第5話-2 いつでも、呼んでくれたら、応えるから
◆
「……もしもし、陽菜? ごめん、起こしたか」
『ん……。みなと、くん? ……ううん、だいじょうぶ……。まだ、起きてた、よぉ……』
深夜二時半。仕事が終わり、最低限シャワーを浴びて、冷たい自室のベッドに倒れ込みながら、スマホに耳を傾ける。
――毎晩、陽菜の声に溺れる。
電話の向こうから『くふ……』と、吐息みたいなあくびが聞こえた。ああ、ダメだ、それだけで。掠れた声と、無防備なあくびで、一日の疲れが全部溶けていく。
店で聞く、あの凛とした、太陽のような声とは全然違う。俺だけが知る、夜だけの特別な陽菜。
『……どぉしたの? 黙っちゃって。……ふふ。もしかして、わたしの声、聞きたすぎて……おかしくなっちゃった?』
完全に眠りに落ちる寸前の、舌足らずで、蜂蜜みたいにとろけた甘い声。
図星だ。ドキリとした心臓を隠すように、慌てて言葉を返す。
「っ……。ああ、まあ……それも、あるけど。それより、風呂、入ったんだろ? チャットで言ってた、入浴剤。……どんな匂いだったんだよ」
我ながら、情けない口実だ。
その一方で、嬉しそうに、ふにゃりと笑う気配を感じた。
『んふふふ~……。すっごく、甘い匂い、だった、よぉ』
「甘い?」
『うん。……ミルクと、蜂蜜、みたいな……? すごく、安心する匂い』
「陽菜に、似合いそうだな」
ぽつりと本音が漏れる。電話の向こうで、陽菜が息を呑むのがわかった。
『……そ? ……でもね、湊くん』
「ん?」
『今、湊くんが電話くれたから……。何か、湊くんの匂いも混ざった気がする』
――この子は、何を言ってるんだ。
「……バカ。俺の匂いなんて、電話でわかるわけないだろ」
『ふふ……。わかるよ? だって、今、すっごく、湊くんのこと考えてるもん。……だから、おんなじ匂いがするの』
そんな、とんでもない理屈。心臓が、うるさくてたまらない。
『……ねえ。みなと、くん……?』
時折混じる、小さな寝息。
吐息だけで『みなとくん』と呼ぶ、ねだるような声。
その一つ一つが、鼓膜を通り越して、脳を、腹の底を、そして昂った俺の身体を、直接震わせる。
昼間や、夜間の、休憩時間の合間に行う他愛ないチャットは、この深夜のための長い長い前戯に過ぎなかった。
彼女から送られた言葉一つ一つを反芻し、スタンプ一つに心を躍らせ、深夜が来るのを、ひたすら待つ。
そして訪れる、二人だけの時間。
『……おかえり、なさい。今日も、いっぱい、がんばったねぇ。……よしよし、えらい、えらい……』
まるで幼子をあやすような、優しい声色。
その温かさが、ささくれだった俺の心を、ふわりと包み込んでいく。
仕事の疲れも、日々の不安も、この声の前では、全てが些細なことに思える。
『……ねぇ、湊くん……。お仕事、大変……?』
「ん……。まあ、少しは慣れてきたけどな。陽菜は? 変な客とか、大丈夫だったか?」
『うん、わたしは平気だよ……。でも、湊くんの声聞くまで、ちょっとだけ……寂しかった』
「……俺もだよ。ずっと、陽菜の声、聞きたかった」
『……ほんと? じゃあ、もっといっぱい、聞かせてあげるね……?』
悪戯っぽく囁く声。
その後に訪れる、しばらくの無音。
陽菜、眠ったか?
耳を傾けた時。
『……んっ……』
——吐息が漏れただけ。
陽菜が小さく身じろぎしたような、湿った吐息。それだけで、心臓が跳ね上がる。
『……わたしもね、おかしくなっちゃった……♡ みなとくんの声、聴きたすぎて……』
そして。
『……ちゅ』
……——!?!?
耳元で、わざとらしく、唇が湿るような音がした。
ゾクゾクと背筋が震え、体が勝手に反応する。
『……ふふ……? どんなこと、想像したのかな……?』
いじわるだ。
彼女は時々、こんな風に、無防備な、言葉にならない音で、俺の理性を試すみたいに翻弄する。
心臓が痛いほど鳴っている。切なくてたまらない。もっと先を焦がれさせる。
どうしようもない飢餓感を、一本の通話回線だけで、補給する。
「……陽菜、陽菜……っ」
『……はぁい、陽菜ですよ……♡ いつでも、呼んでくれたら、応えるから……。……ねぇ、今、何してるの…?』
「……ベッドの上で、横になってる……。陽菜は……?」
『わたしも、お布団の中。……みなとくんも……わたしのこと、考えてくれてる?』
「……考えてない時なんて、ない」
『――ばか♡♡』
電話の向こうで、彼女が布団に顔を埋める気配がする。
その仕草を想像するだけで、愛しさが込み上げてくる。
熱くなったスマホを強く握り締めた。
結衣に、直哉に、生田に、教授に……。散々踏みにじられ、ゴミクズのように扱われてきた俺の心が、陽菜との会話の間だけは、かろうじて「人間」の域まで引き上げられる。
――これで、十三日連続の通話だ。
オープン前の最終研修の日、あの居酒屋の夜から、欠かさず続いている、たった一本の命綱。
この中毒のような時間がなければ、俺はもう一日だって乗り越えられないかもしれない。
「なあ、陽菜」
これほどまでに無垢な優しさを。
あまりにも無防備な好意を、真正面から注がれて。
その温もりが、あまりにも眩しすぎて。
『ん……なぁに? 眠くなっちゃった……?』
まだ夢うつつで、俺の不安など欠片も知らない、とろけるような声が返ってくる。
「何で陽菜は、俺なんかに、良くしてくれるんだ?」
――とうとう、ずっと心の奥底で燻っていた、恐怖にも似た疑問を、ぶつけてしまった。
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