元魔王ですが満員電車に揺られています
桐島灰児
第一話「魔王、満員電車に揺られる」
## 朝、6時30分。
安アパートの一室で、目覚ましのけたたましい音が響く。
「…うるさい」
布団の中から腕が伸び、目覚まし時計を叩く。しかし止まらない。
「黙れと言っているのだ!」
ガシャン。時計が壁に叩きつけられ、ようやく静寂が訪れる。
玄野進、42歳。薄汚れたTシャツに無精ひげ。冴えない独身中年男性である。
だが。
この男は、かつて世界を恐怖に陥れた魔王クロノスだった。
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玄野は鏡の前で、自分の顔を睨みつける。
「…信じられん」
皺だらけの顔。薄くなった髪。垂れた腹。
100年前、魔王として君臨していた頃の面影は、どこにもない。
『なぜだ。なぜ私がこんな…』
転生してから5年。いまだに現実を受け入れられない。
魔力はゼロ。身体能力も人間の平均以下。
かつて一睨みで人を殺せた男が、今は階段を上るだけで息切れする。
「…くそ」
舌打ちして、玄野はヨレヨレのスーツに袖を通した。
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## 通勤電車、7時45分。
満員電車に押し込まれる玄野。
周りはスマホを見ている人間ばかり。誰も彼を見ない。
『この私が…こんな家畜のような扱いを…!』
魔王時代なら、部下がひれ伏して道を開けた。
今は、若い女性に舌打ちされ、サラリーマンに肘で押される。
「すみません、降ります」
玄野は言葉を絞り出す。プライドが邪魔をして、「すみません」が喉に引っかかる。
『魔王が…謝罪だと…?』
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駅を降りて、オフィス街を歩く。
灰色のビル。灰色の空。灰色の人々。
魔王城の荘厳さはどこにもない。
「おはようございまーす」
小さな声で玄野は言う。
社内は既に活気づいている。若い社員たちが忙しそうに動き回る。
誰も玄野に気づかない。
玄野は自分のデスクに座る。端っこの、窓際の席。
『…万年平社員。何という屈辱』
パソコンを立ち上げる。メールが山のように溜まっている。
「玄野さん、昨日の資料まだ?」
若い女性社員が声をかける。
「あ、ああ…すぐに」
『貴様ごときが私に命令を…!』
心の中で叫ぶが、表には出さない。出せない。
なぜなら玄野進は、ただの平社員だからだ。
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## 午前10時。会議室。
「では、今月の売上報告を」
部長の声。
玄野は資料を配る。雑用係だ。
『私が…雑用だと…!』
かつて配下の魔物たちに命令していた男が、今はコピー機と格闘している。
「玄野さん、これ間違ってるよ」
若手社員に指摘される。
「す、すまない…」
『貴様を八つ裂きに…いや、違う。我慢だ。我慢…』
玄野は拳を握りしめる。
その時。
「玄野、大丈夫か?」
声をかけてきたのは、部長の黒田竜一。48歳。厳つい顔だが、部下思いで有名な男だ。
「あ、はい。大丈夫です」
「そうか。無理するなよ」
黒田は優しく笑って、玄野の肩を叩く。
その瞬間、玄野は気づいた。
『…この気配は…!』
黒田の目が、一瞬だけ、何か別の色を帯びる。
まさか。
『黒竜の…グラム…?』
魔王軍四天王の一人。黒竜のグラム。
玄野の最も信頼していた配下が、今、自分の上司として目の前にいる。
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## 昼休み。屋上。
玄野は一人、コンビニ弁当を食べている。
『信じられん…グラムが…人間に…?』
頭が混乱する。
そして、恐怖。
『もし、他にも転生している者がいたら…』
勇者は?勇者パーティーは?
