第5話「離乳食戦争」
ミオが生後四ヶ月になった。
正確には、俺――アスタロトがあの雨の夜にミオを拾ってから、約二ヶ月半が経過したことになる。
予防接種から一ヶ月。
この一ヶ月で、ミオは驚くほど成長した。
首がしっかりとすわり、寝返りができるようになった。最初に寝返りを見た時、イグニスは「ミオちゃん天才!」と叫び、アクアは感動して泣いた。小さな手で物を掴もうとし、俺の指を握りしめる力も日に日に強くなっている。声を出して笑うようになり、「あー」「うー」と意味のわからない言葉を話す。
そして、何より――食欲が増してきた。
ミルクだけでは足りないのか、授乳の間隔が短くなり、俺たちの口元をじっと見つめるようになった。食事中、ミオは目を輝かせて、俺たちが食べる様子を観察している。
「そろそろだね」
テラが言ったのは、三日前のことだ。
「離乳食を始める時期だ」
離乳食。
ミルク以外の、初めての食べ物。
我が魔王軍一万の配下を率いて数々の戦場を駆け抜けてきた俺だが、この小さな料理には、正直なところ恐怖すら感じる。
*
「離乳食!」
イグニスが目を輝かせた。
朝、全員が集まって相談した時のことだ。
「そろそろその時期だね」
テラが穏やかに言った。育児書を開いている。
「生後5〜6ヶ月が目安。ミオちゃんはもう4ヶ月だから、少し早いけど、様子を見ながら始めてもいい」
「私、料理得意ですよ!」
アクアが張り切っている。
「離乳食なら、優しい味付けで――」
「待って」
イグニスが割り込んだ。
「料理と言えば、私でしょ! 消防署で鍛えた腕前を見せるわ!」
「いや、でも」
アクアが言い返す。
「離乳食は優しい味が大事で、イグニスさんは全部辛くするじゃないですか……」
「優しい味でも美味しくなきゃダメでしょ!」
二人が火花を散らしている。
「あの……」
シルフが遠慮がちに言った。
「僕も料理、できるよ?」
「え」
二人が固まった。
「シルフ、料理できるの?」
イグニスが驚いた顔をしている。
「うん。簡単なものなら。風を使えば、混ぜるのも楽だし」
「じゃあ、僕も参加させて」
「……待て」
俺は頭を抱えた。
「全員で離乳食を作るのか?」
「当然でしょ!」
イグニスが胸を張った。
「ミオちゃんの初めての離乳食だよ! みんなで作らなきゃ!」
「でも、一度に全部は無理では」
テラが冷静に指摘した。
「離乳食は少量ずつ、様子を見ながら進めるもの。一日に何種類も試したら、アレルギーの確認もできない。それに、赤ちゃんの胃腸に負担がかかる」
「じゃあ」
シルフが提案した。
「順番に作ってみる? それぞれ一品ずつ、日を分けて」
「それだ!」
イグニスが叫んだ。
「離乳食バトル! 誰が一番ミオちゃんに喜ばれるか勝負!」
「バトルって……」
俺は呆れた。
「でも、面白いかも」
アクアが乗り気になっている。
だが、四人の目は真剣だった。
「よし、決まりだ」
テラが頷いた。
「今週から、順番に離乳食を作ろう。順番は……イグニス、アクア、シルフ、俺、そしてアスタロト」
「俺も作るのか?」
「当然でしょ」
イグニスが笑った。
「あんたも家族なんだから」
こうして、史上最も奇妙な――そして最も激しい――離乳食戦争が始まった。
*
【準備の日】
離乳食バトル開始の前日、俺たちは買い物に出かけた。
「まず、道具が必要だね」
テラがリストを見ている。
「ミキサー、すり鉢、裏ごし器、小さなスプーン、ベビーチェア……」
「ベビーチェアは既に買ってあるよ」
シルフが言った。
「じゃあ、調理器具だけだね」
ベビー用品店で、調理器具を選ぶ。
