第2話 雨よ、すべて洗い流せ

***


 ――水の音がする。激しく打ち付ける強い音が。


 目を覚ますと木目があった。まるで人の顔のようになったそれは、重ねた歳月により黒く変色し、いまにも悲鳴が聞こえてきそうな表情で幾つも並んでいた。

 薄暗い空間で見上げた、見慣れない不気味なそれが天井だとロクサーヌが気付くのに、そう時間はかからなかった。


「あっ、気がついた?」

 痛む頭を押さえ、ロクサーヌが身を起こすと、庶民的な服に身を包んだ女が寄ってきて微笑んだ。断りもなくベッド脇の椅子に腰かけると、無礼にも手を伸ばしロクサーヌの額に手を当てた。

 別段冷たくも温かくもない、人肌であった。

「よかった、熱はなさそうだね。具合はどう?」

年のころは20代半ばほどだろうか。女はロクサーヌよりいくつか年上に見えた。


 女の服は実に質素で、家具も安っぽかった。

 ……というより、目に入るすべてのモノが安っぽい。宝石どころか、フリルもレースもない綿素材のワンピースは長身の彼女には少し寸足らずで、部屋に置いてある家具にも装飾ひとつなかった。

 目覚めた場所は、ロクサーヌの実家の物置部屋よりもずっと簡素だった。

 女はロクサーヌの顔の前で、幾度も手を振った。

「聞こえてる? 大丈夫? あなた、雨の中倒れてたんだよ」

「、倒れていたですって……?」

 ……護衛はなにをしているのかしら、わたくしを置いて帰ったということ? 未来の公爵夫人を?

 いや、そんなはずはない。夫との仲はギクシャクしていたが、使用人たちとの関係は良好だった。彼らはいつも、適切な敬意を払ってくれていたのだから。それはひとえに彼の両親や弟たちが、私の存在をきちんと認めてくれていたからだ。

 まぁ彼も表面上は私を尊重してくれていたものね、と内心自嘲した。


 女は腰に手を当て、黙り込んだロクサーヌを見つめた。

「事情は知らないけど、気をつけなきゃダメでしょ。お腹に赤ちゃんもいるみたいだし、なにかあってからじゃ遅いんだからさ」

と、やや大きくなったお腹を見た。ロクサーヌは慌てて手をあてた。

 青くなるロクサーヌをよそに、肩を竦めた。

「勝手してごめんだけど、寝てる間に服は私が着替えさせたよ。濡れてちゃ体に悪いしさ。お医者様にも診てもらったんだけど、大丈夫だって言ってたよ」

ご近所さんだから呼べばすぐ来てくれるし、気になるならまた呼んでこようか、と女は首を傾げた。

 馴れ馴れしいところは気になるが、なかなか頼もしい女だと思った。

「そう、世話になったわね。もう診てもらったなら医者はいいわ。それよりここはどこ、」

腹が鳴った。私の腹だ。女は目を丸め、楽しそうに笑った。

「そりゃそうだよね、ふたりぶん食べなきゃだもの! なにか持ってくるからちょっと待ってて!」

ロクサーヌは赤くなりつつ、俯いた。

 ありえない。このわたくしが、こんな恥を晒すなんて。


 溌溂とした女が去ったあと、辺りを見渡すもまったく知らない小屋であった。

 小屋の窓ガラスからは、横殴りに叩く激しい雨の音がしていた。窓に寄っていき張り付くと、頼りない民家の明かりが、雨で滲んだ窓にぼんやりと浮かんでいた。

 ロクサーヌは、現在いる場所が2階で、すでに夜であることをようやく悟った。外には似たような簡易な建物が立ち並んでいる。

 ……もしかしてこれは、小屋ではなく庶民の家なのかしら。一応家具らしきものも置いてあるし……。


 見たことのない景色を見て、ロクサーヌはしばらく現実を受け止められず呆然としていた。実家の領地は国境にあったものの、王都生まれ邸宅育ちのロクサーヌにとって、見たこともない光景であった。

 雨で見えづらいものの、山がなぜこんなにも近くにあるのか……。あと、道が石畳ですらない。ここは、王都どころか近郊ですらないのだろうか。

 先程の女も、顔どころか服装すら見たことのないものだった。庶民の服というのは、あの憎きメアリが着ていたようなものではなかったのかしら?


