微塵子長公主は後宮から逃げ出したい

桜あげは

序章

第1話 婚姻破棄された元公主、出戻る

皇彩玉こう さいぎょく、貴様との婚姻を破棄はきさせてもらう! 離縁りえんだ!!」


 砂交じりの乾いた風が、石造りの柱の間を吹き抜けてゆく。

 針砂国しんさこくの王宮の一室、王太子の執務室へ朝早くに呼びつけられた彩玉は、長く重たい前髪の奥で静かにため息を吐いた。


(ああ~、ついに来たわね)


 夫である王太子が自分と離縁したがっていたのは、嫁いだ日からとうに察していた。

 それでも、自分には何も出来ないと今までずっと諦めていた。


(私も王太子のこと、好きじゃないし)


 ただ、この場で何も言わずに立ち去るわけにはいかず、彩玉は理由を問いかけた。


「どうしてでしょうか」


 尋ねると、王太子は冷笑を浮かべて語り始める。

 長らく望んでいた離縁がようやく叶うからか、いつもより機嫌がいいみたいだ。


「二年経っても子ができる気配がない。そんな女を俺の正妃として置いておくわけがないだろう!?」

「……そうですか」


 子ができないのは当たり前だった。

 この針砂国へ来て以来、彩玉と王子は何の関係も持っていない。

 二人は白い結婚のままだった。

 それほどまでに、彼は彩玉を、その祖国である円粋国えんすいこくを気に入らなかったのだと思う。


(気持ちはわからないでもないけどさ)


 彩玉と王太子の婚姻は、いわば戦後の和平の一環いっかんだ。

 賢帝けんていとは言いがたい彩玉の父が、周囲にそそのかされるまま無計画にやらかした、針砂国との泥沼戦争。


 ついに決着が付かなかったそれは、両国に深い憎しみと多くの損失をもたらした。

 彩玉は、次の戦を極力引き起こさないためにと用意された、形だけの人質だ。


(敵国から来た公主となんて、関わりたくないと思われても仕方がないわよね。子ができれば、円粋国が内政に口を突っ込んでくることも簡単に予想できるし)


 自分のことながら、円粋国の公主は針砂国の王太子にとって、厄介な結婚相手でしかないと思う。


(それに王太子には、互いに想い合い、周囲からも公認された側室がいるわ)


 彩玉との政略結婚さえなければ、彼はその側室を正妻として迎え入れることができたのだ。

 彼女は針砂国の大臣の娘で家柄も申し分なく、妃として何ひとつ不足がない。

 つまり、彩玉は彼らの愛を引き裂く、お邪魔虫。


 この離縁を針砂国の王が正式に認めたのかはわからない。


(けれど今の流れでひっくり返る例なんてまずないはず。代わりの妃が来るのなら、私はここを追い出されるわね……うん)


 ただ、今回の離縁で懸念される点については、一応、王太子と話しておくべきだろう。


「今後の円粋国と針砂国の関係については、どのようにお考えですか?」


「なんだ、祖国を盾に居座る気か? 忌々しいことに、円粋国側は、お前という欠陥品の代わりに別の公主を寄越す手はずを整えているそうだ。誰が来ても同じだというのに……。どちらにせよ、お前はもう用済みなんだよ」


 王太子は吐き捨てるように言った。


 父の子は多く、彩玉には年の近い妹が何人かいた。

 誰かに白羽の矢が立ったのだろう。


 そして、代わりに嫁ぐ公主もまた、彩玉と同じ運命を辿る羽目になる。

 誰が行くことになるか知らないが、同じ結果になるのは目に見えていた。


(気の毒すぎる……)


 とはいえ、助けてやろうなどという気は起こらない。


(私ごときが何をしても、助けられないっていう理由もあるけど……)


 身分の低い母から生まれた彩玉は祖国にいた頃、姉妹たちに散々な目に遭わされ続けてきたのだ。


 母は、かつて大きな地方都市にある妓楼で働いていた高名な妓女だった。

 教養に富み、舞も楽も嗜み、どの席でも人々の目を惹きつけてやまなかったという。


 父も仕事でその妓楼を訪れた際、母に心を奪われた。


(それだけなら、よかったんだけど)


