ライナスの原罪
ライナスの毛布、と言うらしい。幼児が何かに執着し、抱きしめ、そばに置くもの。そうしなければ生きていけないとでも言うように、必死に手を伸ばすもの。毛布を抱きしめて眠る姿は愛らしく思うのに、その裏側に切実さが残るのならば。見た目だけで、それを愛しいと思うことは原罪に近しいとも思う。
「ねー、むれ、ねむれ、よいこ……」
調子外れの子守唄は、ひどくよそよそしく口から零れ落ちた。毛布に縋りつき胎児のように体を丸める人に、拙い子守歌を歌って見せれば。その幼い顔が、ふにゃりとした笑みを描いた。
まるで、世界のすべての幸福がそこにあるみたいに。目を細めて、子守歌を続ける。歌ってもらったことがないから、正しさが分からない。正しい形が分からない。それでも、歌うこと自体に意味があると思ったのだ。
この子に子守歌を歌ってくれる人はいなかった。私にも、また。だからこそ、私とこの子は同じ孤独を背負い、同じ痛みを抱えて生きていけるはずだったのだ。
父も、母も。人を愛するのが下手な人だったから。私はこの子と互いに寄り添い、愛し合うことができるはずだった。それが不可能だったのは。しなかったのは。ただ、両親が私たちを捨てたあの日。私は母方の祖父母に引き取られ、この子は父方の祖父母に引き取られた。それだけの違いだった。それまでは、同じように生きてきた。
引き取られた先の違い一つですべての運命が変わってしまったことを、悲劇などという一言では収めきれない。この子に起こったことすべてを、私は知らない。知らないことは罪悪だ。のうのうと、幸福に、両親よりも優しい祖父母によって癒やされながら生きてきた私に。……傷だらけの服の下が。夜の帳が下りただけの暗闇にさえ怯える姿が。何よりも、何よりも。
同じだったはずの貌にある、大きな火傷の跡が。それは罪なのだと、突きつける。
同じ日に生まれ、同じ血を持ち、同じような心で生きていた。あの日、私達を引き裂いた世界が、二度と埋まらない断絶を突きつける。
毛布を撫でているとは反対の手を、強く握り締める。爪が食い込み、手のひらを生温い液体が濡らす。きっと、赤く染まっている。気を使っていたネイルも、血濡れだ。構わない。痛みがほしい。罰がほしい。
罪悪に相応しい、審判を下してほしい。
「……ね、……あのね」
知らぬ間に、時間は経つ。朝が近い時間。空が、深夜よりも少しだけ藍を滲ませた色に変わる頃。その人は薄らと目を開けた。寝ぼけたような、あるいは世界と自分の間に幕を下ろすような。どこか、何もかもを遠くに置いた瞳で。その人は。
「ごめんね、おね、ちゃん」
私の双子の妹は、謝罪を口にした。……夜中、少しの時間だけ、この子は正気に戻る。ずっと赤子のように寝たり泣いたりを繰り返しているというのに、正気に戻ってしまう。かわいそうに、という言葉を喉奥で潰した。哀れむ権利はない。私に罪はなくとも、同情する権利もない。私はこの子に何もしなかった。何もしてあげられなかった。
……原罪だ、と思う。無知とは罪だ。知らずに、何もしなかったことは。林檎を食べる前の人間が持つような、原罪だ。だから、笑う。安心させるために。もう、その安心してほしいという気持ちすらも、誰のためなのかわからないけれど。
「大丈夫、……大丈夫だよ」
同い年の。成人した、赤子の目を手で覆う。
赤子の頃に帰れば、同じ命に戻れると。お姉ちゃんと一緒がいい、と泣いたことを覚えている。この子がそれを望むなら、構わない。ただ、もう同じには戻れない。私の気が触れてくれることはない。
「おやすみなさい、……まだ、現実は見なくていいから」
そう言い切る前に、赤子のように戻ったその人は泣き出した。あやすように抱きしめながら、窓の外を見る。
空は、白んでいた。朝焼けは、赤よりも白に近い色で。無垢な色で。私の罪を、見つめ続ける。
同じ傷が欲しかった。あの朝焼けが私の顔を焼いてくれれば良かったけれど。そうはならない。少し眩しいだけだった
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