「シチューしかないけれどいい? 晩御飯の余りで悪いけど」

女が扉を背中で押し、ノックもせずに入ってきた。

「ええ。……世話をかけるわね」

 いいも悪いもない。どうせそれしかないのだろう。

 ただ、その優しさは身にしみた。黙って口に運ぶと、鼻の奥がツンとした。特段おいしくはないが、その温かさに涙が溢れそうになり堪えた。

 純粋な善意で、見ず知らずの人間に優しくされるなんていつぶりなのだろう。


 権力や発言力から取り巻きは多くいたけれど、なんならロクサーヌ自身も王女殿下の取り巻きのひとりだったが、いま思えば彼女たちは気軽に友と呼べる存在ではなかった。

 ロクサーヌが侯爵の愛娘で、公爵家へ嫁ぐ花嫁だったから、そして次の公爵夫人だったから。そして彼女たちも、これから次世代を担うであろう有力な貴族であったから。

 わたくしたちが一緒にいた理由は、きっとそれだけだった。

「熱いから火傷に気をつけてね」

「……。ええ」

 どうも、女はロクサーヌがどこの誰かまだ気づいていないようだ。

 過去の悪行でいまだ名を馳せる私のことをまったく知らないなんて、きっと彼女は庶民の中でもかなりの田舎者で、噂にもずっと疎いほうなのだろう。


 はい飲み物、とカップに注がれた安っぽい香りのそれに口を付けた。なんの茶葉をどう使ったら、ここまで味のしない茶を淹れられるのだろう。

 されど、ロクサーヌは胸に手を当てた。

「――家門の名にかけて、この礼は必ずするわ。お腹の子まで助けてもらったのだから、期待していいわよ」

「? 大袈裟な人だね。困ってる人を助けるのは当たり前でしょう」

「……? 謝礼がいらないというの? 遠慮することないのよ」

「? 遠慮なんてしてないよ。そんなつもりで助けたんじゃないもの」

嘘もなにもなさそうな顔だった。

 ……まぁ、私の名をきいたら、謝礼もなにも固辞されて慌てて追い出されるかもしれないわね。でも親切にしてくれたことは忘れないわ。


 ロクサーヌはいつも通り口角を上げた。

「――わたくしの名はロクサーヌ・ヴラン。ヴラン小公爵の妻よ。きっと夫が探しているだろうから、公爵家に使いをやって迎えを呼んで頂戴」

 こんな庶民にまで、夫を庶民女に奪われた惨めな女だなんて思われたくはない。たとえ事実と違っていたとしても、見栄っ張りなロクサーヌは迷いなく嘘を口にすることを選んだ。

 きっと、ローランドはわたくしがいなくなったことにも気づいていないに違いない。

「その時にも礼はもらえるはずだけど、後日改めてなにか贈らせるから安心して。そうだわ、これを渡せばわたくしが呼ばせたと門番も納得するはずよ」

ネックレスを外して差し出すも、女は受け取らずに目を丸くした。


「ヴラン公爵? 聞いたことないね、外国の人なの?」

えっ?

「、ちょっと待って頂戴、ここは王都ではないの?? エクトール王が統治している、」

 わたくしは誘拐されたの??

 ロクサーヌの後ろ向きな推量も何のその、女は呑気に肩を竦めた。

「ねぇ、エクトールって誰なの?? 実家が商家だから、外国のこともわりと詳しいつもりだけど、そんな名前の王様はきいたことないよ」

ロクサーヌは、いよいよ女と顔を見合わせた。


 なにがなんだかまるでわからない……。

 他国にまで拉致されたということ? そんなことがあって??


 女はわきに吊るしてあった私の服を見、口に手を当てた。

「……あのね、ロクサーヌ。言いづらいんだけど」

 庶民に呼び捨てられた。身分を明かしたのに、口調すら改めもしないなんて。

 以前までならとうとうと礼節について説教をしていたところだが、ここ数年で私もずいぶんと丸くなった。怒りよりも困惑が勝っていた。

「……。なにかしら」

「服を見てもしかしてって思ってたんだけど、あなた、異世界人なんじゃない?」

「……イセカイ? なによそれは、」

女は大真面目な顔でロクサーヌを見つめた。


 曰く、この国には時空の歪みが頻繁に起こり、異世界から落ちてくる者がとても多いとのこと。


「とはいえ、会ったことはあるけど実際に拾ったのは私も初めてだよ」

「あらそうなの……」

犬や猫じゃあるまいし、拾うだなんて、とぼんやり思う。

「ここの役場も異世界人用の相談窓口があるから、明日になったら連れていってあげるね。今日はもう遅いし、こんな雨じゃ妊婦を歩かせらんないもんね。

 登録したら好きな町にも住めるし、飛ばされてきたのが子供なら養子縁組みを斡旋してもらえたり、若い人なら結婚相手を探してもらえたりして便利なのよ。異世界人同士のサポートクラブもあるし」

いやにリアルな夢でも見ているのかしら、というのが最初に浮かんだ感想だった。

「……ずいぶん至れりつくせりなのね」

窓口をつくるほどいるの? 異世界人が?

