第3話 言えないこと
カウンターに肘をつきながら、岸はため息をひとつ落とした。
グラスの中の氷が小さく音を立てる。
「会社でまた聞かれたよ。『彼女いないの?』って」
「お決まりのやつねぇ」
エンママが片眉を上げる。
「で、どう返したの?」
「仕事が恋人って、いつものごまかし」
タンタンが吹き出すように笑った。
「ははっ、それ何回目よ。もう“定型文”じゃん」
「……笑いごとじゃないって」
自嘲気味に返す声が、自分でも情けなく聞こえた。
⸻
偏見の影
「でもさ」
タンタンは少し真顔になり、グラスを傾ける。
「俺なんか、前の職場でバレたんだよ。ゲイって。
そしたら飲み会で『俺は大丈夫だけどさぁ』とか言われて。
全然“大丈夫”じゃねえよっての」
「うわぁ……」
岸は眉をひそめた。
“理解してる風”の言葉ほど、残酷なものはない。
「あるあるよねぇ」
エンママが苦笑する。
「『別にゲイでもいいけど』ってやつ。あれ、『別に』が余計なのよ」
カウンターの空気が少し重くなる。
それでも、ここでしか言えない言葉たちだった。
⸻
安心の灯り
「でもさ」
エンママが手を叩き、空気を変えるように明るく言った。
「社会なんて急に変わりゃしないのよ。でも、ここに来れば大丈夫。
アンタがゲイでも、弱音吐いても、誰も責めない。
ここじゃ岸は“岸”でいいの」
その言葉に、胸の奥の緊張がふっと解けていくのを感じた。
会社では絶対に出せない自分の声。
それがこの場所では、自然に溢れ出していた。
――ここが俺の唯一の逃げ場だ。
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