「これ、可愛い」
アクアが小さなすり鉢を手に取っている。動物柄だ。
「実用的なのがいい」
イグニスは無地のシンプルなものを選んでいる。
「両方買おう」
俺は言った。
「……金に糸目はつけない」
「アスタロト、太っ腹だね」
シルフが笑った。
次に、食材を買いに行く。
「離乳食の基本は、お粥と野菜」
テラが説明している。
「最初はニンジン、サツマイモ、カボチャあたりが定番。果物ならバナナやリンゴ」
「全部買おう」
イグニスがカゴに次々と入れている。
「イグニスさん、買いすぎでは……」
「大丈夫! 色々試さなきゃ!」
気づけば、カゴは野菜と果物でいっぱいだった。
「レジ、並ぼう」
会計の列に並ぶ。
その時、隣のレジにいた若い母親が、俺たちを見て驚いた顔をした。
「あの……もしかして、元魔王の……」
「……ああ」
「育児、頑張ってるんですね。この前、ひまわり小児科で見かけました。応援してます」
彼女は微笑んで去っていった。
「有名人だね、アスタロト」
シルフが笑った。
「……別にいい」
だが、悪い気はしなかった。
*
【第一日目――イグニスの挑戦】
「さあ、見てて!」
イグニスが張り切っている。エプロンを着けて、気合十分だ。
今日の離乳食担当は、火の精霊イグニス。
彼女が作るのは「ニンジンのペースト」だ。
「離乳食の基本は、柔らかく煮た野菜をペースト状にすること」
テラが解説している。手元には育児書。
「最初はお粥と野菜から始めるのが一般的だね」
「任せて!」
イグニスが胸を張った。
「料理は得意なんだから。美味しくなければ、作る意味がない。ミオちゃんには、最高に美味しいものを食べさせてあげたいの」
彼女の目は、真剣だ。
料理への情熱が、ひしひしと伝わってくる。
イグニスは鍋にニンジンを入れた。新鮮なニンジンを、丁寧に皮を剥いて、小さく切っている。
「まず、柔らかく煮るわね」
彼女は手のひらに炎を灯した。
真紅の炎が、手のひらで踊っている。
「待て」
俺は即座に止めた。
「その炎は強すぎる。ニンジンが焦げる」
「え、でもこれくらいが普通――」
「お前の『普通』は一般人の三倍の火力だ」
俺は断言した。
「ガスコンロを使え」
イグニスはしぶしぶガスコンロを使い始めた。
「むー……私の炎の方が早いのに……」
ニンジンがコトコトと煮える。
いい香りが漂ってくる。
「火加減は?」
アクアが心配そうに見ている。
「中火で、様子を見ながら……」
イグニスが真剣な顔で鍋を見つめている。
二十分後。
「よし、柔らかくなった」
イグニスはニンジンを取り出し、ミキサーに入れた。
「これでペースト状にして――」
スイッチを入れる。
ウィーンという音とともに、ニンジンが滑らかなペーストになっていく。
「完璧!」
イグニスが満足そうに言った。
「色も綺麗だし、滑らかだし……」
彼女はキッチンをうろうろし始めた。
何かを探している。
「でも、味がないと……」
彼女の手が、スパイスの棚に伸びる。
「待て」
俺は止めた。
「離乳食に味付けは不要だ」
「え、でも味がないと美味しくないでしょ……」
「赤ちゃんには、素材の味だけで十分」
イグニスは不満そうだったが、テラも頷いた。
「アスタロトの言う通り。最初は調味料なしで。赤ちゃんの腎臓はまだ未熟だから、塩分も糖分も負担になる」
「わかった……でも……」
イグニスは、スパイスの瓶を見つめている。
唐辛子の瓶だ。
「……ほんの少しだけなら、香り付けになって――」
「イグニス」
俺は警告した。
だが――。
彼女の手が、無意識に動いた。
長年の料理の癖。
