐息は冷たい空気に溶けてすぐに消え去った。

 愛していた、愛している、愛おしい。それは何一つ嘘ではないのに、どうにも心が置き去りにされてしまっているようで。

 たとえば、隣で笑っていてくれたならば、ずっと笑っていてほしいなと思うのだろう。たとえば、どこかで泣いているのならば、その涙を止めるためなら何でもできるとも思おう。けれど、物理的に開いてしまった距離がすべての邪魔をする。


 世界を救いに行かれるのですね。頑張ってください。剣を握って駆け出したあの人は、どこまでも遠く遠くへと向かっていく。

 残念ながら、その隣に私の居場所はない。必ず帰る、という言葉すら今は果てしない。だというのに、想いは消えない。心のなかで白く滲み、溶けていく。


 お帰りをお待ちしております。喉奥で呟いてから、空を見上げた。割れた空。欠けた日常。いずれ訪れる崩落。

 あなたが世界を救えなくても、最後まで一緒にいられればよかったの。

 言えなかった言葉をまた、肺の奥底で潰して。目を伏せた。明日はきっと雪が降る。



 遠くに置き去りになった過去を思い出す。その真ん中で静かに笑う顔がちらついて、足が止まった。

 空を見上げる。赤く赤く染まった空の色は、故郷とは似ても似つかないものだ。あの場所はいつも静かで、どこか透明な空気が漂っていた。

 空は鈍色の時が多く、雨やら雪やらが多い土地で。彼女はたまに、洗濯物が乾かなくて困ると愚痴を吐いていた。琥珀色の瞳は、どこまでもただ透明で。ああ、故郷というものはすべて、あの人の空気をまとっていたのだと今になって気がつく。


 握り締めた剣は重い。世界を救う、だなんてできるだなんて本当は思わなかった。今でも、まだ半信半疑だ。

 ……それでも、歩む理由だけは消えないでいる。

 あの人が、君が、ただ変わらずに笑える世界がよかった。昨日と同じ明日が欲しかった。本当にそれだけが大事で、そのためにこんなにも遠くまで来てしまったに過ぎない。

 本当のことを言えば、君は笑うのだろうと思う。困ったように、静かに、降り積もる雪のように。だったら、ずっとここにいてくれればよかったのに。みたいな言葉を吐くのだろう。想像は容易い。

 けれど、欲しいものはいつか終わるものではないのだ。

 帰ったら、君に伝えたいことがある。帰ったら。帰ることができたら。……それがいつになるのか。そんな日が訪れるのか。冷静な自分が脳裏で問いかける。

 答えは出ない。

 それでも、まだ足は止まらない。


 頬を、白く小さな煤が掠めていく。雪のようだな、と思ったけれど。それは溶けずに残り続けた。



 嘘つき、普通の人間なんかじゃないくせに。と吐き捨てそうになった口を閉ざした。

 雪が降るたびに、あの勇者さまはどこか遠いところを見るような目になる。懐かしむような、慈しむような、愛おしむような。どこまでもどこまでも、ただ柔らかで優しい表情を浮かべるのだ。

 人間みたいな顔するなよ、と言いたくなるのを堪えてただ杖を握る。回復魔法はうまくなった。腕が千切れとんでも元通りにできるくらいには、習熟した。

 ひとかどのもの、なんて程度ではなく。間違いなく歴史上類を見ないほどに素晴らしい治癒術師だなのだ、私は。自覚はある。彼もまた、そう言ってくれた。


 それでも、私にあるのは能力だけなのだ。治癒術という力が人の形をして歩いている、とまで思われていそう。人格ではなく、能力と成したことばかりが評価になる。

 私が何を好んで、何を嫌がって、何のために歩いているのか。人は知らない。知ろうともしない。

けれど、それで構わなかった。

 ねえ勇者さま。あなたも同じだったでしょう。

 泣かず、笑わず、怒らず、ただ静かに歩み続ける人。何一つ大事なものなんてなくて、ただ力があるから世界を救おうとしただけの人。そのはずだったでしょう。


 人間じゃなくて、勇者さまという存在。治癒術師でしかない私とおそろい。

 そうだと思っていたのに、彼は雪を見たときに人間みたいな顔をした。それを皮切りに、勇者さまは人間になっていく。私を置き去りにして、心があって何かを好んで何かを求めるような。そんな、どこにでもいるような存在に成り果てていく。


「……もうすぐ、旅が終わる」


 ああ、永遠にこうして歩いていたかった。世界なんて救われなくてよかった。私という存在が必要とされるだけで、よかった、のに。


「終わったら、……幼馴染にプロポーズをするんだ。……置き去りにしてしまったから、まずは怒られそうだけどさ」


 そんな、手垢のついたハッピーエンドなんて語らないで。なんて、口には出せないまま。ただ、彼の擦り傷を治してあげた。それだけだった。

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