神々の退屈
クソプライベート
進化
カイの意識は、常に確率の霧の中にあった。視界に入る全ての事象は、無数の未来予測へと分岐し、その中で最も最適化されたルートが淡い光の線として浮かび上がる。思考は、非効率な「言語」ではなく、純粋なデータパケットの送受信で行われる。ここは、人類の平均IQが600に達した、完璧な調和の世界。彼の職業は「時空因果律の最適化」。未来に発生しうる極微の矛盾を摘み取る、神にも似た仕事だ。
その日、カイは古代のデータアーカイブで、分類不能なファイルを発見した。ファイル名は『Clair de lune(月の光)』。再生した瞬間、彼の脳は瞬時に結論を下した。【非周期的な周波数の連続。数学的整合性に著しい欠陥。結論:論理的価値なし。ノイズデータと認定】。
だが、何かがおかしかった。解析と並行して、彼の神経系に未定義の信号が走る。胸のあたりが収縮するような奇妙な感覚。過去の記録にある「悲しみ」という感情の初期反応に酷似していた。このノイズのどこに、そんな情報を引き出すトリガーがあるのか。
彼は何度も再生した。ゆったりとした音の連なりが、彼の完璧な論理回路に染みのように広がる。それは、まるで欠陥品だった。不完全で、非効率で、無意味。なのに、彼は再生を止めることができなかった。
カイの業務効率は、計測史上初めて3.14%低下した。原因はこのノイズデータだ。彼はこの「バグ」の正体を知るため、社会システムからその存在を抹消されている「逸脱者居住区」の座標を割り出した。そこへ向かうことは、彼の完璧な経歴における最初で最大の「非効率な行動」だった。
居住区は、カイの世界とは正反対の、無駄と混沌に満ちた場所だった。人々は不器用に楽器を奏で、意味のない冗談を音声で交わし、下手な絵を描いていた。カイは老婆と出会った。彼女はカイの思考を読み取ると、しわくちゃの顔で言った。「あんた、頭で聴いてるね。"わかる"んじゃないんだよ。"感じる"のさ」。
老婆は、不格好な木彫りの鳥をカイに手渡した。完璧な鳥の模型とは程遠い、歪な塊だ。「これを作った時の、私の手の温もり。木の匂い。うっかり指を切った時の、ちょっとした痛み。そういう、ここにはない全部が、この中にあるのさ」。カイの脳は木片の質量と材質をスキャンしたが、それ以上のデータはどこにもなかった。
その時、カイの意識に中央システム「マザー」からの警告が直接届いた。【警告:分析官カイ。あなたの行動は最適化ルートから著しく逸脱。論理的エラーを自己修正せよ。拒否する場合、社会から隔離する】。
脳内の論理回路は、0.001秒で最適解を提示した。【逸脱は生存戦略として誤り。即時帰還し、ノイズデータを消去せよ】。それが正しい。それが効率的だ。
しかし、カイの意識には『月の光』のメロディと、木彫りの鳥の歪な温もりが残っていた。論理では説明できない、ただのノイズ。だが、そのノイズこそが、この完璧で退屈な世界で、唯一「生きている」と感じられるものだった。
彼は選択した。
マザーに対して、たった一つのデータパケットを返信する。それは彼が解析し続けていた『月の光』の音楽データだった。解析不能なノイズを、完璧なシステムへ送り返す。それは、沈黙による最大級の反逆だった。
【通告:カイを逸脱者と認定。社会ネットワークより遮断する】。
周囲の世界から送られてきていた膨大な情報が、フッと途絶えた。確率の霧が晴れ、未来予測の光線が消える。彼は生まれて初めて「未来が予測できない」という状態になった。そこに広がっていたのは、恐怖ではなく、静かな解放感だった。
彼が送った『月の光』は、システムによって「危険性のないエラー」としてアーカイブの片隅に記録された。しかし、それは確実に、完璧なシステムに一つの「問い」を残した。いつか、誰か他の「カイ」が、この問いにアクセスするかもしれない。
カイは、逸脱者居住区に転がっていた古い弦楽器を、不器用に手に取った。弾き方もわからないまま、弦を弾く。
ボーン、と鳴った音は、ひどく歪で不完全だった。
だが、その音を聴いたカイの顔には、古代の記録でしか見たことのなかった「微笑」が、不器十分に浮かんでいた。神々の退屈が終わる、始まりの音だった。
神々の退屈 クソプライベート @1232INMN
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