美味しくするために、香辛料を加える。
ほんの一振り。
唐辛子がペーストに落ちた。
「……あ」
イグニスが固まった。
「イグニス、今、何を入れた?」
俺は低い声で尋ねた。
「ほ、ほんの少しだけ……香り付け程度だから、大丈夫……」
出来上がったのは、鮮やかなオレンジ色のペースト。
見た目は完璧だ。
「さあ、ミオちゃん、食べて!」
俺はミオをベビーチェアに座らせた。
ミオはきょとんとした顔で、イグニスを見ている。初めて見るスプーンに興味津々で、手を伸ばそうとしている。
イグニスがスプーンでペーストをすくい、ミオの口に運ぶ。
「はい、あーん」
ミオが――。
ぺろりと舐めた。
一瞬の沈黙。
そして――。
「ぎゃあああああ!」
ミオが泣き叫んだ。
顔を真っ赤にして、激しく泣いている。小さな手足をばたばたとさせて、明らかに苦しんでいる。
「ちょ、ちょっと、どうして!?」
イグニスが慌てる。
アクアがペーストを少し味見した。
「……イグニス、これ」
「何?」
「辛い。すごく辛い」
「え、でもほんの少しだけ……」
俺も味見した。
確かに辛い。大人でもきついレベルだ。
「赤ちゃんに唐辛子はダメ!」
テラが即座にミオにミルクを飲ませている。
「口を洗い流さないと」
ミオはミルクを飲んで、ようやく泣き止んだ。
だが、まだ目に涙を溜めて、ひくひくと肩を震わせている。
「ごめん、ミオちゃん……」
イグニスはしょんぼりと肩を落とした。
「つい、癖で……料理には香辛料が必要だって思っちゃって……美味しくしたかったのに……」
彼女の目から、涙が溢れた。
「イグニス」
俺は彼女の肩に手を置いた。
「次は気をつければいい。失敗は誰にでもある」
「でも……ミオちゃんを苦しめちゃった……」
「大丈夫だよ、イグニス」
アクアが優しく言った。
「ミオちゃん、もう泣き止んだよ。笑ってる」
確かに、ミオは笑っている。
イグニスを見上げて、小さな手を伸ばしている。
「ミオちゃん……」
イグニスがミオを抱き上げた。
「ごめんね。次は、ちゃんと作るから」
初日は、惨敗だった。
だが――。
俺たちは学んだ。
離乳食に、調味料はいらない。
大事なのは、素材の味を大切にすること。
*
【第二日目――アクアの挑戦】
「今日は私が挽回します!」
アクアが張り切っている。昨日のイグニスの失敗を見て、より慎重になっている。
彼女が作るのは「十倍粥」だ。
「離乳食の基本中の基本」
テラが頷いた。
「お米一に対して水十。よく煮て、柔らかくする」
「十倍粥……」
アクアが真剣な顔でお米を研いでいる。
「まず、お米を清潔に……」
彼女は何度もお米を洗っている。
一回、二回、三回……。
丁寧に、本当に丁寧に洗っている。
「アクア、もういいんじゃないか」
俺は十回目で声をかけた。
「でも、まだ少し濁りが……」
「そろそろ米が砕けるぞ」
「そ、そうですか……でも、清潔じゃないと、ミオちゃんのお腹を壊したら……」
アクアの目に涙が浮かんでいる。
「大丈夫だよ、アクア」
シルフが優しく言った。
「そこまで洗えば十分。赤ちゃんは思ってるより強いんだよ」
「……はい」
アクアはようやくお米を炊飯器に入れた。
「お米一合に対して、水は……」
彼女は計量カップで水を測っている。
「一、二、三……」
真剣な表情で数えている。
「アクア、大丈夫?」
イグニスが心配そうに見ている。
「大丈夫です。正確に測らないと……完璧に作らなきゃ……」
「四、五、六……」
静かに数える声。
「十、十一、十二……」
「……アクア」
俺は気づいた。
「お前、今何杯目だ」
