仮契約のアルファ様
清田あお
1
悪夢を見ている。また今日もだ、と落胆するが、夢は覚めてくれない。
覚醒に一歩足りない意識の膜を破ろうともがくが、息ができず身動きすらとれない。ないはずの左手首が焼けるようにひどく傷んだ。
鼓膜の奥でバリバリと轟音がする。猛火で肉が焼け、軋み、焦げる音。爛れた死臭が鼻腔に押し寄せてきて胃がよじれそうになる。
――助けてやるから、俺の後ろに隠れろ!
遠くで誰かが必死に叫んでいる。そして少し遅れて気付く。聞き慣れた自分の声だ。
そのうち、視界だけが静かに白んでいく。
「う、はああっ!……あっ、あ、はっ……」
勢いよく布団を蹴り上げ、強引に上半身を起こした。はあ、はあ、と喉から声にならない息が漏れるのを止められない。
窓から差し込む朝日に目が眩み、額から汗が何重にもなって落ちてくる。薄い粗末な寝間着の胸元はぐっしょりと濡れて不快だった。
(朝、か……)
朝を迎えられたことに、安堵する。部屋はいつもと変わらない。ほとんど物はなく、ごく少量の衣類と、テーブルの上に無造作に置かれた黄金の勲章があるだけだ。
薄いベッドから降りて重い身体を引きずり、汗まみれの寝間着を洗おうと廊下に出ると、エマとかち合ってしまった。挨拶する間もなく彼女の表情が歪む。
「起きるのが遅い! 今日こそ稼いでくるまで帰ってくるんじゃないよ! あんたはたらふく食う癖に家事は下手で鈍いんだから」
「はいはい、分かった、分かったうるせえな」
「ったく、いつまで寝てるんだか」
と悪態を背中に浴びつつジドは寝間着を脱ごうとするが、片手だと汗で濡れた寝間着が胴にくっついて脱げない。頭を地面にこすりつけんばかりに下げて脱ぎ、洗濯物の籠に放り投げた。
「ちんたらしてんじゃないよ! 職業案内所が閉まる前に行きなさい!」
「うるせーよ、今から行くっつってんだろ!」
負けじと毒づくと、思い切り後頭部をはたかれた。
「あんたがアルファだなんて今でも信じられないわ、こんな図体がでかいだけの怠け者の馬鹿が、本当にアルファなのかしらね?」
小言を背に受けながら外に出る。職業案内所は十時で閉まるから急がなければならない。
「今日はせめて千ルフランくらいは持って帰りなさいよ!」
このエマの様子では、ちゃんと稼いでこなければ夜でも閉め出されそうだ。
顔を洗おうと、庭先の井戸に向かう。右腕だけで桶に水を汲み、水桶を覗き込む。
少し日焼けしているが健康そうな肌質の顔。漆黒の髪は伸びきっているが艶があり、太い眉の下には、鷲のように鋭い目が二つこちらを見ている。まつ毛は水面でもわかるほどほど長くて太い。眉間からはっきりと鼻梁がのびた、男らしい造形の顔がそこにあった。
もう一度、瞬きをする。その瞬間、水には違う顔が映っている。鼻梁から左頬にかけて斜めに切ったような傷は赤黒く隆起して、右の人指し指でなぞるとごつごつと硬い。この傷のせいで一気に顔は恐ろしさを増す。唇に力を入れて無理やり笑顔を作ってみたが、鬼面が笑っているようで我ながら虫唾が走る。まだ十七歳なのに、何歳も老けてみえた。
(もう、一生消えねえのかな)
もう一度桶の水に目線を落とすと、逞しく血管の目立つ首と胸筋が見える。だが、右側の肘から下は、水に映ることはなかった。
(本当に俺がアルファかなんて、俺が聞きてえぐらいだよ)
顔を洗い、ジドは舗装すらされていない道をのろのろと歩き出した。
この大陸は、東のラトミア共和国と西のヴィルトゥエル王国がほとんどの面積を占め、両国の北方を広大なラパ山脈が抱いている。ジドはラトミア共和国の国境沿いに暮らす。
