第5話-1


 11月5日。

 ちょうど一年前の今日。

 当時の俺は、鷲津教授の勧告を受け入れ、退学届を出した。


 あの時は、迎え撃つ勇気がなかった。

 人格破綻者結衣に精神を追い詰められ、まともな反論をする気力も、術もなかった。

 状況は日増しに悪化し、学食ですら好奇と侮蔑の視線に晒され、そして最悪の誕生日を迎えた。

 教授の言う『秩序』という名の暴力に、屈した。


 別に俺だけならいい。

 もう過去のことだ。大学から去ったのも、つまるところは自分の選択だ。

 だが、そのせいで――俺が逃げたせいで、陽菜まで危険に晒されていると知った今、話は別だ。




 あいつらの秩序を脅かす、次のノイズとして狙われているのは、幸村陽菜。

 陽菜の未来まで犠牲にされてたまるか。絶対に容赦はしない。

 直哉が提出したレポートと、俺が当時作成した元データ。直哉版の参考文献リストの不自然な引用箇所。提出ポータルのタイムスタンプ、編集履歴、ハッシュ値もプリントしてきた。

 そして何より、レポート内で考察として述べられている部分が、俺が下書き段階でボツにした手書きのメモと一字一句同じであるという、動かぬ証拠。

 今度こそ、あの男に真実を認めさせてやる。


 震えを抑えきれない手で、デスクにレポートと比較資料の束を叩きつけた。バン、という乾いた音が、静まり返った教授室に響く。

 目の前の男――鷲津教授は、まるで蝿でも見るかのように眉をひそめた。

 突き付けた盗作の証拠を一瞥だにせず、露骨に嫌気が差したように、指紋ひとつないデスクの上で指を組んだ。


「まだ見苦しい詭弁を弄するのかね、諸橋湊くん」


 その声は、かつて退学を勧告した時と寸分変わらない、無機物に対するような響きだ。


「詭弁じゃありません、教授。これは、直哉が俺のレポートを盗用したという、明白な証拠です。あなたが見て見ぬふりをした、真実です!」

「気安く呼ぶな。君はもう学生ではない。汚らわしい不法侵入者だ」


 正式な手続きを踏んで教授室に入った。しかも受付の来訪簿に俺の名前と時刻が残っている。それでも不法侵入?


 それに鷲津教授は、俺の退学の日に言った。「いつでも戻ってきなさい」と。

「君のためを思って言うが」という提案だったから、退学を受け入れた。……もちろん、わかってはいた。欺瞞に満ちた勧告だったと。


 鷲津は、眼鏡の縁を指で触りながら、ふぅ、とわざとらしく溜息をついた。


「君が盗んだか、彼が盗んだかなど、些末な問題なのだよ。本質はそこではない」


 ――は? 些末……?

 鷲津は、まるで物分かりの悪い出来の悪い子供に言い聞かせるように、ゆっくりと、憐れむように首を振った。


「大事なのは秩序だ。この学舎における、調和と安定。君が自ら大学を去ったことで、混乱していたゼミの秩序は速やかに回復した。皆が平穏を取り戻し、研究に集中できるようになった。それが動かしようのない事実だ」


 頭がおかしいのか。

 盗作という不正行為を放置し、一人の学生をスケープゴートにして得た平穏が、事実だと?


「君のような異分子が……」


 ――強烈に睨んでやると、鷲津は一瞬怯んだように目を丸めて、言葉を止めた。


「……君のようなノイズが存在すること自体、我々が長年かけて築き上げてきた、学舎の尊い秩序に対する冒涜なのだよ! わかるかね?」


 ふざけるな。

 お前の言うその理屈ならば、秩序とやらを根底から叩き壊したのは、他人の成果を盗んだ直哉だろうが。

 いや、そもそも不法侵入して、何の罪もない学生を悪者に仕立て上げ、学内を引っ掻き回した、あの女。

 結衣だろうが!


「あなたの言う秩序とは、誰か一人が永遠に苦しみ続けることによって成り立つものですか?」

「……実に、聞くに堪えない。詭弁と逆恨みしか話せないなら今すぐ退室したまえ。業務妨害で警備員を呼ぶぞ」

「アーシュラ・K・ル=グウィンの『オメラスを歩いて去る人々』をご存じありませんか? あなたは、その地下牢の子供の存在を知りながら、オメラスの幸福を享受し続ける人間だ!」 

「下らない比喩はやめたまえ。盗人猛々しいとはこのことだな。反省の色も全く見せず、自分の罪を認められないばかりか……」


 まるで俺の言葉が聞こえていないかのように、鷲津は用意していたかのような台詞を続ける。


「将来有望で、優秀な、生田直哉くんにまでその汚名を擦り付けようとは」

「……正気ですか、教授」

「おお、その言葉は私が言いたい。君の魂は、私が想像していた以上に、救いようもなく腐っていたのだね。実に嘆かわしい」

「明白な事実から目を背けて、証拠よりも秩序が大事だと、そう仰るのですね?」

「いいかね、諸橋湊くん。君にはもう関係のないことだと思っていたが、そこまで言うなら現実を教えてやろう。君がゼミから去った後、生田直哉くんは目覚ましい成長を遂げたのだよ。君というノイズがいなくなったことでね。彼のような優秀な学生こそが、この大学の未来を担うのだ。対して君は?」


