余韻【伍】 ーそして、私は生まれた(触覚)ー
枯枝 葉
第一節 老いた掌
九十五歳のこの手は、もうすっかり痩せ細り、血管が浮き上がり、皮膚は紙のように透けてしまった。
朝方、目を覚まして布団を引き寄せるたび、骨の硬さばかりが気になり、自分自身が風化していくのを知る。
布団の綿はくたびれて、肌に当たるとざらついている。若いころなら気にも留めなかった感触が、今では一日の始まりを告げる確かな合図となった。
思えば、この掌はさまざまなものに触れてきた。夫の背中のぬくもり、机の木目、インクに染みた帳簿の紙、そして生まれたばかりの我が子の頬のやわらかさ――。いま、仮に触れることができても、それらはすぐに遠い記憶の底深く沈んでいくだろう。
夫は十年前に逝った。夜ごと隣に伸ばすわたしの手は、もう温もりを見つけられない。冷えきった布団の布目をなぞるたび、胸の奥まで寒さが染み込んでくる。
「おい、先に寝るぞ」
「ええ、どうぞ。私ももうすぐ終わるから、先に寝てて……」
そんな何気ない会話が、今も耳に残っている。生返事をしながら机に向かっていたあの頃が、繰り返し夢に出てくる。
定年まで勤め上げた事務所の机は固く、冬の朝は冷たさで指先がかじかんだ。けれども、紙のざらつきや、ボールペンがすべる心地よさが、私に仕事の楽しさを与えてくれていた。
夢の中で時おり、その感触を追体験することさえある。
夫が迎えに来る気配を背中に感じながら、書類をとじる瞬間の机の端の角張りや、インクの匂いまでも鮮明に蘇るのだ。けれど、目が覚めるとそれらはすべて、霧のように消え去り、ただ冷たい布団だけが私を取り囲んでいる。
娘は六十七歳になった。結婚もし、孫もいる。けれども娘の家族の暮らしは、もう私の掌からは遠い。電話の受話器の冷たさだけが、いつもつながりを確かめる唯一の手触りになっている。昔は温もりがあった気もするのに、今はただ冷たい。
「お母さん、元気にしてる?」
受話器の向こうから響く娘の声は、いつも少し早口で、せわしない。鍋の蓋を閉める音や、遠くで孫が呼ぶ声が、細く混じる。
「元気よ。……あなたたちは?」
「うん、忙しいけど大丈夫。来週、子どもの試合があってね。土日は送迎でバタバタなの」
「そう、頑張っているのね」
言葉を交わしながら、私は黒い受話器の表面を指で撫でていた。昔は温もりを感じた気がするけれど、今はただ冷たいだけだ。娘の声に返す相槌の合間、私は彼女の声の抑揚に耳を澄ませている。どこか急いでいて、電話で長くは繋がっていられないことが、声の端々に滲んでいる。
「また時間できたら顔出すから」
「ええ……無理しなくていいから」
通話が切れると、耳に残るのは電子音の短い余韻だけ。掌に残ったのは、冷たいプラスチックの感触だけだった。
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