西に位置するヴィルトゥエル王国は、およそ千年続く王室が統治する王国だ。ヴィルトゥエルの初代国王はこの両国を抱く大陸を創造した太陽神・ヴィルテユールの化身だといわれる。その創造神が豊穣の女神を娶り、血脈を受け継ぐアルファ男子は「現人神」として今なお国王として君臨し続けている。自国民のみならず他国もその長きにわたる伝統と血統に畏敬を表し、ヴィルトゥエル現王の誕生日は他国でも祝日になっている――という一連の話を、ラトミア共和国では小等学校で習う。
ヴィルトゥエル国王は、尊き神の化身。
これは、国境を隔てているラトミアでは、どんな学のない貧民にも浸透している常識だ。
これまで両国はヴィルトゥエル王室への信奉と敬意を礎に、友好な関係を築いてきた。言語も通貨も同じ。法律はやや異なるが、通商目的でないなら人も物の移動も自由だ。国境を越えて結婚する国民もたくさんいる。
しかし、それはおよそ一年前に突如崩れ去った。
昨年の冬、ヴィルトゥエルがラトミアとの国境地帯のアラフォモア平野に派兵し、小規模な戦争になった。約三か月にわたる戦争――通称・『アラフォモア百日戦争』。戦は昨年停戦したが、まだ国境地帯のここは戦禍の傷が癒えていない。
ジドは、その戦争で左腕を失った。
「あー、もうさすがにさみ~な」
秋の朝の空気はもう冷たい。鬱蒼としげる樹林をかき分けてただ歩くと、ようやくウルド村が見えてきた。小ぶりの地方都市だが、仕事もジドの住む貧村よりはるかに多い。
案内所に着いたのは十時ぎりぎりだった。国境地帯はジドのように日雇いの仕事を探している男が多く、土木作業、畑仕事、牛舎の清掃などの力仕事が斡旋される。今日は求職者を捌き切ったのか、案内所の主人が書類仕事をしていた。
「おやじ、仕事ねーか」
主人がちらりとジドを見上げると、「またお前か」とため息をついた。
「残念だが、今日はもう人手が足りてる」
「そこをなんとか」
諂うのは気に食わないが、仕事がほしいのでお愛想笑いを作ってやった。
「だからもう今日は終わった、早く帰れ」
「頼む、なんの仕事でもいいから!」
机に手をつき頭を下げてしつこく引き下がるが、主人は意に介してくれない。
「今日はもうやれる仕事はない、帰ってくれ」
「頼む、何でもするから!」
思い直してもらおうと、少し引き留めるだけのつもりだった。だが、腕を掴まれた主人は弾かれたように「いてえっ!」と叫ぶので、咄嗟にジドは手を引いた。
「悪い、わざとじゃねえんだ」
慌てて謝るが、涙目の主人はジドに捕まれた腕をさすりながら睨んでくる。
「ずっと言ってやるのは悪いと思って黙っていたがな。お前は身体はでけえし力が強いが、その片腕だと採掘も農作業もろくにできねえ、肝心の手先は不器用で使い物にならねえ! 他を当たってくれ!」
一息に言い切ると、主人は帳簿を持ってそのままどこかへ行ってしまった。いつもこうだ。わざとじゃないのに、ジドは力が強すぎて、ちょっと力を入れただけですぐに人や物を壊しそうになる。
仕方ないのでとぼとぼ街中をぶらつき、他の職業案内所に駆け込むも、じろじろと顔と左腕のあたりをねめつけられるだけで、収穫はなかった。
昼も過ぎていよいよまずいと思い始めたとき、背後から声をかけられた。濃紺の制服の腰に短刀を携えたヴィルトゥエルの治安隊だ。治安維持を目的とした国家憲兵で、犯罪者の確保・処分を業務としている。数週間前、今日とおなじように仕事にあぶれた後、声をかけられたことがある。
「また今日もお願いできないか? 今日は難しい仕事だから、礼ははずむぞ」
何をさせられるか分かるから、行きたくない。でも行かないと、今日は家に帰れなさそうだ。
「……分かった」
ジドは力なく頷くしかできなかった。
