第6話「魔界からの使者(前編)」

 ミオが生後六ヶ月を迎えた頃、我がシェアハウスにはすっかり日常というものが根付いていた。


 朝七時。


 イグニスがキッチンで朝食を作る音で目が覚める。フライパンが焦げないギリギリの火加減——彼女なりに、随分と上達したものだ。今では、卵焼きもベーコンも、ほとんど焦がすことなく作れるようになった。かつては「料理は強火が基本!」と豪語していた彼女が、今では弱火で丁寧に調理している姿を見ると、時の流れを感じる。


 朝七時半。

 アクアが一階の掃除を始める。彼女の手にかかれば、どんな汚れも一瞬で消え去る。最近では、魔法を使わずに掃除することも覚えた。


「魔法に頼ってばかりじゃ、ミオに良くない」


 と、彼女は真剣な顔で言う。確かに、魔法で一瞬で全てが片付く光景を見せるより、ミオに「掃除は丁寧に、時間をかけてやるもの」という姿勢を見せたいのだろう。彼女なりの、教育方針だ。雑巾がけをする彼女の姿は、水の精霊とは思えないほど人間らしい。


 朝八時。

 シルフが窓を全開にして、家中に新鮮な風を通す。ただし、風が強すぎてカーテンが破れたことが二度ほどあった。今は、控えめな風量を心がけているらしい。それでも、時折強い突風が吹いて、リビングの新聞が宙を舞う。


「あ、ごめん」


 とシルフは毎回謝るが、繰り返している。彼の風は、まだ完全には制御しきれていないようだ。


 朝八時半。

 テラが庭に出て、野菜の手入れをする。彼の育てる野菜は、異常なまでに成長が早い。一週間でトマトが実り、レタスが収穫できる。


「ミオには、新鮮な野菜を食べさせたいからな」


 と、彼は優しく微笑む。庭の一角には、ミオ専用の菜園がある。そこで育つニンジン、カボチャ、サツマイモは、全てミオの離乳食用だ。テラの愛情が込められた野菜たちは、どれも艶々と輝いている。


 朝九時。


 私は、ミオを抱いてリビングに降りる。四人が「おはよう」と声を揃え、ミオが「あー」と応える。その声を聞くたびに、胸が温かくなる。


 何の変哲もない、穏やかな毎日。

 かつて我が魔王軍一万の配下を率いて戦場を駆けた日々が、遠い昔のように思えた。


 剣を振るい、魔法を放ち、敵軍を蹴散らした日々。

 勝利の後の虚しさ。

 支配することの孤独。


 あの頃の私は、何のために戦っていたのだろう。

 今となっては、思い出せない。


「ばー」


 ミオが私の顔を見上げて、笑う。


 首が完全に据わり、寝返りも自在になった。最近では、うつ伏せの状態から上半身を持ち上げて、周囲を見回すことも覚えた。さらに、ずり這いの練習も始めている。まだ前に進むことはできないが、その場で回転したり、後ろに下がったりすることは得意になった。


 床にプレイマットを敷いて、おもちゃを並べてやると、ミオは嬉しそうに手を伸ばす。お気に入りは、柔らかい布製のガラガラだ。それを振ると、優しい音が鳴る。ミオはその音が好きで、何度も何度も振っている。


 また、最近では人見知りも始まった。初めて会う人には、少し警戒するようになった。だが、私たち五人には、いつも満面の笑顔を向けてくれる。その笑顔を見るたびに、この子を守りたいという思いが、より強くなる。


「今日も元気だな」


 私が呟くと、隣でミオの様子を見守っていたテラが頷いた。


「ああ。昨夜もよく眠っていた。夜泣きも、ほとんどなくなったな」


「成長が早い」


「人間の子は本当に早い。まるで昨日生まれたばかりだったのに」


「まだ六ヶ月だぞ」


「それでも早い」


 テラは、ミオの頭を大きな手で優しく撫でた。ミオは嬉しそうに笑う。その小さな手が、テラの指を掴もうとする。掴む力も、日に日に強くなっている。


 この光景が、ずっと続くと思っていた。

 いや、続いてほしいと願っていた。


 平和な日々。

 笑顔に満ちた時間。

 家族としての絆。


 だが、運命は、私たちにそれを許さなかった。



 リビングでは、イグニスとアクアが、いつものように離乳食について議論している。


「そろそろ二回食にしたほうがいいんじゃないか?」


 イグニスが、育児書を片手に言った。ページには付箋がたくさん貼られていて、彼女がどれだけ真剣に勉強しているかがわかる。


「でも、まだ一回食を始めて二週間よ? 様子を見るべきだわ」


 アクアが、心配そうに首を横に振る。彼女の手元には、ミオの食事記録ノートがある。何を食べたか、どれだけ食べたか、反応はどうだったか——全てが几帳面に記録されている。


