第35話 知らぬは罪か

「きみ、なにも知らないのね」


 看護師は小さく一礼すると、使用済みの点滴袋を持って仕切りカーテンの向こうに消えていく。


「ちょっと待っ」

「シュウ、いるか?」


 看護師と入れ替わるようにして、カーテンの向こうからキョウヤが顔をの覗かせる。

 中腰のままのシュウを見るなり、彼は仕切られた空間に静かに足を踏み入れた。


「所長が呼んでる。こいつは俺が見とくから、行ってこいよ」


 極力シュウから視線をそらさないようにしながら、キョウヤは出入口のほうを親指で示した。

 シュウは一瞬、ハルの姿を視界に捉えて躊躇する。

 だが司令官たるユキノリからの呼び出しを無視するわけにもいかない。

 シュウはしぶしぶこの場をキョウヤに任せると、足早に医務室をあとにした。


「…………」


 シュウの足音が聞こえなくなると、室内は再び静寂に包まれる。

 キョウヤはハルの眠るベッドの端に静かに腰かけ、彼女の頬にそっと右手を添えた。

 手のひらにじんわりと熱が伝わる。

 ハルは薬のおかげかよく眠っているようで、規則正しいゆったりと落ち着いた呼吸に、キョウヤも安堵の息を漏らした。


「…………」


 キョウヤはおもむろにハルに顔を近づける。

 体温を確かめるように互いのひたいを合わせ、彼はじっとハルを見つめた。


「なあ……俺にしとけよ、ハル……」


 吐く息とともにささやかれたひと言は、眠る彼女には届かない。

 キョウヤはハルを起こさないように、彼女のひたいにそっと唇を落とした。




 高かったはずの太陽が、長い影を東の方角へと伸ばしていた。

 空一面を鮮やかに染める夕日は、その強烈な色彩とは裏腹にひどくやわらかい。

 殺風景の無機質な病室は、包み込まれるように夕焼け色を映していた。


「っ……」


 ふわりと頭をなでるぬくもりに、ハルはゆっくりと意識を浮上させた。

 徐々に明るくなっていく視界とともに、耳が周囲の音を拾い始める。


「おはよ、お姫さま」


 半日以上眠り続けたハルを迎えたのは、心配そうに自分を覗き込むキョウヤの姿だった。

 目尻を下げた彼の表情が、ハルの視界いっぱいに広がる。

 キョウヤはふんわりとハルの頬を両手で包み込むと、こつん、とひたいを合わせた。

 手のひらから伝わるぬくもりが心地よくて、ハルは安心したように目を細める。


「ん。熱、下がったみたいだな」


 離れていくぬくもりに名残惜しさを覚え、ハルはキョウヤの手に自分のそれを重ねた。


「キョ、ヤ……?」

「ん? どした?」


 小首をかしげてそうたずねる彼の声色が、ずいぶんとやわらかい響きをしていた。


「……なんでもない」


 かすれた声でつぶやく。


「水飲むか?」


 キョウヤの手がハルのひたいを軽くなでた。

 彼の手を借りて上体を起こしたハルは、手渡されたグラスを落とさないように慎重に受け取る。

 まだ力の入りきらない両手で包むようにして、ハルは常温のミネラルウォーターを少しずつ一気に飲み干した。

 乾いた口内に潤いが広がっていく。


「そういや、マリアさんから伝言。今日はここにお泊まりだってさ」


 そのひと言にハルは、すー……とキョウヤから目をそらした。


「…………やだ」


 経過観察のためには致し方ないのはわかっている。だがどうにも、ハルはこの病室の雰囲気が苦手だった。

 けっしてひとりで寝られないわけではない。

 ただ、病室特有の空気感が心をざわつかせて落ち着かないのだ。

 ハルはふてくされたように小さく唇をとがらせる。


「そう言うと思って、マリアさんに付き添いの許可もらってきた」


 キョウヤが勝ち誇ったようにピースをする。

 その瞬間、ハルは無意識に期待のまなざしを向けていた。

 わかりやすい彼女の反応に、キョウヤもつい頬をゆるめる。


「俺と一緒なら、さみしくないっしょ?」


 冗談っぽく笑ってみせるキョウヤに、ハルも短く答えて首を上下する。


「あ、でも……」


 一瞬安堵の表情をこぼしたハルが、気まずそうに視線を泳がせた。


「キョウヤ……明日……仕事、は……?」


 ハルは顔色をうかがうように上目づかいにキョウヤを見上げた。

 きっと自分のわがままで彼を付き添わせてしまって、迷惑に思っていないかと不安に駆られたのだろう。

 だがハルの不安を打ち消すように、キョウヤはあっけらかんと笑ってみせる。


「なんと明日はお休みでーす。まあ仕事あってもハルと一緒にいるけど」


 そう言って、キョウヤはハルの髪に指をすべらせた。さらさらと流れる細い髪を、彼女の耳にそっとかける。

 耳裏をなぞる指先がくすぐったくて、ハルは息を吐くように小さく笑った。


「やっと笑ったな」


 満足そうに微笑んだキョウヤが、大きな手のひらでくしゃくしゃとハルの頭をなでる。

 窓から差し込む夕日に照らされて、キラキラと煌めくキョウヤの姿がやけにまぶしかった。



◇◇◇◇◇



「ハル、また倒れたんだってね」


 アキトが自室に戻るなり、ホノカが開口一番に言った。


「今は容態も安定してる。今夜はキョウヤがそばについてるから、安心していいよ」


 意識的にやわらかい声でそう告げると、アキトはソファーに浅く座るホノカの隣に腰を下ろした。

 小さく軋んだスプリングが、やけに鼓膜を揺らす。


 ホノカは眉間にしわを寄せ、じっと床を見つめたまま。

 思い詰めたような表情が、彼女の胸のうちを物語っていた。

 ハルの現状を一番理解しているのは、同じスペランツァであるホノカだろう。


「……あの子、どーするのかな?」


 ぽつりとこぼしたホノカの言葉が、重たく沈んでいく。

 彼女の言わんとすることを察して、アキトは小さく息を吐いた。


(ハルの不調の原因はあきらか。対処の仕方もわかってる。けど……)


 これ以上は、たとえ自分たちでも踏み込んではいけない領域である。

 ホノカの気持ちも理解したうえで、アキトはあえて毅然とした態度を崩さなかった。


「それは、僕らが決めていいことじゃないよ」

「わかってる……! でもっ!」


 ホノカが顔を上げる。


「早くしないと、手遅れになるっ……!」


 ホノカは表情をゆがめて必死に訴えかけた。

 潤んだ瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。


「このままじゃ、ハルもツカサみたいにっ……!」

「ホノカ」


 ホノカの涙声を遮って、アキトは震える彼女を抱き寄せた。


「今はハルと、キョウヤを信じて待とう」


 胸元でホノカが小さくうなずくのを感じながら、アキトはゆっくりと彼女の背をさすり続けた。



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