そのまま連れていかれたのは、街から馬車で十分ほどのところに位置する貧困街の一角だった。屋根の煉瓦も煤けて黒ずんだ家ばかりで、中央を貫く道路の脇にはごみが山積して異臭を放っている。道にたむろする人々の服装は粗末で、ほぼ裸同然の娼婦が好奇の視線を向けては去っていく。
――この貧民街は偽造薬物の根城になっている。この顔を見つけたら私たちに教えてくれ。
と、馬車の中で警官に二枚の写真を見せられた。昨今、危険な薬草や鉱物が民間療法の薬として流通し、問題視されているが、戦争後の不景気のせいで貧民の間で薬物の密造と販売が後を絶たないのだと説明された。
「なあ、あそこにこの二人いるぞ」
道の突き当りの家をジドは指さすが「え? どこだ?」と治安隊は目を細めている。突き当りの掘っ立て小屋のべランダに写真の男達がいる。が、警官達は気付いていないようだ。
目当ての人影が遠くで動いたのを見てジドが全力疾走を始めると、すぐ追いついてしまった。
「おい」
ジドが男の肩を軽く叩くと、それだけなのに、男は「ふべしっ」と声をあげて倒れ込んだ。
「うわあああああああああああ――っ!!」
もう一人が牛刀を振り回しながらこちらにもう突進してくる。このまま牢屋行きか、逃亡して指名手配されるか、目の前の大男を殺すか、その三択しかないのだ。
「ったく、うるせーな」
右脚を回し、男の腿に回し蹴りをお見舞いしてやる。硬い大腿骨の感触がしたが、やわに折れたのは相手のほうだった。男はウガアッと呻いて地面に倒れる。
「おい、逃げんな諦めろ」
「畜生! なんなんだよこの馬鹿力ッ!」
男は必死で手をじたばたさせてもがくが、ちょっと上から押してやっただけで大人しくなる。警官たちが息を切らせて走ってきて、地面で伸びている密売人達を縄で縛り上げた。
「てめえ、この背の高さに腕力、さてはアルファだな!? てめえなんかくたばれ、生まれたときから恵まれたアルファのくせに! てめえのせいで俺達は人生終わった!」
男が地面でおさえつけられながら唾を吐く。ジドの靴にかかった。
「王室と貴族のアルファが勝手に始めた戦のせいで村の男手が大勢死んだ! 薬売らなきゃ、嫁も子供も野垂れ死ぬ! うちの子はまだ二歳なんだぞ、上級国民のアルファに分かるかよッ! お前らも死ね、死ね!」
「たっく、うるせえなごちゃごちゃ、早く黙れ」
一秒でも早く足元で喚く男達を黙らせようと、あえて強い言葉を吐きながら押し込めた。そこに息を切らした警官達がようやく走って寄ってきて、男達を縄で縛り上げる。男達はまだ諦めずわめきたてていたが、そのまま一人の警官に連れられて行った。
「おせえよ」
「き、君……足早すぎるよッ」
「おめーらがおせえんだよ」
まだ肩で息をしている。
「あいつらの戯言は気にするな」
隊員から「今日もありがとさん」と紙幣を渡された。一万ルフランだった。
「こんなにいいのか?」
思わず聞いてしまった。
「勿論だ、またよろしく頼むよ」
「あ、ああ……。どうも」
ジドは意識的に目の前の金に集中する。
――上級国民のアルファに分かるかよッ! お前らも死ね、死ね!
(ちくしょう)
さっきの男の声が耳で反響するので、思わず耳を掻きむしる。「気にするな」とは言われるが、気にならないわけがなかった。でも、これなら一週間の食費にはなりそうだ。たった一時間でこれだけ稼げた。これなら大手を振って家に帰れる。ほっと安堵の息が漏れる。そのたった一枚の紙きれを手汗が染みこむほど強く握り締め、ジドは帰路を急いだ。
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