「二週間も経てば十分だろ。ミオは順調に食べてるし、もっと色々なものを食べさせてあげたいんだ」


「でも、急ぎすぎるとお腹を壊すかもしれないわ。赤ちゃんの消化器官は、まだ未発達なんだから」


「アクアは心配しすぎなんだよ。もっと積極的に——」


「イグニスこそ、いつも突っ走りすぎなの!」


 シルフが、ソファで本を読みながら呟いた。


「また始まったね」


「ああ」


 私は苦笑する。

 二人とも、ミオのことを真剣に考えているからこその議論だと分かっている。愛情の裏返しだ。


 イグニスは、ミオに美味しいものを食べさせたいと思っている。様々な食材を試して、ミオが喜ぶ顔を見たいのだ。一方、アクアは、ミオの安全を何より優先する。慎重に、一つずつ確認しながら進めたいのだ。


 どちらも間違っていない。

 ただ、アプローチが違うだけだ。


「じゃあさ」


 イグニスが、少し声のトーンを落とした。


「一回食のメニューを増やすのはどう? まだお粥と野菜ペーストだけだし、そろそろタンパク質も——」


「それは賛成」


 アクアが即座に頷いた。


「豆腐とか、白身魚とか。アレルギーに注意しながら、少しずつ試してみましょう」


「よし、じゃあ今日の昼に——」


「ダメよ。新しい食材は、午前中に試すの。アレルギー反応が出た時、すぐ病院に行けるように」


「……アクア、お前、本当に心配性だな」


「当然でしょ! ミオの安全が最優先なんだから」


 イグニスは苦笑しながらも、頷いた。

 こうして、二人は少しずつ、妥協点を見つけていく。

 この光景も、もう見慣れたものだ。


 イグニスとアクアの議論は、毎日のように繰り広げられる。だが、最終的には必ず妥協点が見つかる。そして、二人とも納得して、ミオのために最善を尽くす。


 この二人の関係性は、ある意味で理想的だ。

 一人では偏りがちな判断を、二人で補い合っている。

 家族とは、そういうものなのかもしれない。



 午後三時過ぎ。

 ミオが昼寝から目覚め、機嫌よく遊んでいた時のことだった。


 私は在宅ワークの手を止めて、ミオの相手をしていた。彼女の前におもちゃを並べ、どれに興味を示すか観察していた。今日は、赤いボールに興味があるようだ。小さな手を伸ばして、ボールを掴もうとしている。