 鷲津は、まるで値踏みするように、再び俺の全身をじろりと見た。その瞳には、侮蔑の色が隠しようもなく浮かんでいる。

 まるで比べるまでもないだろうとでも言いたげに。


「自らの不始末で大学を追われ、社会のレールからも外れた。その差は歴然だろう。君のような失敗作が、彼の輝かしい未来を妬み、くだらない言いがかりをつけて足を引っ張ろうとするのは、あまりにも見苦しいとは思わないかね? いい加減、自分の置かれた立場を理解したらどうだ」


 俺のことは、いいんだよ。


「――それでまた、誰かを犠牲にして、秩序を維持しようっていうのか!!!」


 俺の激昂を、鷲津はフッと小馬鹿にするように鼻で笑い、完璧に無視した。


「口を慎みたまえ。コンビニ店員ふぜいが」


 カッと、頭に血が上る。全身の血液が沸騰するようだ。


「生田くんから噂は聞いているよ。君が、その……まあ、分相応の場所で働いているとね」


 鷲津は、得意満面とでも言うべき顔で、何度も深く頷いた。


「ああ、いや。結構なことだ。実に、結構」


 その瞳には、憐れみすら浮かんでいない。ただ汚物を見るかのような、純粋な侮蔑だけがあった。

「やはり君はその程度の人間だったか」とでも言いたげに。


「社会にはそういう底辺の役割も必要だからな。知性も秩序も理解できず、他人の成果を盗むことしかできない君の適性には、実によく合っているじゃないか」


 ――俺が誇りを取り戻し始めた、この場所が。

 陽菜が「かっこいい」と言ってくれた、この仕事が。俺たちの戦いの証が。

 陽菜と守った現場が、こいつにとっては底辺の証でしかない。


「せいぜい、その社会の底辺と呼ばれる場所で、黙々と我々のような知性ある人間の豊かな生活を支えたまえ」







 ――鷲津と対峙する、一ヶ月以上前のこと。




 生田聖人が逮捕された。

 嵐のようなオープン初日を乗り越えてから、九日後のことだった。店長がそれをこっそりと教えてくれた。


「諸橋くん、本当にありがとうね。君たちがいなければ、この店は……いや、私もどうなっていたか」


 改めて礼を言われると、むずがゆくも、心の奥底から湧き上がるような、言葉で言い表せない充実感があった。

 俺たちがやったことは、無駄ではなかったんだ。誰かを、守ることができた。

 今日のこの時間、陽菜はいない。ポケットの中のスマホが震えた。

 画面を確認する。9月10日、22時59分。一通のチャットが届いた。


『湊くん、ふぁいとだよー!٩(ˊᗜˋ*)و✧*。』


 返信しようと指を動かしたとき、もう一通。


『新しい入浴剤買ってみたんだ♪すごくいい匂いなんだよー( *´艸`)仕事終わりに、電話でどんな匂いか教えてあげるね♡』


 ふにゃふにゃに、にやけてしまうのを堪えきれない。

 丸時計の秒針が頂点へ近づく。もう休憩終了だ。急いで一文だけ返信を送る。


『楽しみだ』


 そして、バックヤードから表へ出る。

 陽菜が待ってくれている。それだけで、俺はまだ戦える。




 今の店舗に、研修時のような重苦しい空気はもうない。

 他のスタッフたちも、どこか憑き物が落ちたように穏やかな表情で仕事をしている。

 俺を見る目にも、以前のような警戒心や敵意は消えていた。

 これで俺たちの日常も、少しは明るくなれば、いいのに。


 仕事も覚え、人間関係も悪くない。時給も、勤務時間も、面接時に交わした条件通りだ。

 不足はない。

 だが、足りない。

 圧倒的に、足りない。

 陽菜と出会ってしまったから。

 あの冷たい悪意とは真逆の、太陽のような温かさを知ってしまったから。


 陽菜は、朝八時から夕方五時までの、早番シフト。

 俺は、午後五時から深夜二時まで、一部の夜勤業務も担当する変則遅番。


 ――見事に、すれ違い。


 先ほどの、午後五時前。

 バックヤードで、ロッカーに荷物を入れていたとき。

 タイムカードを押そうとする彼女と、ほんの一瞬だけすれ違った。


「……お疲れ様、湊くん。今日も、頑張ってね。……無理しないでね?」

「ああ。陽菜、お疲れ。……気をつけて帰れよ」

「うん。また後でね」

「ああ。行ってくる」


 名残惜しそうに揺れる瞳。

 触れたいのに触れられない距離。

 たった十秒。

 それが、俺たちが直接顔を合わせられる、一日のすべてだ。


 生活リズムは、無慈悲に交差する。

 俺が疲れ果てて冷たいアパートのドアを開ける頃、彼女はとっくに夢の中。

 俺が微睡みからようやく這い出す頃、彼女はもう、天使の笑顔でレジに立っている。

 

 陽菜は火水休み。俺は木金休み。

 シフトの休日希望なんて、ほぼ考慮されていない。

 お互いの休みにすら、一緒になれない。

 濃密な研修期間の一週間が嘘のように、会えないという現実の渇きへと突き落とされる。


 生田め。

 もしこれが、お前の最後の嫌がらせだとしたら、効果はてきめんだぞ。

 あいつが最後に遺していった三ヶ月シフトは、まるで俺たちを引き裂くためだけに作られたかのような、悪意すら感じるものだった。


 だが、俺たちの心を折るには、もう遅すぎる。





「……もしもし、陽菜? ごめん、起こしたか」

『ん……。みなと、くん? ……ううん、だいじょうぶ……。まだ、起きてた、よぉ……』


 深夜二時半。仕事が終わり、最低限シャワーを浴びて、冷たい自室のベッドに倒れ込みながら、スマホに耳を傾ける。


 ――毎晩、陽菜の声に溺れる。


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