『勇者が…もし、今の私を見つけたら…』
力のない今の自分では、何もできない。
「よう」
突然、声をかけられる。
振り向くと、見知らぬ男。40代前半、疲れた顔のサラリーマン。
「あんた、玄野だろ?営業二課の」
「…ああ」
男は隣に座る。
「俺、勇樹英雄(ひでお)。総務にいる。よろしくな」
「ああ…」
勇樹と名乗った男は、缶コーヒーを差し出す。
「新入りか?見ない顔だから」
「いや、もう5年になる」
「マジで?気づかなかった。悪い」
勇樹は気さくに笑う。
でも、玄野は気づいた。
この男の目。
勇者の目だ。
『まさか…』
「なあ、玄野」
勇樹は空を見上げながら言う。
「あんた、前は何やってたの?」
「…特には」
「そっか」
沈黙。
「俺はさ」勇樹が呟く。「昔、もっと輝いてたんだ。ヒーローみたいにさ」
玄野の背筋に冷たいものが走る。
「でも今は…ただの冴えないおっさん」
勇樹は自嘲気味に笑う。
「人生って、残酷だよな」
「…ああ」
玄野も、空を見上げる。
青い空。平和な空。
かつて、この空の下で戦争があった。
そして今、元魔王と元勇者が、同じ会社の屋上で、缶コーヒーを飲んでいる。
「じゃ、また」
勇樹は立ち去る。
玄野は一人、残される。
『…なんだ、これは』
笑いたいのか、泣きたいのか、自分でも分からない。
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## 夕方、6時。
「お疲れ様でしたー」
社員たちが帰っていく。
玄野も帰り支度をする。
「玄野さん」
黒田が声をかける。
「少し、いいか?」
会議室に呼ばれる。二人きり。
沈黙。
そして、黒田が口を開く。
「…お久しぶりです。クロノス様」
玄野の心臓が跳ねる。
「や、やはり…グラム…!」
「ええ」黒田は穏やかに笑う。「転生後も、貴方を探していました」
「何故…何故貴様が私の上司などに…!」
「偶然ですよ。いえ、運命かもしれません」
黒田は椅子に座る。
「クロノス様。この5年、お辛かったでしょう」
「…黙れ」
「ですが、これも必要なことです」
「必要?何がだ!」
玄野は叫ぶ。
「私は魔王だったのだぞ!それが!この様など!」
「ええ。貴方は魔王でした」
黒田は静かに言う。
「何万もの人間を殺し、世界を恐怖に陥れた」
「…っ」
「でも、今の貴方は違う。ただの人間です」
「だから何だ!」
「だから」黒田は真っ直ぐ玄野を見る。「生きてください。人間として」
「…何を言って…」
「クロノス様。貴方にはまだ、やるべきことがあります」
「やるべきこと…?」
「ええ」
黒田は立ち上がる。
「明日の会議資料、お願いしますね。玄野さん」
そう言って、黒田は出ていく。
玄野は一人、会議室に残される。
窓の外は、もう暗い。
ビルの灯り。車の音。人々の声。
平凡な日常。
『…やるべきこと、か』
玄野は自分の手を見る。
魔法も使えない。剣も握れない。
何の力もない、ただの手。
「…くだらん」
呟いて、玄野は会社を出る。
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## 夜、9時。安アパート。
カップ麺をすする玄野。
テレビでは、お笑い番組。
「…つまらん」
チャンネルを変える。ニュース。事件。事故。
「人間どもは相変わらず愚かだな」
独り言を言って、玄野は笑う。
でも、その笑いは空虚だ。
『私は…これから、どうすればいい?』
魔王でもない。
勇者でもない。
ただの、冴えないおっさん。
「…くそ」
玄野は布団に倒れ込む。
天井を見つめる。
『明日も…会社か』
満員電車。会議。コピー機。
考えただけで憂鬱になる。
でも、行くしかない。
なぜなら、それが今の玄野進の「戦場」だから。
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## 翌朝、6時30分。
また目覚ましが鳴る。
「…うるさい」
でも今日は、壊さずに止める。
「…よし」
玄野は起き上がる。
鏡を見る。相変わらず冴えない顔。
「…行くか」
ヨレヨレのスーツに袖を通す。
そして、玄野進は今日も、満員電車に揺られる。
元魔王として。
そして、一人の人間として。
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**次回、第二話「魔王、コピー機と戦う」**
(つづく)
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