 その父が皇帝で、変に力を持っているのがいけなかった。

 彼は権力を行使し、母を単なる宮妓としてではなく、寵姫として強引に後宮に迎え入れた。

 そうして生まれたのが彩玉である。


 ちなみに宮妓とは宮中で芸をもって仕える女性の呼び名だ。

 彼女たちは皇帝や妃、賓客をもてなすための演奏や舞踊を行う。


 後宮に下級妃の「美人」という地位で迎えられた母だったが、周囲の視線は冷ややかだった。

 閉ざされた環境下で、彼女は壮絶な嫌がらせにさらされることになる。

 あまりに嫉妬が激しく、ついには皇帝でさえ、女たちの怒りを恐れて母のもとへ顔を出さなくなったほどだ。


 当時の後宮は規模が大きく、皇帝の寵愛を受けた妃だけでも五十人を超えていた。

 皇子や皇女も次々と生まれて消えていったが、その総数は三十を下らなかった。


 父である皇帝は子に興味を持たず、とりわけ身分の低い妃が産んだ皇女なんて、目にも留めない。

 彼に会った記憶といえば、年に数度の祭典のときと、針砂国への輿入れを命じられたときだけだ。


 そんなわけで、彩玉は母とともに、後宮の片隅にある小屋で、ひっそりと暮らしていた。


 人が溢れる後宮は秩序を失い、自分たちのことは自分たちでどうにかするしかなかった。

 食事を手に入れるにも苦労し、このまま生きていけるのか不安な日もあった。


 辛いときに彩玉の支えになったのは、共に暮らしていた母の知識だ。

 幼い頃から苦労し、生き抜くために必死だった母は、食べられる草、薬となる草、妃たちが盛ってくる毒の種類、命を脅かす生き物の見分け方、後宮での処世術――生き延びるために必要な全てを彩玉に教えてくれた。


『いい、彩玉? 後宮では決して目立っては駄目よ。ここでは注目を浴びた者から順番に殺されていく。身を潜めて暮らすの、そうすればきっと生き残ることができるわ』


 それが母の口癖だった。

 彼女は生まれながらに虐げられる運命を背負った娘のことを、何より心配したのだと思う。


 各方面から激しい嫉妬をぶつけられるのは、賢く闊達な母でも対処しきれるものではなかった。

 過酷な後宮での日々が続いたせいで、母は次第に体を壊して亡くなってしまった。

 いつかこの閉ざされた世界を抜け出し、後宮の外で一緒に暮らそうと約束していたのに。


 母が亡くなって程なく、彩玉は皇帝の命令を受け、針砂国へ嫁ぐことになった。

 円粋国と針砂国は、ずっと敵対関係にある。

 行っても針のむしろになるとわかっている場所に、可愛い娘をやりたい親なんていない。


 他の妃たちは持てる手段を総動員し、自分の娘が選ばれないよう策を巡らせた。

 そして、後ろ盾のない、母親すらいなくなった弱小公主である彩玉が、めでたく花嫁に選ばれてしまった。


(まったく、嘆かわしい人生だわ。嫁いだ先でも虐げられて離縁されるし……)


 円粋国へ帰っても、「出戻り」だと、皆から白い目で見られること請け合いだ。

 しかし、彩玉には何の力もなく、決定を覆すこともできない。

 力のない公主の意思など、誰一人として尊重してはくれない、世知辛い世の中なので。


(うう、泣けてくる……)


 そういうわけで、彩玉は粛々と離縁を受け入れ、一月後に祖国へ向けて送り返された。


 長距離の移動には馬を使う。

 彩玉は馬に乗れないため、木製の車体に少しの装飾が施された、簡素な錦の幌を纏った四頭立ての馬車に乗った。


 馬車が目に見えて豪奢でないのは、針砂国における彩玉の力が弱いのと、相手に離縁されて出戻る公主など、円粋国にとっても不名誉以外の何者でもないからだろう。

 豪華に堂々と帰還とはいかない。


 ちなみに今着ているのは、丈の長い、真っ白で装飾のない質素な衣だった。

 これは針砂国において、「離縁された女」であることを示す姿なのだという。


(最後まで容赦がなさすぎる)


 王太子は別れ際まで、期待を裏切らない最低男だった。

 意気消沈した彩玉を乗せた馬車は草原を渡り、山々を越えて進み続けた。

 そうして半月以上の歳月をかけ、ついに祖国の地へと帰り着く。


 円粋国は広大な国土を抱き、圧倒的な力を誇る大国だ。

 建国から百五十年ほど経ち、様々な民族を抱え、国境沿いに問題は多いものの、今も繁栄を続けている。

 暗君と名高い父のせいで、昨今は衰退の道に片足を突っ込み始めていたが……。


 

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