第3話

 その日の放課後は、冷たい雨が降っていた。

 いつもより強く車椅子のグリップを握りしめ、水たまりを避けながら、俺たちは光莉の家へと急いだ。今日は週に一度の、合同勉強会の日だった。まあ、実態は一方的に俺が教えを乞うだけの時間なのだが。


「春樹、その公式は昨日も教えたでしょう。なぜ応用できないのですか?」


 広々とした光莉の部屋。カーペットの上に大きなテーブルを広げ、参考書とノートを睨みつけながら、俺は頭を抱えていた。目の前で腕を組む光莉先生は、今日も実に手厳しい。


「だって、ちょっと数字が変わっただけで、全然違う問題に見えるんだよ…」

「見た目に惑わされてはいけません。物事にはすべて、解き明かすための『理』があるのです。ほら、ここを見てください」


 光莉はそう言うと、車椅子を俺の隣に寄せ、細く白い指で俺のノートを指し示した。近くなった距離に、昨日と同じシャンプーの香りがふわりと香り、心臓が小さく跳ねる。彼女の滑らかな髪が一房、さらりと俺の腕に触れた。


「……っ」

「春-樹?」


 俺が固まっているのに気づいたのか、光莉が不思議そうに顔を覗き込んでくる。その、あまりにも純粋な瞳に見つめられて、俺は慌てて参考書に視線を戻した。駄目だ、意識しすぎだ。昨日の写真のせいだ。


「この問題が解けるまで、今日は帰しませんからね」


 少しだけ意地悪く笑って、光莉は俺の鉛筆を手に取り、真っ白な計算用紙に鮮やかな数式を書き連ねていく。まるで美しい模様を描くように、複雑な問題が解き明かされていく様を、俺はただ呆然と眺めていた。


 光莉は、学年で常にトップの成績を維持している。

 彼女の夢は、将来医学博士になって、自分のような人間を一人でも減らすことだと、いつか聞いたことがあった。


 その横顔は、いつになく真剣で、凛としていて、そして、ひどく綺麗だった。


 キラキラと輝く、手の届かない星。

 俺なんかが、いつまでも隣にいていい存在じゃない。


 ふと、そんな思いが胸をよぎった。

 雨音だけが響く静かな部屋で、俺は気づいてしまったのかもしれない。俺たちのこの「二人三脚」には、いつか終わりが来るのだという、残酷な事実に。


 彼女が夢を叶えて遥か高みへと羽ばたいていく時、足手まといの俺は、きっともう、その隣にはいられないのだ。

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