「え? 十二杯……あれ? お米一合だから、水は十合で……」
「違う。米一:水十だ。米一合なら、水も十合じゃなくて、米の十倍の『量』だ」
アクアが固まった。
「……計算、間違えました?」
「ああ」
アクアの目から涙が溢れた。
「私……ダメだ……数も数えられない……」
「泣くな」
俺は言った。
「やり直せばいい。失敗は恥じゃない」
やり直し。
今度は俺が横で確認しながら、正しい分量で炊飯を始めた。
そして、完成したお粥。
水分たっぷりの、真っ白なお粥。
「今度こそ!」
アクアがスプーンですくって、ミオの口に運ぶ。
ミオが――。
ぺろりと舐めた。
そして――。
「あー」と声を出した。
「食べた!」
アクアが歓喜の声を上げた。
だが、次の瞬間。
ミオが――ぶーっと吐き出した。
「え!?」
アクアが慌てる。
「どうして!? ちゃんと作ったのに!」
俺がお粥を少し味見した。
「……味はいい。でも」
「でも?」
「温度が低い」
テラが確認した。
「ああ、冷めてる。人肌より冷たい」
「え、でも、熱いと火傷するかと思って、冷ましたんです……」
「冷ましすぎたんだよ」
「私……また失敗……」
アクアの声が震えている。
「温め直せばいい」
俺は言った。
温め直したお粥を、再度ミオに食べさせる。
今度は――。
ミオが食べた。
一口、また一口。
そして――ぶーっと吐き出した。
「また!?」
「……アクア」
シルフが気づいた。
「お粥、水っぽすぎない?」
「え?」
テラが育児書を確認した。
「これは……米と水の比率は合ってるけど、炊く時間が短かったんじゃないか」
「時間……」
アクアが固まった。
「早く食べさせたくて、炊飯器の早炊きモードを……」
二日目も、失敗だった。
アクアは泣き崩れた。
「ごめんなさい、ミオちゃん……私、本当にダメな母親で……完璧にできなくて……」
彼女の肩が震えている。
悔しさと、自分への失望で。
イグニスが彼女の肩を抱いた。
「大丈夫。私も失敗したから。お互い様だよ」
「でも……」
「完璧じゃなくていいんだよ、アクア」
テラが優しく言った。
「失敗から学ぶことが、本当の成長なんだ。次は気をつければいい。それでいいんだよ」
アクアは涙を拭いて、頷いた。
「……次は、頑張ります」
*
【第三日目――シルフの挑戦】
「じゃあ、僕の番だね」
シルフが静かに言った。
彼が作るのは「バナナのペースト」だ。
「果物は甘くて、赤ちゃんも好きなはず」
テラが言った。
「バナナは栄養もあるし、柔らかいから、初めての果物に最適だ」
シルフはバナナを潰し始めた。
手際がいい。
「シルフ、料理上手いね」
イグニスが感心している。
「風を使うと、混ぜるのが楽なんだ」
彼は優しく風を起こして、バナナを滑らかなペーストにしていく。
まるで見えない手が、バナナを優しく包み込んでいるかのようだ。空気中でバナナが踊っている。風の精霊ならではの技だ。
「すごい……」
アクアが見とれている。
「温度も大事だよね」
シルフは風でバナナを調整し始めた。
「イグニスは調味料で失敗、アクアは温度で失敗した。だから、僕は人肌くらいに――」
彼は風を起こした。
優しい風が、バナナを包む。
「冷やして、美味しくしよう」
だが――。
「シルフ、待て」
俺は止めようとしたが、遅かった。
シルフの風は、想像以上に冷たい。
バナナがどんどん冷えていく。
「シルフ、それは――」
テラが警告しようとしたが、既に手遅れだった。
完成したバナナのペースト。
滑らかで、美味しそうだ。
だが――触ってみると、冷たい。かなり冷たい。
