第二節 消えた庭

 庭に出ると、土の匂いが鼻をくすぐった。しゃがみ込んで手を伸ばすと、湿った土が指にまとわりつく。そのざらつき一つで季節がわかったのに――いまは、感触がどこか遠い。


 夫との春のひとときだった。

「ねえ、あなた。この土、まだ朝の冷たさが残ってるわね。でも、指の中で崩れる感じがちょうどいいわ」

「うん、湿り気もちょうどいい。昨日の雨が効いたな。…このビオラの苗、葉っぱがすべすべして気持ちいいぞ」

「ほんとね。ふわっとしてて、春の芽吹きって、手でも感じられるのね。」

「こっちのラベンダー、茎がもうしっかりしてる。指に少しざらっとするくらいだ」

「そのざらざら、根がちゃんと張ってる証拠よ。頼もしいわね」

「あっ、ミミズがいた。ちょっとびっくりしたけど…こいつがいるってことは、いい土ってことだな」

「ミミズのヌルっとした感触、苦手だけど…たしかにありがたい存在ね」

「手袋越しでも感じるよな、あのぬめっとした感じ」

「もう――やめてよぅ。ははは……風が気持ちいい。頬をなでるような春風って、ほんと特別」

「そうだな――」

「ねえ、終わったらミントティーでも飲みましょ」

「いいね。さっき触ったミントの葉、指にまだ香りが残ってるよ」


 娘が十歳の夏だった。

「ママ、ひまわりの葉っぱ、ざらざらしてるね。なんか紙やすりみたい」

「そうね。ひまわりの葉っぱは産毛がいっぱいで、ちょっとゴワゴワするのよ。虫が嫌がるためなんだって」

「ほんとだ。朝顔の葉はちがう。こっちはやわらかくて、ふわってしてる…なんか、子猫の耳みたい!」

「いい表現ね。朝顔の葉は薄くて、しっとりしてるから、朝露も吸いやすいのよ」

「この葉っぱは、なあに? さわると、指にいいにおいがする!」

「ローズマリーよ。その葉はハーブの仲間だからね。指先がちょっとベタベタするでしょ? 香りのオイルが出てるの」

「うん、なんか夏のにおいがする――」


 ――あの笑い声たち、いまも耳に残っている。


「お母さん、土いじりばかりして、手が荒れるでしょ」

 娘が中学生になったころ、そう言って台所からハンドクリームを持ってきてくれた。

「これを塗れば大丈夫」

 その小瓶を手渡す娘の表情が、いまもまぶしい。


 土の温度、茎の硬さ、葉の裏の産毛――私はそれらを掌で確かめながら生きてきた。けれど今、指先に触れるのはただの「鈍い感触」だけだ。土は湿っているはずなのに、乾いた紙のようにしか伝わらない。葉を撫でても、ざらつきも柔らかさも消えている。


「お母さん、この花の名前、なんだったっけ?」

 

 遠くから、娘の声が小さく響いてくる。

 娘に聞かれても、もう私には答えられない。口を開いても、音が出てこない。胸の奥に確かにあったはずの花の名前も、植えたときの季節も、夫の笑い声さえ……薄れてゆく。


 今、残っているのは、指先のわずかな痺れだけ――その痺れもすぐに消えて、庭のすべてが記憶からほどけ落ちていった。

 

 ふと眺める――ん? この庭で何か、あったのかしら?

 

 気がつけば、庭での記憶のすべてが抜け落ちていた……。

 

 

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