 テラは庭で野菜の手入れ、イグニスとアクアはキッチンで夕食の準備、シルフは二階で昼寝——そんな、いつもの午後。


 窓からは穏やかな日差しが差し込み、リビングには柔らかな光が満ちていた。

 ミオの笑い声が響き、時折聞こえるキッチンからの会話。

 平和で、温かな時間。


 だが——。


 突如、家全体を覆っていた結界が激しく揺れた。


「——っ!」


 私は反射的にミオを抱き上げた。


 結界への干渉——それも、ただの干渉ではない。術式を無理やり捻じ曲げ、強引に侵入しようとする、圧倒的な魔力。


 この感覚、この圧迫感。

 肌を焼くような熱気。

 空気が歪む感覚。


 まさか。


 千年前の戦場で、何度も感じた魔力。

 あの、灼熱の破壊者の——。


 テラが庭から飛び込んできた。土まみれの手を拭うこともせず、険しい表情で言う。


「アスタロト、今の——」


「ああ。感じた」


 イグニスとアクアも、キッチンから駆け寄ってくる。二人とも、既に臨戦態勢だ。イグニスの手には炎が宿り、アクアの周囲には水の膜が展開されている。


「何だ、今の揺れ?」


「結界への干渉よ。それも、かなり強力な……」


 アクアの声が震えている。彼女の手が、僅かに震えていた。


 彼女は、魔力に敏感だ。この揺れが、どれほど異常か、誰よりも理解しているはずだ。


 そして、この魔力の質も。


 熱い。

 灼熱のような魔力。

 全てを焼き尽くす、破壊の魔力。


「この感じ……昔、感じたことがある」


 アクアは、顔を青ざめさせながら呟いた。


「大戦の時……あの、絶望的な戦場で」


 彼女の目には、恐怖が浮かんでいた。

 水の精霊が、炎を恐れるのは当然だ。

 だが、それ以上に——この魔力の主が、どれほど強大かを知っているからこその恐怖だ。


 二階から、シルフが降りてきた。いつもの飄々とした雰囲気はなく、真剣な表情だ。昼寝していたはずなのに、既に完全に覚醒している。


「来客みたいだね。しかも、VIP級の」


「分かるのか?」


「うん。この魔力……見覚えがある」


 シルフは、窓際に立って外を見た。冷静に、魔力の流れを分析しているようだった。風を操り、外の様子を探っている。


「昔、戦場で感じたことがある。灼熱の、絶望的な魔力」


 そして、僅かに目を細める。


「裏口の結界も確認した。こっちはまだ無事。でも、時間の問題かな」


「まさか、正面突破するつもりか?」


「みたいだね。隠密性ゼロ。堂々と、力で結界を破ろうとしてる」


 イグニスの顔色が変わった。


「まさか……」


「イグニス、心当たりがあるのか?」


 私が尋ねると、彼女は唇を噛んで頷いた。


「ある。大戦の時、一度だけ戦ったことがある。あの時の魔力と、似てる」


「誰だ」


「……魔王軍四天王の、誰か」


 その言葉に、リビングの空気が凍りついた。


 四天王。

 かつて私の右腕として、魔界を支配した四人の大悪魔。

 人間界との大戦で、彼らは数え切れないほどの命を奪った。


 そして、彼らは今も、魔界で強大な力を持っているはずだ。


 テラが、静かに言った。


「落ち着け、みんな」


 彼の声は、いつものように穏やかで、低い。

 大地のように、どっしりとしている。


「パニックになっても、ミオを守れない。冷静に、対処しよう」


 その言葉に、イグニスとアクアが深く息を吐いた。

 テラの存在が、二人を——いや、全員を——落ち着かせる。


 彼は、いつもこうだ。

 どんな状況でも、冷静で、頼りになる。

 みんなの支えだ。


