外伝②『監視者のためのノクターン』

 『生徒番号255』は、傑出した生徒ではなかった。

学力は常に平均。身体能力も規定値を僅かに上回る程度。彼の特異性が発揮されるのは、ただ一点においてのみだった。――『観察』である。

彼にとって、全校生徒が一糸乱れぬ統制下にある状態は、至上の芸術だった。第四種匍匐で廊下を移動する【第12条】生徒たちの、ミリ単位で揃った指先の動き。授業中に20秒周期で一斉に行われるまばたき【第17条】の、静かな美しさ。彼はその完璧な調和を愛し、それを乱す僅かな不協和音――『瑕疵(かし)』――を発見し、報告することに自らの存在意義を見出していた【第161条】。

隣の生徒の呼吸リズムの0.1秒の乱れ【第16条】。前の生徒の背骨の角度の0.5度の傾き【第24条】。遠くの生徒の視線が、規定された未来から逸れて窓の外に向かう、その一瞬の気の緩み【第52条】。彼は、それらを見逃さなかった。彼の提出する『観察記録』【第163条】は、常に教官から高い評価を受けた。それは、彼にとって唯一の誇りだった。

彼は、違反者を憎んでいたわけではない。むしろ、哀れんでいた。システムから逸脱したバグは、全体の調和を乱すだけでなく、いずれ自己を崩壊させる。だから、早期に発見し、報告し、再教育【第97条】の機会を与えることこそが、彼なりの『慈悲』だったのだ。転校生『生徒番号441』が引き起こした革命騒ぎの際も、彼はその微細な変化を初期段階から記録し、報告し続けていた。システムが正常に機能していれば、あの男はもっと早くに『浄化』されていたはずだと、彼は信じて疑わなかった。

だから、あの日、学園が崩壊した日は、彼にとって世界の終わりだった。

ピアノソナタという名の無秩序な音波が脳を揺さぶり、生徒たちが感情という名のバグを撒き散らしながら狂喜乱舞する。ゲートが開き、外の混沌とした世界が流れ込んでくる。それは『解放』などではない。『汚染』だ。完璧に滅菌された無菌室に、未知のウイルスが侵入してくる光景だった。彼は混乱の渦の中心で、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかった。報告すべき違反が多すぎて、彼の処理能力を遥かに超えていた。何より、報告を受け取るべきシステムそのものが、失われてしまったのだから。

社会に放出された『元・生徒番号255』は、静かな幽霊のように生きた。

幸い、彼の規律正しい生活態度は評価され、小さな市役所の戸籍係という職を得た。毎日同じ時間に起床し、同じ電車に乗り、同じデスクに着く。書類のフォーマットは完璧に遵守し、一文字の誤字もなく【第57条】、常に無表情で業務をこなした。彼は、周囲から「真面目だが、何を考えているか分からない男」と思われていた。

だが、彼の内部では、失われたはずのシステムが再起動していた。

同僚たちの世界は、『瑕疵』で満ち溢れていた。

9時始業にもかかわらず、8時59分58秒に席に着く者。許可なく席を立ち、給湯室で私語を交わす者たち【第76条違反】。デスクの上を、個人的な写真やカラフルな文房具で飾り立てる行為【第67条、第86条違反】。昼休みにはレーション以外の食物の味について語り合い【第88条違反】、週末の娯楽の計画を立てていた【第73条違反】。

彼は、それら全てを、かつて学園で貸与されたノートの最後のページに、秘密裏に記録し始めた。

『高橋:10時15分、非言語的表現(ため息)を確認【第134条】。業務への集中力低下と推察』

『鈴木:14時32分、不要な比喩表現(「猫の手も借りたい」)を使用【第53条】。思考の混乱が見られる』

『佐藤:終日、背骨の角度が規定値(90度)を逸脱。精神の弛緩が疑われる【第24条】』

彼は誰かを罰したいわけではない。ただ、記録するのだ。そうしなければ、世界の秩序が保てないような気がして、不安で仕方がなかった。ノートが瑕疵で埋め尽くされていくにつれて、彼の心は奇妙な安らぎを得た。そうだ、世界は本来、こうして監視され、記録され、管理されるべきなのだ。

ある日の夜。残業を終え、アパートへの道を歩いていると、公園のベンチで若い男女が楽しそうに笑い合っていた。身体的接触も見られる【第81条違反】。彼は足を止め、暗がりからスマートフォンを向けた。カシャッ、という無機質なシャッター音が、彼の心に秩序の鐘のように響いた。

帰宅後、彼は薄暗い部屋でパソコンを立ち上げる。彼がここ数ヶ月、心血を注いで構築してきた、個人用データベースを開いた。そこには、職場の同僚、近隣住民、電車で乗り合わせる人々、果ては今日公園で見た名も知らぬ男女まで、数百人分の『観察記録』が、学園の報告書と全く同じフォーマットで保存されていた。

写真、行動パターン、違反内容、そして彼独自の分析。それは、彼だけが神である、完璧な相互監視社会のミニチュアだった。

彼は、満足げに息を吐いた。

学園はなくなった。だが、彼の役割は終わらない。

この混沌とした世界で、秩序の番人となれるのは、自分しかいないのだから。

窓の外では、無数の人々が自由を謳歌し、非効率で、バグに満ちた日常を送っている。

元・生徒番号255は、その光景に背を向け、キーボードを叩く音だけを部屋に響かせる。

彼は、自らが作り上げた見えざる檻の中で、永遠に他者を監視し続ける。

それが、狂気の学園が彼に与えた、決して解けることのない呪いであり、唯一つの存在理由だった。

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