第二話「魔王、コピー機と戦う」
午前9時。オフィス。
「玄野さん、これお願いできる?」
若手社員の田村が、厚い書類の束を玄野のデスクに置く。
「会議資料、50部コピーして。10時までに」
「50部…?」
「うん。頼んだよ」
田村はさっさと自分の席に戻る。
玄野は書類を見る。厚さ5センチはある。
『…コピーだと?』
魔王時代、そんな作業は全て配下に任せていた。
いや、そもそも「コピー」という概念すらなかった。
『くだらん…』
でも、やるしかない。
玄野は重い腰を上げ、コピー機の前に立った。
コピー室。
オフィスの隅にある、薄暗い部屋。
そこに鎮座するのは、大型のコピー機。
玄野はそれを睨みつける。
『…機械か』
魔王時代、魔法陣さえあれば、書物は複製できた。
だが今、魔力はない。
あるのは、この無機質な機械だけ。
「えーと…」
玄野は恐る恐る、原稿をセットする。
ボタンがたくさんある。どれを押せばいいのか。
「部数は…50か」
数字を入力。
「よし…」
スタートボタンを押す。
ウィーン…
機械が動き出す。
最初の数枚は順調に出てきた。
「…ふん、簡単ではないか」
その瞬間。
ガガガガッ!
異音と共に、機械が止まる。
画面に赤い文字。
『紙詰まり』
「…何?」
玄野は画面を睨む。
『紙詰まり…?貴様、私に逆らうのか…?』
10分後。
玄野は汗だくになっていた。
マニュアルを見ながら、機械のカバーを開ける。
中には、ぐちゃぐちゃに詰まった紙。
「くそ…取れん…」
力任せに引っ張る。
ビリッ!
紙が破れる。
「ぬぅ…!」
『この私が…こんな機械ごときに…!』
プライドがズタズタになる。
その時。
「玄野さん、大丈夫っスか?」
田村が覗きに来た。
「あ、ああ…大丈夫だ」
「マジで?顔、真っ赤っスよ」
田村は笑いを堪えている。
玄野の耳が熱くなる。
『笑うな…笑うなァ…!』
「あ、それ、引っ張っちゃダメっスよ。ここのレバーを…」
田村がひょいと手を伸ばし、レバーを操作する。
スルッと紙が取れる。
「ほら、簡単っしょ?」
「…ああ」
「じゃ、頑張ってくださいね」
田村は笑いながら去っていく。
玄野は一人、コピー機の前に残される。
『…屈辱だ』
30分後。
玄野はまだ、コピー機と格闘していた。
何度やっても、紙詰まりが起きる。
「何故だ…何故動かん…!」
玄野は機械を叩きそうになる。
『落ち着け…これは魔王の威厳の問題ではない…ただの機械だ…』
深呼吸。
もう一度、マニュアルを読む。
「用紙の種類…トレイの選択…」
一つ一つ、確認していく。
そして、ようやく気づく。
「…用紙のサイズが、違う…?」
A4とA3を間違えていた。
「…そういうことか」
玄野は正しい用紙をセットし直す。
スタートボタンを押す。
ウィーン…
今度は、順調に動き出した。
「…ふ」
玄野は小さく息を吐く。
『勝った…いや、違うな。これは勝利ではない。ただ…』
ただ、機械の「仕組み」を理解しただけだ。
力で押し切ったのではなく。
『…なるほど』
その時、背後から声。
「玄野さん、苦労してますね」
振り向くと、黒田部長が立っていた。
「く、黒田部長…」
「いえいえ、大丈夫です。慣れないことは、誰でも時間がかかります」
黒田は穏やかに笑う。
「グラ…いえ、黒田部長は、コピー機など…」
「ええ、最初は私も苦労しました」
黒田はコピー機を見る。
「機械というのは、正直なんですよ」
「正直…?」
「ええ。丁寧に扱えば、ちゃんと応えてくれる。乱暴に扱えば、壊れる」
黒田は玄野を見る。
「人間も、同じですね」
「…っ」
玄野は何も言えない。
「では、お仕事頑張ってください」
黒田はそう言って、去っていく。
