余熱

 ミロのヴィーナスは、両腕が欠損しているがゆえに、人々の想像力をかきたてて世界的な名作となった。不在の事実は、人間の脳内で鳥になる。雲の上にある世界に向かって羽ばたく、夢という名のついた鳥。

 午前八時五分前、桐月女子校前行のノンステップバスを待つ三ツ角バス停留所で、手を開いたり閉じたりする。三日ぶりの晴れを喜ぶホオジロのチチッという鳴き声が首元を撫でたことで、産毛を剃り忘れたことに気付く。昨夜、弟が腕の毛を剃っていたことを思い出す。デートがあるらしい。

 濃紺をしたバスが、大袈裟に揺れながら近付いてくる。誰かに慰めてもらいたいのかもしれない。サイダーの蓋を開けたようなブレーキ音がしてから、緩慢にドアが開く。男子生徒が十人ほど降りる。近くにある男子校の最寄りがここ三ツ角だからである。ここから乗車するのは、私しかいない。

 通り過ぎていく学ランのうちの、一際背が高い男に目を向ける。言葉はかわさないし、私は彼の声を知らない。知らないほうが、いい。

 バスに乗り込んで、ICカードをタップし、階段をあがってすぐの吊革を掴む。微睡のような体温を手に感じて、歓びに痙攣する肺から息を吐く。この吊革は、彼の定位置だった。背が高いから、階段をのぼらずに下からこの吊革を握るとちょうどよいのだと、半年の観察で学んだ。

 運転手が呪文を唱えると、バスが動き出す。

 今日の彼は、この吊革に体重を預け、何をしていただろうか。スマートフォンを取り出す。きっと彼は大きくて骨ばった手に似つかわしい黒のiPhoneProを握力を確かめるように握って、SNSか、流行りのサッカーゲームをしているだろう。

 目を瞑ると、自分の手足が伸びて、呼吸が低い振動に変わってバスの走行音と共鳴し始める。知っていることより、知らないことのほうがずっといい。可能性の翼は、いつだって私に優しい。

 彼の体を夢想しながら、吊革に残る、かすかな温度を抱く。神様がいた時代は動いていたという、彫刻にはめ込まれた心臓の小さな熱を。

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