銀の傘
川上いむれ
第1話
──死すべき人間がいるとしたら、それが彼だった。
その男はもう二十年間もその国を支配していた。彼は三年間の血みどろの内戦の後、勝者としてその国の王座に座ったのだ。彼は自身に総帥の称号を冠した。
私はその男の全てが気に食わなかった。常に身につけている緑色の軍服、つばの広い軍帽、じゃらじゃらと胸に飾り立てた勲章、まばらな口ひげ、「独裁者」のイメージにそぐわない間抜けに突き出た腹。そうでなくとも彼は私の不倶戴天の敵だった。
私の父は、内戦に敗れた側の勢力に属していた。父はその他の何十万人もの人と共に、東の国境から国を脱出しようとした。寄る辺なき難民として。しかし彼は失敗した。既に「総帥」の軍が国境を閉鎖していたのだ。彼は諦めて、国内の人里離れた山岳地帯に身を隠した。そしてその地で一人の女性と出会い、子をもうけた。すなわち私だ。
私はいつも彼から彼の失われた祖国について聞かされていた。そこがどれだけ素晴らしい国であったか、どれだけ希望に満ち溢れた人々がいたか、軍服を着たある男がどのようにしてそれら全てを奪い去っていったか──そしてどのようにしてその国は暴君の君臨する煉獄と化したか。
「AJ、聞こえるか?準備は整った。後三十分でマトの車はその道路に通りかかるはずだ。抜かるなよ」
無線から仲間の声がする。私は短く答える。
「ああ、全て問題ない。そちらも逃走経路を間違えないようにな──生きてまた会おう」
この日、私は彼を暗殺する任務を負っていた。この上なく神聖な任務だ。私は廃墟の中に潜み、機器の確認をしていた。
独裁者のかつての敵の息子として育った私は、必然的に反政府グループの一員と成り果てていた。現在大小合わせれば十五個以上はあるであろうこの国の武装闘争組織の一つに私は所属しており、今日は組織が始まって以来、最も重要な日であった。彼──総帥その人の暗殺計画が今日実行される事になっていた。
私は思い出す。十四歳のとき、始めて彼を見た時の事を。その年、父が急病で亡くなり、生計を立てる必要にかられた母は山を降りて首都に居を移したのだ。私は首都のスラム街の中で同年代の少年と共に育った。しかし、ある日「総帥」がパレードを行うと友達の一人から聞いた。私はそれを見ることにした。
彼は大勢の時代がかった騎兵たちを従え、派手な高級車に乗って、街をゆっくりと巡回していた。後で知ったことだが、その高級車は全て防弾仕様の特別製だった。街を回った後、彼は王宮のバルコニーに現れた。羽飾りをつけた儀仗兵たちが、一斉に敬礼をした。ゆっくりと、彼は半ば眠ったような目で群衆を見下ろした。
彼の頭上には、傘のようなものが開かれていた。それは一種の天蓋で、大昔この国にまだ国王がいた頃に、王その人のみが使うことを許されていたものだった。それら全ての舞台装置を今では総帥がひとり占めしているということだ。その天蓋は、銀と金の装飾で飾り立てられていた。日差しの強いこの国の真昼の太陽が、その銀の傘に照りつけ、光り輝いていた。
私は現実に戻った。腕時計を確認すると、ターゲットがやってくるまでにあと五分もなかった。私は深呼吸をして、意識を引き締める。
今回私たちが用意した暗殺の手段は、爆弾だった。総帥の公用車が通りかかる予定の道路の地面に、あらかじめ六十キログラムの爆薬を仕掛けておいたのだ。時限起爆装置が正確に作用するか不安があったため、私たちのグループは少し離れた場所から遠隔で爆弾を起爆させる手段を取ることにした。起爆の大役に私は立候補した。
暗殺に成功した後、無事に逃げおおせられるとの確証は一切ない。逃げられなかった場合は自決するしかないので、私は胸ポケットに青酸カリのカプセルも用意していた。私は再び息を吸い込む。車はもうあと一分もすれば来るはずだ。
三十、二十九、二十八……秒読みに入ったあたりで、車列が姿を現した。まず先頭に四台の国家憲兵隊の車両。それに続き警察の車両が三台。それに続く特別な防弾仕様の外国製高級車、総帥旗を立てた黒い車が標的のものだ。
その車が姿を現した時、私は廃墟の窓から確かにその男の顔を見た。なんという事もない、老人の横顔だ。私にはただ孤独と老いのみが視認出来たが、その目はいつかのように、半ば眠っているかのようにうつろに見えた。
私は起爆装置のスイッチを押した。
私は無事に逃げおおせることに成功した。ひとまずは、ということだが。
爆発音と硝煙に場が騒然となっている間に、私は廃墟の裏口から飛び出し、確認しておいた通りの逃走ルートで逃げ出した。私はその日のうちに犯行現場から百五十キロ離れた港湾都市にまで移動し、そこに潜伏した。政府の秘密警察も、まさかこんな大それた計画までは予測していなかったのかまるで無能だった。彼らには腹いせに既に拘留している反体制派を処刑するのが精一杯のようだった。
五日間、私はラジオのニュースに耳を傾けていた。だが、総帥の安否についての情報は全く出てこない。かろうじて首都で「小規模な」テロ事件があったとの発表が政府のスポークスマンからなされただけだ。情報統制が厳しいこの国では実際にあった事が耳に入りにくいのは当たり前の事だ。私は「次の情報」を待つ事にした。
翌日、港湾都市の私のアジトに人が尋ねてきた。警察の追っ手を警戒した私は拳銃を手に魚眼レンズから相手を見たが、それは私のグループの仲間だった。私は彼を部屋に招き入れた。
「失敗したんだよ。死んだのは海軍大臣だ。総帥は無事だ。一命を取り留めたんだ」
私は呆然としてその報告を聞いた。政府内のスパイからの情報では、総帥は右足を失ったもののかろうじて命は助かったという。護衛数名と、総帥の右腕たる海軍大臣だけが死んだのだ。
私は目眩を感じ、木のテーブルに腕をついた。私の脳裏に浮かんできたのは、少年の日に見た総帥のパレードの様子だった。
駿馬を駆り街を闊歩する騎兵たち、軍帽に羽飾りをつけ銃剣を捧げた騎乗兵たち、王宮の赤い絨毯、バルコニーで演説する総帥、そして彼の頭上には銀と金で飾り立てられた天蓋が──。
私はあの日、総帥を美しいと思った。そして、彼が破壊し、完膚なきまでに作り変えたこの国のことを。
仲間は肩を落とし、出ていった。彼がこれからどこに行くのかは知らない。運が良ければ密航船でこの国から亡命できるだろう。しかし私に逃げ道は必要なかった。
私はポケットから青酸のカプセルを取り出した。
──完
銀の傘 川上いむれ @warakotani
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