続・小生さんがゆく。
釜瑪秋摩
第1話 休日のモーニング物語
小生の名は、
休日の朝は、何を食べるかで一日の調べが決まる。
そして今朝、小生を呼んだのは――駅前の純喫茶であった。
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日曜の朝八時半。
いつもよりゆっくり目に起きた小生は、台所の流しに積まれた食器を一瞥し、即座に自炊を放棄した。
「休日にまで鍋を振るうのは、人生に対する冒涜である……いや、ただの怠慢なのだが」
平日は朝六時に起き、満員電車に揺られ、会社で書類と格闘する。
その繰り返しの中で、小生は休日の朝だけは自分を甘やかすことにしている。とは言え、洗濯機だけはしっかりと回しておく。
散歩がてら駅前まで歩く。
目的はただ一つ。純喫茶のモーニングだ。
秋の朝の空気が心地よい。
平日のこの時刻であれば、小生は既に電車の中である。
しかし今日は違う。誰に急かされることもなく、ゆっくりと歩ける。
この自由こそが、休日の贅沢なのだ。
駅前の雑居ビルの二階。
『喫茶 コロンボ』という看板が、色褪せながらも誇らしげに掲げられている。
この店は昭和四十年代から営業しているという。
チェーン店のカフェが次々と駅前を占拠し様変わりしていく中、この店だけは頑なに昔の姿のまま佇んでいる。
まるで時代に取り残された船のように。
だが小生は、この船に乗りたいのだ。
階段を上り、店先のガラス越しに中の光景がちらりと見える。
分厚いカーテン、木のテーブル、新聞を広げる常連客。
入り口のドアを押すと、カラン、とベルの音が鳴った。
中はまるで昭和の時間が瓶詰めにされたような世界。
壁の時計がカチコチと律儀に時を刻み、店員のエプロンは少し色褪せている。
BGMは静かなジャズ。誰かのサックスが、朝の空気に溶けていく。
「うむ……ここは時の流れに抗う小宇宙だ」
あの番組の彼も、きっとこういう店を好むであろう。
チェーン店にはない、店主の哲学が染み込んだ空間。
一人で訪れるには、最適な聖域である。
「モーニングをひとつ」
小生はカウンターに腰を下ろし、短く注文する。
返ってくる「はいよ」という声が、朝の空気に心地よく響いた。
しばし待つ間、他の客を眺める。
窓際には新聞を広げる初老の紳士。
恐らく小生より十歳ほど年上であろう。
ゆっくりとコーヒーを啜りながら、社会面に目を通している。
カウンターの端には文庫本を読む学生風の青年。
小生が二十代の頃も、こうして喫茶店で本を読んだものだ。
今の若者は皆スマホを見ているが、彼は違う。紙の本を大切に扱っている。
「人は本を読み、新聞を広げ、あるいはただ黙している。だが皆、この時間だけは同じ調べに身を委ねている……」
ここにいる者たちは、皆一人だが孤独ではない。
この空間が、緩やかに人々を繋いでいる。
あの番組が教えてくれたこと――。
一人で食べることは、寂しいことではない。
むしろ、己と向き合う貴重な時間なのだと。
小生もまた、この時間を味わいたいのである。
やがて、目の前に盆が置かれた。
厚切りトースト、バターがじんわり溶け、表面に黄金の池を作っている。
小皿にはゆで卵とサラダ。
そして湯気を立てるコーヒー。
「おお……これぞ日本の喫茶店モーニング」
旅館の朝食が格調高い交響曲なら、喫茶店のモーニングは素朴なフォークソングだ。
飾らないが、心に沁みる。
まずはトーストにかぶりつく。
カリッ――と軽やかな音が口の中に響く。
バターの塩気が小生の舌を柔らかく包み、パンの甘みが追いかけてくる。
「パンが鳴る……これは朝のファンファーレだ」
厚切りのトースト。これもまた、昭和の遺産である。
最近の薄切りパンでは、この存在感は出せまい。
コーヒーを一口。
ほろ苦さが舌を洗い流し、胃袋へと染みていく。
「ふう……これぞ、休日の呼吸法」
平日の朝は缶コーヒーを駅のホームで流し込む。
だが休日は違う。こうして、一口一口を噛み締めることができる。
小生が会社で得られるものは、給料と疲労だけだ。
昇進の見込みもなく、やりがいも薄い。
さて、問題はゆで卵だ。
殻をコツコツと叩いて剥き、白身を露わにする。
塩をひとつまみ振るか、それともサラダのマヨネーズを拝借するか。
「人は人生の岐路に立たされる。小生にとって、それは――ゆで卵の食べ方を決する、この瞬間だ」
大袈裟だと自分でも思う。
だが、こういう些細な選択こそが、日常に彩りを与えるのである。
しばし迷ったのち、小生は塩を選んだ。
かじれば、黄身のほっくりとした甘みが口に広がる。
「うむ、やはりこれが一番だな」
シンプルな塩。素材の味を引き立てるのは、いつも塩である。
食べ終え、残りのコーヒーをゆっくりと味わう。
窓の外では通勤ラッシュの喧騒もなく、穏やかな休日の風景が広がっていた。
それぞれの時間が、静かに流れている。
「食は日常の
勘定を済ませ、店を出る。
階段を下りると、街路樹の影が秋の日差しに柔らかく揺れていた。
「さて……今日は古本屋を覗いてみるとしようか」
小生は満足げに歩みを進めた。
一週間の疲れが、少しだけ軽くなった気がする。
また来週も、この店に来よう。
小生の休日は、いつもここから始まるのである。
-完-
続・小生さんがゆく。 釜瑪秋摩 @flyingaway24
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