「そうなの。でもほんとによくあることなんだもの」

 領土単位でみても、数年にひとりは来ているらしい。彼女のいう通り、私のようなことはよくあることらしかった。


 無意識にお腹を撫ぜていたことに気づき、ロクサーヌは改めて愛おしい気持ちになった。

 愛はもらえなかったけれど、子どもが手に入った。浮気男のローランドのぶんも、わたくしが愛情を注いでやらなくては。

「……この子がいるから、結婚も養子縁組もわたくしには関係なさそうね。もとの世界に戻れるようになるまで、ここの常識から覚えなくては」

 女は目を丸くした。

「もとの世界に戻りたいの? 異世界人にしては珍しいね?」

ロクサーヌが首を捻ると、女は目を泳がせた。

「? 戻りたくない人の方が多いものなの?」

「あー……、なんていうか、異世界から来る人って大抵その……、……ロクサーヌは違うのかもしれないんだけれど」

 言葉を濁したが、要は世を儚んで飛ばされてくる人がほとんどらしい。戻る方法が見つかっても、この世界での定住を選ぶことが多いそうだ。


「――フフッ、それはそうよね、それもこんな妊婦が来たら」

 改めて自分を客観視して笑ってしまった。

 雨の中、意識を失っている妊婦の異世界人。その異世界人はたいてい世を儚んでいる。

 そして夫の浮気現場を見て飛ばされてきた私。子を身籠った私なんて、周りからどれほどワケ有りに見えるだろうか。


 言われてみれば確かに。

 二度と戻れなくてもいいかもしれない、と思ってしまった。


 ローランドは私を愛していない。きっと、生まれてくるこの子のことも愛してくれないだろう。

 さらに悲観的で最悪な妄想をするならば、あの女が彼との子を孕んで、生んだりということもあるかもしれない。そうしたら、私たちなんて事故に見せかけて殺されるか追い出されることもあるかもしれないわね。

 正当な跡継ぎである彼と私の子なのに酷い目に遭い、社交界でも私の過去の悪名のせいで除け者にされたのかもしれない。


 考えるだけでとんでもなかった。

 生まれてくるこの子を、幸せにできないかもしれない未来から、はからずも私たちははじき出されてしまったわけだ。


 コロコロと笑いながらも涙が出た。泣きながら笑いだした私を、女はただただ驚いた顔で見つめていた。

 ――こんなことがありえて?? 最高よ!! 最高だわ!!

 ここには傍若無人な私を、愚かで憐れなメアリを蹴落として結婚まで貫いた惨めな悪女、ロクサーヌ・ヴラン小公爵夫人を知る者は誰ひとりいないんだわ!


 ひとしきり笑い終え、目尻の涙を拭っていると、何を勘違いしたのか女はロクサーヌの背中を優しくさすった。

「……大丈夫だよ、ロクサーヌ。他は知らないけど、少なくともこの村にはひどい人なんていないから。みんな、あなたの味方なんだからね」

少なくとも私はあなたの味方だよ! と力強く述べた。

 ロクサーヌは状況を完全に理解した。

 やはり。はたから見れば私は、哀れな妊婦なのだわ。身重であるにも関わらず、夫やら家族やらからひどい目にあわされ、世を儚んで異世界に飛ばされた悲劇の妊婦に見えるのだわ。


 まったくの逆だったのに。

 勝手に夢を見て有頂天になり、そしてまた勝手にドン底に叩き落されただけなのに。


 ――人生をやり直せたらと思っていた。

 でも子どもができたから、この子を失うことだけは嫌だったし、そう考えたらこれからは耐えるしかないと思っていた。しかしこの世界でなら、愛する我が子をそのままに、過去の私と決別して生きていけるのかもしれない。


 今度こそ、今度こそまともな人間になれるのかもしれない。

 子どもに恥ずかしくない、立派な母親に。

 ……――まずはこの女に、いい人間だと思われるよう振舞ってみようかしら。


 ロクサーヌはお得意の、天使のような笑顔を浮かべた。

「――なにからなにまで親切にありがとう。感謝してもしきれないわ。貴女の名も教えてもらっていいかしら」

と問うと、そうそう前向きにいこうね、と激励された。

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