第6話 市長の改革
朝靄が低く垂れ込める灰島市。
瓦礫の街に、かすかな人影が点在していた。空は重苦しい鉛色で、太陽の光はまだ届かない。
市庁舎の石段には、二十余名の復員兵が集められていた。包帯や杖、煤にまみれた顔。彼らの視線には戦場の疲労と、これからに対する不安が混ざっている。
「また役所に利用されるのか」
「どうせ肩書きと腕章だけで…」
小さな声が列の端から漏れ、地面を踏みしめる足音に混ざった。
杉原は石段の中央に立ち、灰色の腕章を掲げる。
「これは銃ではない。だが、街を守る象徴となる」
その声の背後には昨日までの迷いと、今日からの覚悟がにじむ。
「布切れじゃ腹は膨れない!」と列の端の復員兵が叫ぶ。
それを聞いた右腕を失った石田
「布切れで腹は膨れぬ。だが、この街には守る価値のあるものはまだ残っている」
周囲の兵たちは一瞬沈黙した。
杉原は小さくうなずき、静かに応じた。
「正直、俺もうまくいくか自信はない。ただ、もう一度、街のために立ってほしい。武器はない。ただ人々を見守り、争いを止める。それだけだ。市民の子どもや老人... いや、全ての民衆のために秩序を取り戻す」
沈黙の中、兵士のひとりが腕章を受け取り、ためらいながらそっと腕に巻く。その動作が合図のように、仲間たちも続いた。
「…やるさ。今度こそ」
そう呟いた兵がいた。
兵士たちのざわめきが石畳にこだまする中、幼い少女は遠くからその様子を見つめていた。
最初はただ不安そうに目をそらすばかり。周囲の大人たちの話し声に耳をふさぎ、ただ立っているだけだった。
だが、倒れた仲間を助ける兵士の手の温もりを見た瞬間、少女の目はじっとその場に釘付けになる。まだ言葉にできるほどではない。胸の奥で、好奇心と不安がわずかにざわめいた。
やがて、兵士が腕章を巻くのを見届け、少女は小さく息をつく。
「…なんだか、すごいな」
か細い声。まだ憧れではない。ただ、行動の意味が少しわかった、そんな一瞬だった。
◇
昼過ぎ、配給所。
痩せた母親や子どもたちが列を作る。新しい帳簿を前にした係員が緊張の面持ちで声をかける。
「名前と区分をここに。受け取った方は印を」
主婦たちの間に不安とため息が広がる。
「また帳簿か。前と何が違うの」
「今度は腕章の人が側にいるって」
「でも、もし帳簿が改ざんされたら…」
商人が少年を連れて列に並ぶ。帳簿に印を押すと、彼は周囲を見回し、そっとつぶやいた。
「本当に、変わるのかな」
隣の老女が淡く笑う。
「人間がすぐ変わるもんじゃない。でも、少しずつでも進むしかないんだよ」
商人は肩をすくめる。
「結局変えるのは、市長じゃなくて俺たちかもしれないな」
少年は小さな手で帳簿に触れ、心の中でゆっくりと誓う。
「父さん、母さん、今度は僕が少しでも役立てるように……」
瓦礫の街の隙間に、希望の芽が静かに息づき始めていた。
◇
夕刻、港湾倉庫。
水を積んだ荷車や木桶、役人と自警団、そして不安げな市民代表も混じる。
「夜の監視体制は
杉原の説明に、役人が小声で抗議する。
「そんなもの、意味がない。結託してサボるだけです」
それを聞いた自警団の若者は、きっぱり答えた。
「俺たちはサボらん。」
「もし不安なら、皆で共に回ろう。そうすれば、誰も勝手にサボれない」
一人の農民の男が訥々と聞く。
「俺たちは素人だ。火事のときはどうすりゃいいのか…」
「昨日勇気を出して水を運んだあんたならできるよ」
と、復員兵が短く励ます。
子どもたちは、瓦礫越しにその様子をそっと見守り、警戒の表情から少しずつ安心の色を浮かべる。
◇
夜。市庁舎執務室。
杉原は報告書と、制度に協力しなかった家庭からの手紙を見つめる。
そこに青い瞳の将校が通訳を伴って現れる。疲れが顔に刻まれている。
「市長、二十四時間が経過しました」
将校は報告書をじっと読むが、眉間のしわは消えない。心には昨日語った言葉がまだ残っていた。
「秩序とは、力で担保される幻想だ。市長がそれを理解できるかどうかだ」
窓の外に見える自警団や巡回する市民の様子を眺め、将校の心には葛藤が生まれる。
「…布切れの腕章、帳簿。それで何が変わる?」
疑念は消えず、完全に信じたわけではない。ただ、以前とは違い、わずかに可能性を感じざるを得ない状況が目の前にあった。
将校は低く息をつき、通訳に向かって呟く。
「…愚かしく見える策かもしれん。しかし、この街が少しずつでも動き出しているのは確かだ」
杉原も、不安を抱えながら窓の外の灯を見つめる。恐怖ではなく、信頼と覚悟による秩序を試みる自分を、かすかに確かめていた。
港からの風に、塵と水と希望の匂いが混じる新しい夜。
町のどこかで、孤独な老人が「腕章の子が回ってきて安心した」と独りごちる。
遠くの裏通りで、少年が「燃える火じゃなく、灯りが街に広がるんだ」とつぶやく。
その小さな光が、やがて街全体を照らすことを、誰もが心の奥で願っていた。
―――――――――――――――――――――――――
自分の好きな分野での小説が少ないということで、いっそ自分で書いてみようとなり小説を書き始めてみました。
応援があると、励みになるのでぜひ、面白いと思ったら⭐︎やコメントをください。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます