白い契約書:愛なき結婚に花を
みずとき かたくり子
第1話 裏切りの報せ
伯爵家の長女クラリティ・フィオーレは、朝から少し浮かれていた。今日は婚約者リーヴェントン・グラシアと久しぶりに顔を合わせる日だ。結婚が正式に決まる日程を話し合う予定だった。クラリティにとって婚約者との時間は特別であり、彼に対する期待と憧れが彼女の胸を満たしていた。だが、その幸福感は、彼女が客間に通されてから数分後に打ち砕かれることとなる。
「クラリティ、今日ここに来たのは君に大事な話をするためだ。」
リーヴェントンは開口一番そう告げた。その顔にはいつもの穏やかな笑みも、甘い言葉もなかった。何かがおかしい、とクラリティは本能的に感じた。
「……何の話でしょうか?」
クラリティは平静を装おうと努力したが、声が微かに震えてしまった。リーヴェントンはその震えに気づかないふりをして、冷淡な声で言葉を続ける。
「婚約を破棄させてもらう。もう君と結婚するつもりはない。」
一瞬、クラリティは彼の言葉の意味を理解できなかった。婚約破棄――その言葉が頭の中で響き、そして次第に重くのしかかる。
「なぜ……ですか?」
ようやく言葉を絞り出したクラリティに、リーヴェントンはため息混じりに答えた。
「君との婚約は父が勝手に決めたものだ。だが、私は侯爵家の令嬢と結婚することを決めた。彼女との関係は本物だ。君と形式的な結婚をする理由はもうない。」
その冷酷な説明を聞いた瞬間、クラリティの心は粉々に砕かれた。彼女がどれほど彼との未来を夢見ていたか、どれほど彼を信じていたか、すべてが無駄になったのだと悟った。だが、それ以上に彼の態度が許せなかった。まるで彼女が何の価値もないかのように振る舞うその冷たい目が。
「……そうですか。では、お幸せに。」
クラリティは必死に涙を堪え、感情を押し殺してそう言った。それが彼女にできる唯一の抵抗だった。
リーヴェントンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに肩をすくめて立ち上がった。
「君も良い人生を。」
その言葉を最後に、リーヴェントンは客間を去っていった。その後ろ姿が見えなくなると同時に、クラリティの膝は力を失い、彼女はその場に崩れ落ちた。
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家族に事の顛末を報告したとき、クラリティは二重の衝撃を受けた。母は「あの子が婚約破棄されるなんて、なんて恥ずかしいことなの!」と声を荒らげ、父はただ眉間に深い皺を寄せるばかりだった。
「クラリティ、婚約を破棄されたとなれば、私たちの家の立場は危うくなるのよ。どうして彼を引き留めなかったの?」
「……私は何も悪いことをしていません。」
クラリティのか細い反論は、母の叱責にかき消された。彼女の無力感は深まるばかりだった。
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婚約破棄の噂はすぐに広まった。クラリティがどこに行っても、貴族の噂好きたちの視線が彼女を追った。彼らの目には同情などなく、ただ彼女を面白おかしく笑いものにしようという意図しかなかった。
「聞いたかしら?クラリティ様は婚約破棄されたそうよ。」
「ええ、しかも彼女は侯爵家の令嬢に取られたとか。」
「そんなこと、はじめから無理な話だったのよ。」
クラリティは表面上微笑みを保ちつつ、内心では彼らの言葉に傷ついていた。彼女の中で沸き起こるのは、リーヴェントンへの失望と、それ以上に自分が無力であるという思いだった。
彼女は自室にこもり、誰にも会わずに過ごすようになった。家族からの冷たい視線も、社交界での蔑みも、すべてが彼女の心を蝕んでいった。
「私は何も悪いことをしていないのに……どうしてこんな目に遭わなくてはいけないの?」
夜、一人きりで泣き崩れるクラリティの姿は、誰にも知られることはなかった。
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その孤独の日々の中で、クラリティの元に一通の手紙が届いた。それは、彼女の人生を大きく変える契機となるものであった。手紙の送り主は、ローゼンハイト公爵家の当主、ガルフストリーム・ローゼンハイト。彼はこう書いていた。
「私は君に提案がある。この内容に興味があれば、明日の夕刻に私の屋敷を訪れてほしい。」
冷静な筆跡の文字は、クラリティの胸にかすかな疑問と希望を抱かせた。このまま何もしなければ、自分の人生は終わってしまう。けれど、この提案に乗ることで何かを変えられるかもしれない――。
クラリティは深い息をつき、翌日の約束に向けて小さな決心を固めた。
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