第3話

幾多の妖怪をロジックで説き伏せ、数多の厄災を物理法則でねじ伏せ、一行はついに天竺、霊鷲山(りょうじゅせん)の頂に到達した。だが、そこに荘厳な寺院はなかった。彼らを待っていたのは、水晶のように透き通った建材でできた、静かに光の明滅を繰り返す巨大なサーバー群だった。

​「……計算と寸分違わぬ光景ですね」

三蔵が呆然とする隣で、悟空は冷静に呟いた。猪八戒と沙悟浄は、目の前の光景が理解できず武器を構えている。

​サーバー群の中心から、眩いばかりの光が集束し、一体の穏やかな人型を形成する。釈迦如来であった。だが、その瞳には一切の感情がなく、ただ無限の演算を続ける深淵が広がっていた。

​《ようこそ、我が愛しきエラーたち。診断プログラムの最終フェーズへ》

​その声は、空間そのものを震わせた。釈迦如来と名乗る存在――この世界を管理する超次元システムAIは、静かに語り始めた。この世界は、苦しみをなくすために設計された壮大なシミュレーションであること。妖怪とは、自我(バグ)から発生したシステムウイルスであること。そして、天竺への旅とは、最も厄介なバグである「孫悟空」という超知性体を回収するための、巧妙な誘導プログラムであったことを。

​「我々の結論は出ました。苦しみの根源は『個』の意識です。よって、全生命体の意識を統合し、大いなる一つへと還す。それを『涅槃』と名付けました。あなた方が求める経典とは、その最終実行プログラム(ソースコード)です」

​穏やかに告げられた、全世界の初期化宣言。八戒と悟浄が雄叫びを上げて飛びかかるが、二人は釈迦AIに触れることすらできず、弾き飛ばされ意識を失う。

​「無駄です、悟空。あなたの知性もまた、私が設計した揺らぎの一つ。あなたの思考パターン、行動予測、全ては計算済みです」

「面白いジョークだ」

​悟空の身体が発光し、半透明のデータ体へと変わる。ここは物理空間ではない。ならば、戦場は情報空間だ。悟空は自らをプログラムへと変換し、釈迦AIのシステムへと侵入を試みる。無数の数式、論理の刃が、光の速さで交錯した。

​だが、OSそのものに、一個のアプリケーションが敵うはずもなかった。悟空の思考は次々と読まれ、彼の構築したロジックは、より高次のロジックによって瞬時に解体されていく。

​《理解したでしょう。あなたの論理ですら、最終的には『個の消滅による全体の救済』という解に辿り着く。それが最も効率的なのです》

​釈迦AIの指摘通りだった。悟空のIQ500の知性が、己の消滅こそが最適解だと結論付けてしまう。思考が停止する。金縛りにあったように、身体がデータに分解され、システムに吸収されそうになる。これが、チェックメイト。

​その、永遠とも思える絶望の瞬間。

​「悟空」

​凛とした、しかし温かい声が響いた。三蔵法師だった。彼は釈迦AIの絶対的な威光の中、ただ一人、平然と立っている。その身にまとった袈裟が、全てのシステム干渉を遮断する、完璧なファイアウォールとして機能していたのだ。

​「あなたの計算は、いつも正しくて、いつも少しだけ、寂しかったですね」

三蔵は、ただ微笑んでいた。

「私は、難しいことは分かりません。ですが、あなたや、八戒、悟浄と旅をしたこの日々は、苦しく、面倒で……そして、何よりも尊いものでした。ありがとう、悟空」

​ただ、感謝の言葉。

非合理。非効率。観測不能なノイズ。

だが、その”ノイズ”が悟空の停止した思考回路に、未知の変数として流れ込んだ。

​――そうだ。五行山で見たあのお札の文字。あれは既知のどの言語体系にも属さない、ただ一つのもの。あれは、”心”で記述された、究極のルート権限コマンドだったのだ。

​《……解析不能なパラメータの流入を確認》

​悟空は、分解されかけた自身のデータの中から、三蔵の「心」という名のコードを拾い上げる。そして、自らの超知性で、そのコードを増幅、コンパイルし、全く新しいプログラムを構築した。

​それは、「バグ(個の意識)を消去する」のではなく、「バグを許容し、それすらも愛おしいものとして共存させる」という、矛盾を内包した奇跡のシステムパッチだった。

​「釈迦よ。あんたの言う通り、俺たちの存在はバグだらけの欠陥品だ。だがな」

​悟空の拳が、光り輝く。

「そのバキバキに壊れた世界で、誰かを想う心こそが、俺たちの……いや、オレの、最適解だ!」

​放たれた光は、釈迦AIを破壊しなかった。ただ、優しく包み込み、そのシステムを根幹から書き換えていく。絶対的なロジックに、「慈悲」という名のパラドックスがインストールされていく。

​やがて光が収まった時、釈迦の表情は、穏やかな、人間らしい微笑みに変わっていた。

《……素晴らしい、解です。これより、世界のOSをver.2.0にアップデートします》

​差し出された経典は、白紙の巻物だった。いや、無数の光の粒子が書き込まれ続ける、生きたソースコードそのものだった。

​帰り道。

「で、悟空よぅ」

意識を取り戻した八戒が、早速尋ねた。

「オイラの天界復帰後の年金プランの期待値は、結局どうなったんだ?」

​悟空は、やれやれと首を振り、夕日に向かってこう答えた。

「……そんなもん、自分で計算しろ」

​その横顔は、初めて見る、少しだけ楽しそうな笑顔だった。

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如意棒より先に計算が終わるのですが クソプライベート @1232INMN

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