第7話

 数時間後、薄明りの中で目が覚めると、キッチンの方から明かりが漏れているとともに、良い匂いが漂ってきている事に気が付いた。薫さんが料理をしているのだろうか。すっかり夜になってしまったようで、窓から月明りがぼんやりと差し込んでいる。


 体を起こそうとしたが、やけに怠くて火照っている。額に手を当てると微熱があるように感じられた。風邪を引いてしまったのかもしれない。でもただちょっと気怠いだけだ。なんとか体を起こして寝室を出て、薫さんのいるキッチンへと向かった。


 「あ、起きた?夜ご飯作ってるよ」


 どうやら薫さんはカレーを煮込んでいるところのようだ。エプロン姿がよく似合っていて、まるで台所に白い向日葵が咲いているようだった。ふと先ほど見た夢の中で薫さんと激しく抱き合っていたことを思い出して赤面し、気取られないように後ろを向いた。


 「い、いきなり眠ってしまってすいません。こんな時間まで長居することになってしまってご迷惑ではありませんでしたか?」


 「全然構わないよ。君のお母さんも今晩はうちに泊まっていけってさ」


 「親に連絡してくださってありがとうございます。結局携帯電話を使わせてしまいましたね。ごめんなさい」


 「いいよいいよ、気にしないで。こんな時間に帰らせる訳にもいかないし。それにしばらくうちに泊まってもいいってさ。君がいてくれたらわたしも楽しいし。帰る時だけまた連絡すればいいって言ってたから電話代についても問題ないよ」


 「何から何までありがとうございます」


 「いいからいいから。さ、ご飯を食べよう」


 そう言って薫さんはカレーを二皿持ってきてくれた。


 「はい、いただきます」


 部屋中に充満するカレーの芳醇な匂いの中に、どこか甘ったるいような匂いも混じっているような気がしたためてっきり甘口のカレーかと思っていたが食べてみると辛口だった。気が付かぬうちにお腹が減っていたようで、辛口には少し苦手意識があったものの一口食べたら止まらなくなってあっという間に一皿平らげてしまった。薫さんはまだ食べている。


 お腹を満たして一息つくと、どうしても目の前にいる薫さんのことを意識せずにはいられなかった。例の甘ったるい匂いのせいかもしれない。そのせいで先程の夢のことをまた思い出してしまった。馬鹿げた夢だとは思ったけれど、妙に生々しいリアリティのある夢でまるで現実に起きた出来事のように感じられたし、こうして二人っきりで居る状況を再認識するにつけて、もしかして今は夢の続きに居るんじゃないかという心持になってきた。


 (もしかしたら、もしかしたら……先程の夢の続きが今夜、現実のものとなるのかも?)


 僕と薫さんの距離はちゃぶ台を挟んで50センチ。手と手の距離は30センチ程だ。薫さんの手を取って、その温もりを直に感じる事を考えながら手持ち無沙汰に手遊びをしていると、ふいに薫さんが僕の手を両手で包んだ。僕は緊張して手にじんわりと汗が滲むのを感じた。


 僕の手に握った汗は薫さんの手のひらの体温に優しく溶かされて、清らかな水に戻ったみたいに不快なベタつきを感じなくなった。そしてさらさらとした水玉となって薫さんの絹のような肌の隙間を転がっていった。


 いま手と手の距離はゼロになった。お互いの手と手を絡めながら、押すか引くかの微妙な駆け引きに囚われつつあり、どことなく運動会の綱引きのような感覚を思い出していた。


 怖くて手を引っ込めてしまいたい気持ちもあるけれど、そんな事はできっこない。今やすっかりこの手の感触の虜になっているのだ。そしてこの手を掴んで引き寄せたい気持ちと、いっそ体ごと押し倒したい気持ちに引き裂かれながら、どうしようもない程に惹かれていた。


 「食べたら汗かいちゃったね」


 薫さんは少し照れ臭そうに俯きながらそう言った。


 「お風呂、入ろっか」


 ぴんと張り詰めたような沈黙のなかで、体が熱を帯びていくのを感じた。どくん、どくん、と脈を打ちながら、体の中で蛇がのたうち回り、頭は朦朧としてくらくらしてきた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る