玄野は一人、コピー機の前に立ち尽くす。
『…丁寧に、か』
魔王時代、そんなことを考えたことはなかった。
力で従わせる。それだけだった。
でも今は、違う。
『…くだらん』
呟きながらも、玄野は少しだけ、機械の扱いが丁寧になっていた。
昼休み。屋上。
玄野はいつもの場所で、コンビニ弁当を食べている。
疲れた。
たかがコピー、されどコピー。
『魔王が…コピー機に勝利して喜ぶなど…』
自嘲的に笑う。
その時。
「よう」
聞き覚えのある声。
振り向くと、勇樹が立っていた。
「…勇樹か」
「また会ったな。ここ、お前の定位置?」
「…まあな」
勇樹は隣に座る。
二人、無言で弁当を食べる。
風が吹く。
「なあ、玄野」
勇樹が口を開く。
「お前さ、強そうだよな」
「…何を言って」
「いや、目がさ」
勇樹は空を見上げる。
「戦ってきた奴の目してる」
玄野の心臓が跳ねる。
『…気づいているのか?』
「俺もそうだったんだ。昔は」
勇樹は自嘲気味に笑う。
「毎日が戦いでさ。命懸けで」
「…」
「でも今は、こんなもん」
勇樹はコンビニ弁当を指す。
「398円の弁当が、贅沢に感じる人生」
玄野は何も言えない。
なぜなら、自分も同じだから。
「なあ、玄野。お前、前は何やってたんだ?」
「…言えない」
「そっか」
沈黙。
「俺もだ」
勇樹は立ち上がる。
「またな」
「…ああ」
勇樹は去っていく。
玄野は一人、空を見上げる。
『…あの男も、何かを背負っているのか』
夕方、6時。帰宅電車。
玄野は疲れ切った顔で、電車に揺られている。
満員電車。息苦しい。
その時、玄野の目に光景が飛び込んでくる。
優先席に座っている若い男。
その前に、杖をついた老人が立っている。
若い男はスマホを見ている。気づいていないのか、気づかないふりなのか。
玄野の中で、何かが沸き上がる。
『…無礼者め』
魔王時代なら、即座に処刑だ。
でも今は…
玄野は何もできない。
ただのおっさんだ。
『くそ…』
歯噛みする。
その時。
「どうぞ」
声が聞こえた。
見ると、勇樹が老人に席を譲っていた。
「ありがとう、若いの」
「いえいえ」
勇樹は自然に笑う。
玄野は、それを見ている。
『…あの男は』
力があるわけではない。
魔法が使えるわけでもない。
ただ、席を譲っただけ。
でも、老人は感謝している。
『…これが、人間か』
玄野は、何かを考え込む。
夜、9時。安アパート。
玄野は布団に横たわり、天井を見つめている。
『…あの男(勇樹)は、変わったのか?』
魔王時代、勇者は正義を振りかざし、多くの魔物を殺した。
冷酷で、容赦がなかった。
でも今日見た勇樹は…
『…優しかった?いや、違うな』
ただ、人間らしかっただけだ。
『では、私は?』
玄野は自分の手を見る。
『私は…何も変わっていない。ただ、力を失っただけだ』
そう思う。
でも。
心の奥で、小さな疑問が芽生えている。
『…本当にそうか?』
コピー機を、丁寧に扱った自分。
黒田の言葉に、反論できなかった自分。
勇樹の行動を見て、何かを感じた自分。
『私は…』
玄野は目を閉じる。
答えは、まだ出ない。
でも、確かに何かが動き始めている。
魔王クロノスの心の中で。
翌朝、6時30分。
目覚ましが鳴る。
「…うるさい」
玄野は目覚ましを止める。壊さずに。
鏡を見る。
相変わらず、冴えない顔。
「…行くか」
スーツに袖を通す。
そして、玄野進は今日も、満員電車に揺られる。
昨日より、ほんの少しだけ。
前に進むために。
次回、第三話「魔王、居酒屋で愚痴る」
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます