第3話
私──語堂つぐみの晴れ舞台は、生憎の雨だった。降り注ぐ雨が、教室の窓を叩きつけている。私はそれを、窓際で静かに見つめていた。
それは実際、卒業式を迎えた私達への、天からの祝福の音なのかな──なんて、文芸部らしい?ロマンチックなことを考える。
(さっきまでは、雨の音も聞こえなかったのになぁ)
卒業式を終えた教室は、雨音を掻き消すほど、涙と、思い出を交し合う活気で溢れていたのに。卒業文集の余白に、クラスメイトへのメッセージをしたためるペンの音の方が大きかったのに。
緩やかに、クラスメイトの数は減っていって……今や、私一人になった。
(出会いと別れの季節、なんていうけど……大きく人生が変わる日、ってことなんだよね)
そんなことを考えていると……一瞬で、窓ガラスが曇っていた。
私は窓に指を走らせていき──『スキ』と文字を刻んで、すぐに手の平で塗り潰した。
(うーん、これでも、思いきりはいい方なんだけど……)
何故、その一歩が踏み出せないのか。
好きな人に告白したい、付き合いたい、至って純然な気持ちなのに、どうして迷いが生じているのか。
結局、この日を迎えても、そんな自分からは卒業できなかった。
と、心の中でため息をついていると。
「はぁ……はぁ……つぐみ、ごめん、部活の人と話し込んじゃって……」
息を切らした奏音が、そう言いながら教室に入ってきた。
「そんなの気にすることないのに。くすっ、卒業しても、奏音は奏音ね」
私達は、卒業文集を交換する。後ろの余白に、メッセージを交し合う。
「僕は僕って、どういう……?」
書き終わったあと、可愛らしく小首を傾げる奏音。私は、肩に手をぽんっと乗せた。
「簡単に言えば、優しいわねってこと。……ってか改めてだけど、ホント、いつの間にか、背抜かされたわね」
「あ、確かに。いつからだろうね……高校入ったときは、まだつぐみのが大きかったよね……?」
「えぇ、そうね。気づいた時には、抜かされていたわね。……それはきっと、身長だけじゃなくて内面の部分でも」
「内面……? そんな、僕がつぐみを……」
「謙遜する必要ないわよ。今やあなたは声楽家の期待の新星、なんだから」
「いや、そうはいっても…………お、音大で通用するかは分からないよ……。それに──」
「それに?」
「……僕が、変われたのは──つぐみのおかげだから。中学の、合唱コンクール──つぐみが、僕をスイミーにしてくれなかったから……だから、つぐみのおかげ──ありがとう」
淀みのない、笑顔の花を咲かせる奏音。この外の曇天をも、晴天に変えてしまいそうな笑顔だった。
あぁ、なんでだろう……今の私には、眩しすぎる。
「私はきっかけを作っただけで、道を切り拓いたのはあなたでしょ? あなたの個性を輝かせられるのは、あなただけなんだから」
「そうかもしれないけど……うぅっ、つぐみは本当に、いつも真っすぐだ……」
「……そう、かな? でもやっぱり……私はさ、”あなた達”みたいに、これといった取り柄が無い──」
そう言いながら、気づいた。
だから、私は……彼に──誠に思いを告げる勇気が出ない──いや、もはや資格がないとまで、考えているのかもしれない。
「あなた”達”って……そ、それは、深町くんのこと……?」
そのことに、奏音にも気づかれてしまったようだ。素直に私は、頭を縦に振る。
「……誠も、文学賞を受賞して、将来を期待されている。なんか、私だけ置いてけぼりって感じじゃない」
「じゃあ、そんな僕たちに好かれるつぐみもすごいよ」
「ホント、言うようになったわねぇ奏音。でも、ありがとう」
私の言葉を受け、顔に紅葉を散らす奏音。そして、言いづらそうな様子で唇を開く。
「……えと、だから、深町くんに告白しないの?」
「……そう、なんだろうね。自分でも、自分の感情……よく、分からないけど」
劣等感に似た何かを、私は抱いているのだろう。奏音に強い友愛を、誠に恋慕を寄せているからこそ……。
ふと、首を回すと、また窓ガラスは曇っていた。それは私の心を、象徴するように。
「つぐみがそれだけ悩むって……恋愛って、なんだか不思議だね……」
「そうね……恋愛小説は、沢山読んできたけど……その真髄は、分からないわ」
「そういえば、小説とか物語の世界だとよく……卒業式はさ、好きな人の第二ボタンを貰うっていうよね」
「それ、学ランの話だから」
「え、そうなの?」
「そうよ。奏音、どうして意中の相手の第二ボタンをもらうか知らないでしょ」
「う、うん……どうして?」
「学ランの第二ボタンはね、ちょうど心臓の位置にくるの。だから、心臓──命のように大切な人、と伝えるために第二ボタンだそうよ」
「そうなんだ……。そういう、いっぱい本を読んでるからこそ、博識なつぐみが……つぐみの、取り柄というか……個性、なんじゃないかな」
「え……そう、かしら……?」
「うん。僕と深町くんが、つぐみを好きな、一個の要因だと思う。少なくとも僕には無い……つぐみだけの個性だよ」
私は、ただ本が好きなだけで。好きな人を守りたかっただけで。思い出を作りたかっただけ。そんな、簡単な感情で行動してきた。
だから、奏音と合唱コンクールを作り上げようと──誠と一緒に月下美人を見た。
「……一応、誠のことは呼び出しているのよ。部室にね」
「え、そうなの? じゃあ──」
「いや、でも別に私達の関係性なら、一対一で呼び出してもおかしくないし……正直、別に今気持ちを伝えなくてもいいかなって方に、天秤は傾いているわ」