「さあ、ミオちゃん」
ミオの口に運ぶ。
ミオが――。
食べた。
そして――。
顔が――真っ赤になった。
目を見開いて、口を開けたまま固まっている。
「え!?」
全員が慌てた。
「ア、アレルギー!?」
アクアがパニックになる。
だが、テラが冷静に確認した。
「いや、違う。これは――」
彼がシルフのバナナを少し食べた。
「……シルフ、これ、冷たすぎる。氷みたいだ」
「え?」
「風で冷やしすぎたんだ。赤ちゃんには冷たすぎる」
ミオは冷たさにびっくりして、顔を真っ赤にしていただけだった。
そして――「ぎゃあああ」と泣き始めた。
「ごめん、ミオちゃん……」
シルフがミオを抱き上げた。
「冷たかったね。ごめんね」
ミオはシルフの腕の中で、少しずつ泣き止んだ。
シルフが優しく風で子守唄を奏でている。
三日目も、失敗だった。
「僕たち、本当にダメだね」
シルフが自嘲するように笑った。
「風を使えば上手くいくと思ったのに……調整が難しくて……」
「……大丈夫」
俺は言った。
「まだテラがいる。そして、俺もいる」
*
【第四日目――テラの挑戦】
「じゃあ、俺が」
テラが穏やかに言った。
彼が作るのは「サツマイモのペースト」だ。
「サツマイモは甘くて、栄養もある。食物繊維も豊富で、便秘予防にもなる」
テラは手際よく調理している。
サツマイモを蒸し器で蒸す。
時間を正確に測り、柔らかさを確認する。
「さすがテラ、慣れてるね」
イグニスが感心している。
「保育園で、よく離乳食を作ってるからね」
柔らかく蒸したサツマイモを、丁寧にペーストにする。
すり鉢で丁寧に、丁寧にすりつぶす。
滑らかになるまで、時間をかけて。
「温度は?」
アクアが尋ねた。
「人肌。ちょうどいい」
テラが確認している。
「見て、みんな」
テラが三人を呼んだ。
「離乳食で大事なのは、三つ。温度、滑らかさ、そして量だ」
彼はスプーンでペーストをすくって見せる。
「温度は人肌。熱すぎても冷たすぎてもダメ。滑らかさは、ダマがないこと。そして量は、最初は小さじ一杯から」
三人が真剣に聞いている。
「イグニス、お前の失敗は調味料。でも、料理の腕は確かだった。次は調味料を入れなければいい」
「……うん」
「アクア、お前の失敗は温度と水分量。でも、清潔に作ろうという姿勢は素晴らしかった。次は落ち着いて測れば大丈夫」
「……はい」
「シルフ、お前の失敗は冷やしすぎ。でも、風を使う技術は見事だった。次は加減を調整すればいい」
「……ありがとう」
「失敗したからって、ダメな親じゃない。失敗から学ぶことが、本当の成長なんだ」
テラはミオにサツマイモのペーストを食べさせた。
ミオが――。
食べた。
そして――。
笑った。
もう一口、また一口。
ミオは嬉しそうに食べている。小さな口を開けて、スプーンを待っている。「あー」と声を出して、もっと欲しいと訴えている。
「やった!」
全員が歓声を上げた。
「テラ、すごい!」
「さすがプロだね」
「ミオちゃん、本当に嬉しそう」
テラは穏やかに微笑んだ。
「みんなも、次は大丈夫だよ。一緒に頑張ろう」
三人が頷いた。
前向きに。
次は成功させようと。
*
【第五日目――アスタロトの挑戦】
そして、俺の番が来た。
四日間の結果:
イグニス――辛すぎて失敗
アクア――温度と水分量で失敗
シルフ――冷たすぎて失敗
テラ――大成功
「アスタロト、頑張ってね」
イグニスが応援している。
「私たちの分まで」
アクアも。
「プレッシャーかけないでおくよ」
シルフが笑った。
だが――プレッシャーは、確かにある。
俺にできるのか?
