肉声衛星通信

クソプライベート

声よ、届け

「通信、完全にロスト。テレメトリ、キャリア信号、全て沈黙しました」

 ヒューストン、ジョンソン宇宙センターの管制室に、絶望的な声が響いた。巨大なメインスクリーンには、深宇宙探査機「フロンティア2」からの信号を示すグラフが、無慈悲な水平線を引いている。打ち上げから三十年、太陽系を遠く離れ、未知の星間空間を旅する老いた探査機は、ついにその命の糸が切れたのだ。

「アンテナ制御系の完全な故障と見て間違いありません。……復旧は、不可能です」

 スタッフたちの間に、重いため息が伝染する。ミッションの終わり。それは、この部屋にいる全員にとって、家族との死別に等しかった。

​「馬鹿なことを言うな」

​ 静寂を破ったのは、管制室の隅で腕を組んでいた一人の老人だった。ジェームズ・“ジム”・サリバン。このフロンティア計画に、設計段階から人生を捧げてきた伝説のエンジニアだ。

「あいつが、こんな静かに逝っちまうはずがねえ。俺が話しかけてみる」

「ジム、気持ちはわかるが……」

 ミッションディレクターが慰めの言葉をかけようとするのを、ジムは鋭い眼光で遮った。

「慰めは要らん。マイクを貸せ。一番でかいパラボラアンテナに繋がってるやつをだ」

 管制室がざわつく。「正気か」「ショックで錯乱したんだ」。誰もがそう思った。地球から何十億キロも離れた探査機に、声が届くわけがない。物理法則の冒涜だ。

 だが、ジムの瞳は、冗談や狂気の色を一切帯びていなかった。それは、長年連れ添った相棒の沈黙を、断じて許さないという、燃えるような意志の色だった。

 ディレクターは、数秒間ジムの顔を見つめた後、静かに頷いた。

「……マイクを」

​ ジムは、巨大なパラボラアンテナが設置されたドームへと一人で向かった。集音マイクの前に立った彼は、一度だけ天を仰ぎ、そして、腹の底から、地鳴りのような声を絞り出した。

​「オーーーイ! フロンティアーーーッ! 聞こえるかァッ!」

​ それは、声ではなかった。音の塊だった。若い頃、オペラ歌手を目指していたという噂は伊達ではなかったらしい。声量という概念を超えた「意志の波動」が、マイクを震わせ、アンテナを揺らし、大気を突き破って、宇宙空間へと真っ直ぐに射出された。

​「こっちは元気だぞーッ! お前がいねえと、退屈で死んじまう! 何か返事くらいしろ、この鉄クズ野郎!」

​ 管制室では、誰もが呆然とスピーカーから流れるジムの絶叫を聞いていた。嘲笑う者はいなかった。科学的根拠も、論理的整合性もない。だが、そこには、一人の人間が仲間を想う、あまりにも純粋で、あまりにも強大な「気合」があった。

​ ジムの呼びかけは、一時間続いた。声はかすれ、膝は笑っていたが、彼は叫ぶのをやめなかった。

 そして、奇跡は起きた。

「……信号!」

 オペレーターの一人が叫んだ。メインスクリーンに、死んでいたはずのグラフが、心電図のように微かな脈動を始めたのだ。ノイズにまみれた、ほとんど意味をなさない信号。だが、それは確かに、フロンティア2から発せられていた。

「解析を急げ!」

 データがコンソールに流れ込む。それは、画像データだった。何かの写真。ノイズが取り除かれ、像が結ばれていく。管制室の全員が、息を飲んだ。

​ スクリーンに映し出されたのは、フロンティア2の太陽光パネルの隅だった。

 そして、その表面に、宇宙塵で描かれた、たどたどしい文字があった。

​『 K I K O E R U 』

​ 誰からともなく、拍手が湧き起こった。やがてそれは、割れんばかりの歓声になった。

 ジムは、ドームの床にへたり込んだまま、スクリーンを見上げていた。

「……ったく、手間かけさせやがって」

 その顔は、涙と汗でぐしゃぐしゃだった。

​ 翌日、NASAは新たなプロジェクトチームの発足を発表した。

 その名は、「プロジェクト・エコー」。深宇宙探査機との音声による直接対話を試みる、前代未聞のミッションである。

 そして、そのチームリーダー兼、主席コミュニケーターに、ジェームズ・サリバンが就任した。彼のデスクには、山積みの書類と共に、一冊の真新しい教本が置かれていた。

 ――『初心者のためのボイストレーニング入門』。

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