case4 雄ジカ

第25話

「レイラのほうから誘ってくれるなんて思わなかった。嬉しいなぁ」


 仕事を終えて早々に帰ろうとするクロエを捕まえたまでは良かったが、予定があるという彼女についていくことになり、結果、小さな劇団のレッスンスタジオで居心地の悪い思いをする羽目になった。平日の昼前だからか、人が少ないのが救いだ。

 レッスンに勤しむ劇団員たちから目を逸らすように小窓の外を眺めるレイラを、クロエは壁にもたれかかって見つめている。


「そのサングラス、ずっとかけてるんだね」

「……悪い?」

「なんで? すごく似合ってるよ」


 ダイナーで会った時よりも少し甘ったるい声。

 庇護欲をそそられそうな愛らしい顔で微笑みかけてくる。

 まっすぐに刺さる感情が鬱陶しくて、つい態度が悪くなった。

 手本を見せると言っておいて、ご機嫌取りもできないのはさすがにマズい。

 小さく深呼吸をして、クロエに向き直る。


「あんた……クロエも、ここの劇団員なの?」

「そうよ。今から着替えてレッスン」

「なら私邪魔じゃない」

「全然邪魔なんかじゃないよ。ていうか――」

「おっ、クロエ」


 スタジオに入ってきた男の、良く通る声に思わず振り返る。

 いかにも感情が表情に出そうな相手からさっと視線を外したが、ゆったり歩いてきた男の視線は、クロエではなくレイラに向けられた。


「この子か? ……まぁ、ありか」

「でしょ? 約束、忘れないでね」

「しょうがねぇなぁ。いいもん食わせてやるから、指導はお前がしっかりやれよ」


 男が去ると、サングラス越しにクロエを睨みつけた。


「ちょっと、今のなに」

「レイラ聞いて! 私ね、今年の主役なのっ」


 会話になっている気がしなくて苛立ちがこみ上げるが、なんとか抑え込む。そんなレイラの葛藤に気づかない、あるいは気にも留めないクロエは、窓を開けて三階から広場を見下ろした。

 穏やかな風が、ミルクティーベージュの長い髪をわずかになびかせる。

 クロエという女性は、表面的にはおっとりとした雰囲気だが、今は目に見えてテンションが上がっている。


「見て、あそこで劇をするの」


 景観の良さを優先して、白い壁で統一された建物に囲まれた広場は、大して賑わうわけでもなく、いつも通りに人が行き交っている。中央には白い女神像が見えた。

 毎年、フェスティバルの日にあそこで演劇の催しがあったことは、なんとなく覚えている。

 壁に貼ってあるポスターに目を留めて気づく。そういえば、開催日は明日だ。

 すでに広場周辺はそこかしこに電飾が連なり、準備が整いつつある。


「広場で劇をしたあとはね、お菓子や果物を子どもたちに配るの」

 クロエの口調から、待ちきれないといった気持ちが伝わってくる。


(なにがそんなに楽しいんだか……)


「ねぇ、さっきの――」

「それでね、レイラにお願いがあるんだけど……」


 レイラに向き直ったクロエが、柔らかく微笑む。


「一緒に劇に出てくれない?」

「……はぁっ?」

「昨日、相手役の子が怪我しちゃって。代役を探そうにも、うちの劇団で他にできそうな子いないんだよね。だから、もうレイラしかいないなって」

「いや、意味わかんないし。なんでそこで私が……素人が出しゃばっていいもんじゃないでしょ。だいたい、本番は明日なのに……」

「レイラなら大丈夫だよ。すっごく綺麗でイメージ通りだし、セリフはほんのちょっとだし」


(付き合ってられない……)


 兄のダニエルの情報を引き出す為ならデートくらいしてやろうと覚悟していたが、演劇なんて冗談じゃない。


「それに、レイラにも体験してほしいな。お芝居ってとても楽しいから」


 キラキラした目で、他人になりきり、他人の人生を追体験できる素晴らしさを語られて、レイラは心底うんざりしていた。

 さっさとこの話題を終わらせようと、クロエの話を遮る。


「あのさ、明日の劇って、あの伝承の話なんでしょ?」


 記憶は曖昧だが、フェスティバルの劇は毎年、森の伝承を題材とした脚本だったはずだ。


「ええ、そうよ。って言っても、もう内容は生贄がどうとかより、人間ドラマや恋愛がテーマになっちゃってるけど」

「ふーん、どんな話なの?」


 興味はないが、断る理由を作る為に尋ねた。

 ちゃんと話を聞いた上で、好みじゃないから楽しめないとかなんとか言って断れば、きっと納得してくれるだろう。


 クロエは嬉しそうに劇の内容を話し始めた。

 ひとりで盛り上がっている彼女の長い話を要約すると、こうだ。


 人間を生贄として森の神に捧げる儀式が行われていた時代。

 無実の罪を着せられた恋人が選ばれて、森の霧に攫われてしまう。

 主人公は、孤独に耐えながら恋人の帰りを信じて待つ。

 神様は、善人である恋人を帰してくれるが、恋人はすでに正気を失っていた――


「救いのない話ね……」

「そこはちゃんと、ロマンチックに脚色してるから」


 クロエの瞳に一層、興奮と期待が宿る。


「レイラに演じてほしいのは、森から生還する恋人なの。フェスティバルのミス生贄って呼ばれるポジションっ、もう主役みたいなものよ!」


(きた……)


 メリットをアピールしているつもりらしいが、逆効果だ。


「嫌よ。気が狂った人の役なんて。それに、演技なんてできないのに、目立つ役なんて論外。クロエは私が恥をかくところを見たいの?」

「う~ん……そう言われちゃうと……」


 顎に手を当てて考えている様子のクロエは、「でも」と食い下がってきた。


(あーもう、めんどくさい)


「引き受けてくれたら、私もレイラのお願い聞いてあげられるよ?」

 ふんわりとした優しい笑顔の裏には、したたかで計算高い女の顔がある。


「ウォルターから聞いたんだけど、お兄ちゃんのこと疑ってるんでしょ? 知ってることはなんでも教えてあげる。家の中を自由に見てくれたって構わないし」


(……あのバカ。情報共有くらいちゃんとしなさいよ)


 クロエは父親を疑われていると思っている。その前提で、ダニエルのことをどう探るか慎重になっていたというのに。


「簡単に自分の兄を売るのね。イカれたシリアルキラーかもって思い当たることでもあった?」

「ひどいなぁ。誤解を解きたいだけだよ。レイラと仲良くなるついでだけどね」


 まるで親しくなることが確定しているような言い方。

 気に食わないが、利用できるなら好都合だ。


「……わかった。やってあげる。ただし、ダニエルの情報が先よ」

「やったぁ! じゃあ、レッスンのあと家に来てっ」


 何時に行けばいいか訊くと、分からないから連絡先を教えろと迫ってきた。


「えっ、レイラSNSやってないの?」


 交流アプリの類を利用していないと言うと、スマホにチャットアプリを入れさせられた。

 面倒だが、今はこの女との繋がりが大事だ。必要なくなったら消せばいい。


「あ、打ち上げ期待しててね。代役見つけてきたら予算アップしてもらえるって約束したの」


 そこまで付き合うつもりは毛頭ない。そうとも知らず、クロエは満足げにふふっと笑う。無邪気な笑顔は年上には見えない。

 順調だ。だけどなんだか、餌に釣られて罠に飛び込むウサギの気分だった。

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