第5話 灰の天秤

 翌朝。

 灰島市の空は、低い雲と煤けた灰にどこまでも濁っていた。

 街路に立つ市民たちは顔を伏せ、互いに小声で囁き合っている。

「見せしめにされるのは誰か」

「昨夜の火災、やっぱり放置では済まない…」

 恐怖と疑念が街全体を包み、広場には緊張の波が渦巻いていた。

 

 机の上には占領軍からの正式な通達が置かれている。

「二十四時間以内に首謀者三名を引き渡せ」

 短い文面の一語一語が鋭い刃のように胸を刺す。

 

 杉原は深く息を吸い込み、書記に命じた。

「議会を招集せよ…残された時間は僅かだ」


 ◇ 

 議会室。

 煤けた洋灯が揺れ、議員たちの焦燥に濁った目が赤く照らされる。

 年配の議員が口火を切る。

「市長、答えは一つだ。復員兵を含む三名を差し出せ。それで街が守られるなら犠牲も最小限だ」


 若い議員が即座に声を荒げた。

「何を言うか! 昨日、命を懸けた男を売るのか! 市民は二度と市庁舎を信用しないぞ」


 議論は熱を帯び、別の議員が机を叩く。

「信用だと? 腹の足しにならん! 明日、この街が焼け落ちる方がマシだ!」


 とうとう一人が杉原を指差し叫んだ。

「市長、あんたが決めろ! 黙り込んで逃げるな!」

 杉原の胸を突き刺す言葉。


 三年前、軍司令室で「士気が乱れる」と黙殺され、声を失った夜が脳裏に甦る。

 ――沈黙の代償。

 彼は目を閉じ、炎に呑まれた街と救えなかった命の呻きを思い出す。

 そして、決然と椅子を払いのけ立ち上がった。

「…もう黙らん」


 議場がざわめきを止め、杉原は通達の紙を手に言葉を紡ぐ。

「一人を売って得られる安定など、砂上の楼閣に過ぎぬ。市民の怒りは凪ぐことなく、街は内から崩れる」


 若き議員は頷き、年配議員は眉をひそめる。

「ならば、どうするのだ」

 

 杉原は一呼吸置き答えた。

「代案を示す。放火は単なる悪意の行為ではない。街全体の混乱が火種となっている。特定の首謀者を処罰しても再発は防げない。故に、我々は管理策を提示する」


 ◇

 午後、占領軍の将校が黒い外套を纏い冷たい目で現れる。

 通訳が告げる。

「期限は迫っている。首謀者を出せ」

 

 杉原は一歩前に出て差し出した。

「三名は出せない。その代わり、これを見ていただきたい」

 将校の眉がわずかに動き、杉原は資料を広げる。


 一 市民自警団

「復員兵を中核とし、武装は一切持たせない。代わりに灰色の腕章を与える。

 市民は彼らを見れば安心できる。御軍は武力反乱の危険がないと理解できる。双方の秩序を守れるのです」


 将校は冷ややかに口を開いた。

「市民を組織するなど、芽吹けば蜂起に転じる」


 杉原は即座に返す。

「蜂起は飢えと恐怖から生まれます。役割を与えれば、蜂起の必要そのものが消えるのです」


 二 配給管理制度

 杉原は帳簿を広げ、淡々と数字を示す。

「昨日の配給で不足した米は四斗。闇市場で流通している推定はその倍。帳簿に検印を導入すれば、少なくとも一割を市の管理下に戻せます。その分は御軍の兵站に回せます。処刑より利益は確実です」


 議員たちがざわめき、将校の瞳が細められる。

 将校の眼差しが細められた。

「利益、だと?」


 杉原はうなずく。

「はい。あなた方が欲するのは秩序と補給線の安定。そのために必要なのは、恐怖で沈黙させる三名の死ではなく、秩序を維持する三百の協力者です。それで、次で最後ですが...」

 

 三 夜間監視計画

「昨日の火災で被害を受けたのは倉庫一棟。だが、燃えれば市も軍も補給を失います。市役人と市民を混ぜた夜間監視隊を設け、火災を抑え、暴動の芽を防ぎます。兵を動かす必要もありません」

 静かな部屋に、杉原の声だけが響く。


 沈黙の後、将校は低く言った。

「愚かに見える覚悟だ。だが言葉だけでは信用できん。二十四時間... その間に制度を開始してみせろ。動きが見えなければ、要求通りの処罰を行う」


 ◇

 議場に戻ると、市議たちは口々に怒鳴った。

「無謀だ! 二十四時間で何ができる!」

「市民をまとめきれるものか!」


 杉原は灰色の窓の外を見つめ、静かに答えた。

「沈黙を繰り返せば、この街は焼け落ちる。動くしかないのだ。たとえ愚者と呼ばれても」


 ◇

 会談を終え、市庁舎の重い扉が閉ざされた。

 将校と通訳は夜の冷気の中へ歩み出る。

 広場の隅には軍用車が待機し、冷たい鉄の匂いが漂っていた。

 通訳が小声で問う。

「……閣下、本気で二十四時間を与えるのですか」


 将校は答えず、白い手袋の皺を整える。やがて低く呟いた。

「口先だけで逃げる市長か――それとも、愚かに見える覚悟を持って動ける男か。見極めるだけだ」


 通訳は薄く笑い、夜風にマントを揺らした。

「いずれにせよ、我々の手に秩序を乱す者の処罰理由は常にあります」

 将校は短く頷き、視線を暗い市庁舎へ戻す。


「秩序とは、力で担保される幻想だ。…市長がそれを理解できるかどうかだ」

 軍靴の音が石畳に響き、二人の背が闇に溶けていった。

 残された広場には、まだ炭の匂いと人々のざわめきが重く漂っていた。


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自分の好きな分野での小説が少ないということで、いっそ自分で書いてみようとなり小説を書き始めてみました。


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