 その瞬間、結界が再び揺れた。

 今度は、さらに激しく。

 まるで、結界そのものが悲鳴を上げているかのようだった。


「くっ……!」


 シルフが顔をしかめる。


「結界が持たない。このままだと、破られる」


「ミオを二階に」


 私はテラにミオを渡そうとしたが、彼は首を横に振った。


「いや、二階も安全じゃない。結界が破られたら、家全体が危険だ」


「では、どうする」


「ここで迎え撃つ。五人で、ミオを守る」


 その言葉に、全員が頷いた。


 イグニスは炎を纏い、アクアは水の盾を展開し、シルフは風を操る準備を整え、テラは大地の力を集中させる。


 そして私は、ミオを抱いたまま、玄関を見据えた。


 来るなら来い。

 我が魔王軍一万の配下でも敵わなかった者がいるとすれば——それは、四天王だけだ。


 だが、今の私には、守るべきものがある。

 ミオを、そして、この家族を。


 何があっても、守り抜く。



 玄関のチャイムが鳴った。


 いや、「鳴った」というより「叩き割られた」と表現すべきか。轟音と共に、チャイムが悲鳴を上げ、火花を散らして壊れた。


 まるで、高熱で回路が焼き切れたかのようだ。

 チャイムの破片が、床に落ちて煙を上げている。


「留守にしておくか?」


 イグニスが半ば本気で提案したが、私は首を横に振った。


「無駄だ。この気配……相手は私を知っている」


 そして、私も相手を知っている。

 この圧倒的な魔力と、傲慢なまでの存在感。

 間違いない。


「ベリアルか」


 その名を口にした瞬間、玄関のドアが——結界ごと——吹き飛んだ。


 いや、正確には「溶けた」。


 高熱によって木材が一瞬で炭化し、金属部分が赤く輝いて液状になり、結界の術式が焼き切られて霧散した。

 ドアの破片すら残らない。全てが、灰になって風に流された。


 その向こうに立っていたのは、深紅のスーツに身を包んだ長身の男だった。


 身長は190センチを超えているだろう。

 炎のような赤い髪を後ろに撫でつけ、鋭い顎のラインと、切れ長の深紅の瞳。

 仕立ての良いスーツは、まるで血のように深い紅色で、胸元には黒いネクタイ。

 白いシャツは、まるで炎の中でも決して燃えないかのように、完璧に整っている。


 だが、何より印象的なのは、彼の纏う「気配」だった。


 一歩踏み出すたびに、空気が歪む。

 周囲の温度が上昇し、玄関の壁紙が焦げ、床が煙を上げる。

 彼の足元には、靴底の形に焦げ跡が残る。


 制御しているはずなのに、それでも漏れ出す魔力が、周囲を焼き尽くそうとしている。


 これが、ベリアル。

 『焦熱の破壊者』。


 かつて、私と共に戦場を駆けた男。


「よう、アスタロト。久しぶりだな」


 低く、どこか嘲るような声。


 ベリアル。

 かつて魔王軍四天王の筆頭として、私の右腕を務めた男。

 炎を操る大悪魔にして、魔界でも指折りの実力者。

 『焦熱の破壊者』の異名を持ち、かつて人間界との大戦で、一つの国を灰にした男。


 そして、何より——私が、唯一信頼していた部下。


 あの頃、彼は私の影だった。

 私が剣を振るえば、彼が炎で敵を焼き払った。

 私が命令を下せば、彼が即座に実行した。


 戦場では、二人で数千の敵を屠った。

 勝利の後は、二人で酒を酌み交わした。


 だが、私が隠居を決めた時、彼は何も言わなかった。

 ただ、一度だけ、こう言った。


「いつか、また会おう。その時は、酒でも飲もう」


 あれから、何年経ったか。

 百年? それとも、二百年?