「そうなんだ。もちろんそれは、つぐみが決断することだけど……」
でも、と言葉を続けて。
「僕も、僕の個性で……つぐみの背中を押してあげたいって思う……」
そう言って、奏音は深呼吸をする。
するとまるで世界が一変したかのように、辺りが彼女の空間に成り代わる。
そして、静かに、歌声を紡ぎ始めた。月並みな感想かもしれないけれど。
本当に、天使のような歌声だった。
透き通る歌声が、まるで伴奏のような静謐な雨音に調和している……。
その旋律は、私を優しく抱擁しながら……。
永遠に聞いていたいと、余韻を残しながら……。
静かに、フェードアウトしていった。
奏音は歌い終わると、緩やかに口角をあげた。
「えと……僕の学校生活を──ううん、人生を彩ってくれたのは、つぐみなんだよ。僕の青春の一ページ目は……つぐみが奏でてくれたんだ」
「奏音……泣けること、言うじゃん……」
「卒業式はそういう日なんだよ」
「あはは、それはそうかもね……」
「……い、いやでも、思いを伝えるかどうかは、本当に、つぐみ次第だからっ」
慌てるように手をぶんぶんと振るう奏音。「もちろん分かってるわよ」と言いながら、こういうところは奏音、変わらないなぁと思う。
「──っと、そろそろ誠と待ち合わせの時間だわ。ありがとう奏音、勇気もらった」
私を手を挙げ、バイバイと振って踵を返す。ドアの方へと、小走りで駆けていく。廊下に出ようか──というとことで、奏音が私の名前を呼んだ。
「卒業、おめでとうっ!」
振り向くと、奏音は、奏音だけの笑顔を咲かせていた。
「えぇ、これからも、よろしくねっ!」
かつての私達に、これからの私達に挨拶をするように、そう言い放った。
廊下に出て、足早に進んでいく。あぁ、廊下を走るのも、これで最後なんだなぁなんてことも思いながら。
彼と対面して、何を言うのか──正直、分からない。
それでも……未だ全身を包み込む奏音の調に乗るように、進んでいった。
辿り着いた、部室の前。心臓が、高鳴っている。
ゆっくりと、引き扉に手をかけ、スライドする。
誠は──雨の音をBGMにするように、椅子に座って一人、本を読んでいた。ゆっくりと、私の方を振り返る。
「え、どうしたの語堂さん、そんな息切らして……」
首を傾げ、疑問符を浮かべる誠。
(私は──)
好きと、その二文字を伝えるだけで、きっと運命が変わる。自分の足で一歩を踏み出し、人生が変わった奏音のように。
「ねぇ、誠」
自然と、言葉が出ていた。名前を呼んでいた。
それでも……。
「え、何?」
「えっと、その──」
続きの言葉は出ずに、言いよどむ。
そして、なんとか喉を通ったのは。
「卒業、お、おめでとう……」
その言葉だった。
「うん、おめでとう、語堂さん」
「誠は、これからフリーの作家だもんね……あんたの学校生活は、ホントにここで終わりなのね」
「そうだね。その選択を後悔しないように頑張るよ。語堂さんのためにも」
「私のため?」
「うん。ほら、一緒に小説書いたとき──月下美人、見に行ったときのこと。あれで、俺はスランプから抜け出せて……」
どこか照れ臭そうに、誠は頭を掻きながら言った。
あぁ、そっか、私は──。
友達と好きな人の夢を、隣で見る資格はあるんだ。
でも、これで分かった。
まだ、私は二人と同じ舞台に、立てていない。
「……ねぇ、誠。私には、まだ……ちゃんとした夢がない」
「そう、なんだ……でも、大学できっと、見つかるよ。語堂さんだけの夢」
「あんたも、奏音も──私のおかげで、って言ってくれてるけど……少しだけ、劣等感みたいなのあったんだ」
「そんな、考えすぎだって」
「それだけ、夢追い人っていうのはカッコよく映るのよ。でも……そんな自分とは、今日でお別れ。私もあんた達のように、夢を見つけて、そしたら──」
出会いと別れの季節。変化と成長の兆し。
それはきっと、自分だけの夢を持っているから──だから、変わっていけるんだ。
私は、彼の双眼をしっかりと見つめて。
「──そしたら、誰よりも近くで、誠の夢を応援したい」
高鳴る心臓を抑えながら、私は言葉を刻んだ。
「え……それって──い、いや、今でも充分」
顔に困惑を彩る誠。私はその顔を、覗き込むように距離を詰める。すると、彼は驚いたように、口をつぐんだ。
「くすっ、今以上によ。私はあんたの第二ボタンになりたいんだから」
「第二ボタン……?」
「あんたも、奏音と同じで知らない感じ? ま、今はそれでいいけどね」
私は拳を握って、誠の心臓の辺りにぽんっと押し当てた。
「い、いや、俺の第二ボタンと言われても……」
誠はほのかに頬を赤らめながら、頭を掻いた。
「その答えも、私が夢を見つけたら、分かるわ」
「……そう、なのか。じゃあ、俺も夢を追いかけながら、待ってようかな」
「うん」
私が頷くと、空間に静寂が訪れる。
しかしすぐに、誠が口を開いた。
「……雨、止むまで、最後の部活動しようか」
誠は先ほどまで読んでいた小説に視線を寄せる。私はこくりと、首を振った。
そして……。
雨の音に、ページを捲る音が重なった。
青い春の最後は、紙の香りに、溶け込んでいった。
まだ見ぬ、未来のページを求めるように、物語の世界に没頭した。
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