三人が失敗し、テラだけが成功した。
俺は――。
我が魔王軍一万の配下を率いていた頃、初めての大規模作戦の前夜も、こんな感じだった。手が震え、心臓が高鳴り、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した。
だが、あの時も乗り越えた。
今回も、乗り越えなければならない。
ミオのために。
「……何を作ろうか」
「お粥がいいんじゃない?」
テラが提案した。
「基本だから。そして、アクアが失敗したからこそ、リベンジの意味もある」
「普通だね」
イグニスが言った。
「だが、普通が一番難しい」
俺は言った。
「魔王軍の兵站管理でも、一番難しかったのは『普通の食事を安定して供給すること』だった」
丁寧に、お米を研ぐ。
アクアのように研ぎすぎず、でも清潔に。
三回、丁寧に。
水の量を正確に測る。
米一:水十。間違えないように。
計量カップで、正確に。
炊飯器にセットする。
早炊きではなく、普通モードで。時間をかけて、じっくりと。
待つ間、俺は育児書を読んでいた。
離乳食の注意点、進め方、アレルギーについて。
「アスタロト、真剣だね」
シルフが言った。
「……当然だ。ミオのためだ」
四十分後。
炊飯器のスイッチが切れた。
蓋を開ける。
湯気とともに、お粥のいい香りが広がる。
完璧だ。
温度を確認する。
少し冷まして、人肌に。
テラに確認してもらう。
「完璧だよ」
よし。
「ミオ」
俺はミオをベビーチェアに座らせた。
ミオは俺を見上げている。
信頼の眼差しだ。
黒曜石のような瞳が、時折虹色に煌めく。
その目に、応えなければならない。
スプーンでお粥をすくう。
ミオの口に運ぶ。
「はい、あーん」
ミオが――。
口を開けた。
俺はゆっくりと、スプーンを口に入れた。
ミオが――。
食べた。
ごくん、と飲み込む音が聞こえた気がした。
そして――。
笑った。
満面の笑みで、俺を見上げている。
「もう一口、食べるか?」
ミオが口を開ける。
もう一口、また一口。
ミオは嬉しそうに食べている。
小さな手をぱたぱたと動かして、喜びを表現している。
「やった……」
俺は小さくガッツポーズをした。
四人が拍手している。
「おめでとう、アスタロト」
「初めての離乳食、成功だね」
「ミオちゃん、嬉しそう」
「良かったね」
ミオは俺を見上げて、笑っている。
その笑顔を見ていると、胸が温かくなった。
俺にもできた。
ミオを、笑顔にできた。
千年間の孤独の中で、こんな幸福を感じたことはなかった。
*
【一週間後――振り返り】
離乳食戦争から一週間。
今では、ミオは離乳食を食べるのが日常になった。
お粥、野菜のペースト、果物のペースト。
少しずつ、種類も増えている。
そして――。
「見て! ミオちゃん、今日は成功した!」
イグニスが嬉しそうに叫んだ。
彼女が作ったニンジンのペースト(今度は唐辛子なし)を、ミオが美味しそうに食べている。
「やった! イグニス、成功だね!」
アクアが拍手している。
「私も!」
アクアが涙を流しながら笑っている。
完璧な温度のお粥を、ミオが食べている。
「僕も成功したよ」
シルフが笑った。
適温のバナナペーストを、ミオが喜んで食べている。
「みんな、上手くなったね」
テラが穏やかに言った。
俺は、ミオを見つめた。
スプーンを持って、自分で食べようとしている。まだ上手くできないが、一生懸命だ。小さな手が、不器用にスプーンを握っている。
「ミオ」
俺は静かに言った。
「お前も、これから色んなことに挑戦するんだろうな」
ミオは俺を見上げて、笑った。
「失敗してもいい。何度でも、やり直せばいい」
その言葉は、ミオに向けたものであり、同時に、俺自身に向けたものでもあった。
そして――三人にも。
「なんか、感動的だね」
シルフが言った。
「離乳食戦争、終わったね」
「終わったけど、始まりでもあるよ」
テラが言った。
「これから、ミオちゃんは色んなものを食べられるようになる。そして、成長していく。俺たちも、一緒に成長していくんだ」
「……そうだな」
俺は頷いた。
離乳食戦争は、こうして幕を閉じた。
だが――この戦いで、俺たちは大切なことを学んだ。
完璧である必要はない。
失敗してもいい。
大事なのは、ミオのために、一生懸命になること。
そして――みんなで支え合うこと。
家族とは、そういうものなのかもしれない。
窓の外では、夕日が優しく照らしている。
今日も、一日が終わる。
俺たちの家族の、また一つの思い出として。
リビングには、五人とミオの笑い声が響いている。
温かい、幸せな時間。
こんな日々が、これからもずっと続くといい。
俺はそう願った。
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