 時間の感覚が曖昧だ。


「随分と……くつろいでいるようじゃないか」


 彼の深紅の瞳が、リビングを、私たちを、そして私の腕の中のミオを、冷ややかに見据えた。


 その視線には、失望と、僅かな怒りが混じっていた。


 まるで、裏切られたかのような目だ。


「ベリアル」


 私は静かに、しかし明確な警告を込めて名を呼んだ。


「ドアを壊した理由を聞こうか」


「チャイムを鳴らしたぞ? 返事がなかったから、勝手に開けただけだ」


「三秒で壊すな」


「三秒も待ったのか。俺も丸くなったものだ」


 ベリアルは、リビングに堂々と足を踏み入れた。


 彼の一歩一歩が、床を焦がしていく。

 フローリングに、黒い足跡が刻まれる。


 アクアが小さく悲鳴を上げた。


「床が……!」


「後で直せばいいだろ」


 ベリアルは無感動に言った。


 イグニスが一歩前に出た。彼女の周囲の空気が、急激に熱を帯び始める。同じ炎使いとして、ベリアルに対抗しようとしているのだ。


「おい、アンタ。魔王様に向かって、随分と失礼な態度じゃないか」


「魔王様?」


 ベリアルは、ゆっくりとイグニスを見た。そして、僅かに目を細める。


「ああ……火の精霊か。『紅蓮の暴君』イグニス、だったか? 随分と久しぶりだな」


「……覚えてたのか」


「当然だ。大戦の折、貴様は我が軍の前衛を三度も焼き払った。あの炎は、見事だった」


 イグニスの表情が、僅かに歪んだ。


 大戦——人間界と魔界の、最後の全面戦争。

 あの戦いで、どれだけの命が失われたか。


 そして、イグニスも、その戦場にいた。


 彼女は、人間側で戦っていた。

 炎の精霊として、魔王軍に立ち向かった。


 そして、ベリアルと何度も激突した。


「……知り合いなの?」


 アクアが小声で尋ねた。イグニスは顔をしかめながら答える。


「知り合いなんてもんじゃない。敵だった」


「敵?」


「ああ。あの時、アタシは人間側で戦ってた。こいつは、魔王軍の四天王。何度も殺し合った」


「殺し合った、か」


 ベリアルは、僅かに笑った。


「懐かしいな。あの頃の貴様は、もっと荒々しかった。今は随分と……丸くなったようだが」


「……っ」


 イグニスの拳が、炎を纏った。


 だが、彼女は動かなかった。

 ミオがいるから。

 この場で戦闘になれば、ミオが危険にさらされる。


 それだけは、避けなければならない。


「やめろ、イグニス」


 私の声に、イグニスは悔しそうに舌打ちをして、一歩下がった。

 だが、警戒は解いていない。いつでも戦える体勢だ。


 ベリアルは、他の三人にも視線を向けた。


「水の精霊に、風の精霊、土の精霊……四大精霊が揃っているのか。随分と豪華なメンバーだな」


「彼らは、私の家族だ」


「家族?」


 ベリアルは、初めて驚いたような表情を見せた。


「貴様が、家族? あの冷酷無比な魔王が、家族などと?」


「今は違う」


「……そうか」


 ベリアルは、深く息を吐いた。

 その瞬間、周囲の熱気が僅かに和らいだ。


 だが、警戒は解かれていない。むしろ、観察されている——そんな感覚があった。


 彼は、私を見ている。

 そして、この家を、四大精霊たちを、そしてミオを。


 全てを、冷静に分析している。


「アスタロト」


 彼は私の前で立ち止まった。


「魔王としての務めを放棄し、こんな辺境で隠居生活とは。随分と落ちぶれたものだ」


「私は既に魔王ではない。それは、魔界も承知しているはずだが」


「ああ、承知している。だからこそ——」


 ベリアルの視線が、私の腕の中のミオに向けられた。


 その瞬間、空気が変わった。


「——だからこそ、聞きに来た。その人間の子を、なぜ拾った?」


 空気が凍りついた。

 いや、凍りつくどころか、沸騰していた。


 イグニスの炎、アクアの水気、シルフの風圧、テラの重圧。そして、ベリアルの灼熱。

 五つの強大な魔力が、リビングで激突しようとしていた。


 だが、私は静かに、ミオを抱き直した。


 彼女は、ベリアルを不思議そうに見上げている。

 普通の赤ちゃんなら、この圧倒的な魔力に怯えて泣くはずだ。


 だが、ミオは泣かない。

 むしろ、興味津々といった様子で、ベリアルに手を伸ばそうとしている。


 小さな手が、ベリアルの方へ。


「ばー」


 無邪気な声。


 ベリアルの表情が、一瞬だけ変わった。

 驚き、困惑、そして——何か、言葉にできない感情。


 だが、すぐに元の冷たい表情に戻った。


「ミオは、私の娘だ」


 私は静かに、しかし断固として言った。


「それ以上でも、それ以下でもない」


「娘?」


 ベリアルは、初めて本気で驚いた表情を見せた。

 驚愕、困惑、そして——僅かな怒り。


「貴様、正気か? 魔王が、人間の子を、娘だと?」


「ああ」


「……狂ったか。それとも、本当にそこまで落ちぶれたのか」


 その瞬間、イグニスが動いた。


 炎の槍が、ベリアルの喉元に迫る——

 だが、ベリアルは動かない。


 槍は、彼の首筋の手前で、音もなく溶けて消えた。

 ベリアルの魔力が、イグニスの炎を——炎の精霊の炎を——圧倒したのだ。


 火の精霊の炎が、悪魔の炎に負けた。


 あり得ない。

 だが、現実だ。


「イグニス、貴様の炎も衰えたな」


 ベリアルは、冷たく笑った。


「昔なら、もっと熱かった」


「……っ!」


 イグニスが再び攻撃しようとする——


「やめろ、イグニス」


 私の声に、イグニスは唇を噛んで、後退した。

 彼女の目には、悔しさと怒りが滲んでいた。


 だが、それ以上に——恐怖も。


 ベリアルの強さを、彼女は知っている。

 あの大戦で、何度も戦った相手だ。


 そして、一度も勝てなかった相手だ。


「ベリアル」


 私は、ミオを抱き直した。彼女は、まだベリアルを見ている。


「魔界が何を望んでいるか知らないが、ミオには手を出させない」


「手を出す?」


 ベリアルは、僅かに眉をひそめた。


「勘違いするな、アスタロト。俺は魔界の使者として来たが、貴様を討伐しに来たわけではない」


「では、何だ」


「確認だ」


 ベリアルは、深く息を吐いた。

 その瞬間、周囲の灼熱が僅かに和らいだ。まだ警戒は解いていないが、少なくとも即座に戦闘を始める気はないらしい。


「魔界では、貴様が人間界で何かを企んでいるのではないかという噂が立っている」


「何かとは?」


「人間の子を利用した、新たな侵略計画。あるいは、人間との混血による、新種の魔物の創造。他にも——」


 ベリアルは、僅かに目を細めた。


「——人間界と魔界の境界を破壊し、再び大戦を引き起こそうとしている、という説もある」


「……馬鹿馬鹿しい」


「ああ、俺もそう思った」


 ベリアルは、珍しく苦笑した。


「だが、魔王評議会は本気だ。貴様が本当に危険な存在であれば、封印を強化する——最悪、抹殺も辞さないと」


 その言葉に、四大精霊たちの魔力が一斉に高まった。

 リビングの空気が、再び沸騰する。


 だが、私は静かに手を上げて、彼らを制した。


「魔王評議会、か」


 私は、その名を久しぶりに口にした。


「まだ存在していたのか」


「ああ。貴様が隠居した後、魔界を統治するために作られた。現在は、七人の大魔王が評議員を務めている」


「七人? 誰だ」


「リリス、バアル、アスモデウス、ルシファー、レヴィアタン、ベルゼブブ、そして——俺だ」


 私は、僅かに目を細めた。


 かつての配下たちが、今は魔界を統治している。

 時代は、確実に変わったのだ。


 私がいなくても、魔界は回っている。

 それは、嬉しいことであり、同時に、少し寂しいことでもあった。


「それで、お前はどう報告するつもりだ?」


「さあな」


 ベリアルは、ミオを見つめた。

 ミオは、彼の視線に怯えることなく、逆に手を伸ばしてきた。


「ばー」


 無邪気な声。


 ベリアルの表情が、僅かに緩んだ——ような気がした。

 だが、すぐに元の冷たい表情に戻る。


「……話を聞かせろ。なぜ、その子を拾った。なぜ、育てている。そして、何を企んでいる」


「企んでなどいない」


「では、なぜだ」


 私は、ミオの頭を優しく撫でた。

 彼女は、私の指を握って、笑う。


「理由など、ない」


 そして、ベリアルをまっすぐに見据えた。


「ただ、この子を守りたいと思った。それだけだ」


 ベリアルは、長い沈黙の後、深く息を吐いた。


「……アスタロト。貴様は、本当に変わってしまったんだな」


 その声には、僅かな寂しさが混じっていた。


「昔の貴様なら、こんな答えはしなかった。『理由など不要だ』と言って、全てを力で押し通した」


「……ああ」


 私は、かつての自分を思い出す。


 戦場で、ベリアルと共に戦った日々。

 勝利の後、彼と酒を酌み交わした夜。


 あの頃の私は、確かに違った。


 冷酷で、無慈悲で、ただ強さだけを求めていた。

 理由など、考えたこともなかった。


 ただ、支配し、君臨し、恐れられることだけを望んでいた。


「覚えているか、ベリアル」


 私は、ゆっくりと言った。


「千年前、人間界との国境で、貴様と二人きりで敵軍を退けた時のことを」


「……覚えている」


 ベリアルは、僅かに目を細めた。


「貴様は、敵将に『降伏しろ』と言った。だが、敵将は拒否した。そして貴様は——」


「一瞬で、全軍を壊滅させた」


「ああ。理由も、躊躇いもなく」


 あの時の私は、何も感じなかった。

 ただ、邪魔だから、排除しただけ。


 敵将の顔も、名前も、覚えていない。

 ただ、数千の命が一瞬で消えたことだけが、記憶に残っている。


 それが、魔王だった。


「だが、今の貴様は——」


 ベリアルは、私とミオを見た。


「——理由がない、と言う。まるで、人間のようだ」


「それの何が悪い」


「悪いとは言っていない」


 ベリアルは、ソファに座った。勝手に、だ。


「ただ、驚いただけだ。あの冷酷無比な魔王が、こんなにも変わるとは」


 彼は、僅かに笑った。


「あの頃の貴様なら、我が魔王軍一万の配下でも、この変化には驚いただろうな」


 彼は、深く息を吐いた。

 そして、私をまっすぐに見据えた。


「とにかく、話を聞く。全てを、だ」


 その声は、命令ではなく、願いに近かった。


「そして、俺が納得できなければ——この子を、魔界に連れて帰る」


 最悪の宣告だった。


 だが、私には覚悟があった。


 何があっても、ミオを守る。

 それが、私の——いや、私たち家族の、絶対の意志だった。


 ベリアルの深紅の瞳が、私を見つめている。

 かつて、共に戦った戦友の目だ。


 だが、今は——敵かもしれない。


 それでも、私は語らなければならない。

 ミオとの出会いを。

 この家族のことを。


 そして、私が変わった理由を。


 全てを、ベリアルに。

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元魔王と四大精霊の子育てシェアハウス 柊 蒼葉 @eallswa

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