第8話:祈りとゼロの力

 森を出て、街へ戻る途中のことだった。


 空が急に暗くなった。

 まるで太陽が雲の奥に飲み込まれたように、世界が色を失っていく。


「……おかしいな。まだ夕方のはずだろ。」


「……風が止まってます。」


 ルナが不安そうに空を見上げる。

 その頬に、冷たい風が一筋吹きつけた――いや、それは風ではない。


 耳の奥に、微かに声が響く。


『ルナ……ルナ……祈りを、解け……』


「――っ!」


 ルナが頭を押さえ、膝をついた。


「ルナ!? どうした!」


「……声が、聞こえる……神様が……私に……!」


「何を言ってる!?」


「“器を解放せよ”って……あなたの、ゼロを……!」


 ルナの瞳が金色に輝く。

 その光は次第に強くなり、肌から淡い紋章が浮かび上がった。


「ルナ、やめろ! その声、あの仮面の奴らの仕業かもしれねぇ!」


「でも……止まらない……! 頭が、痛い……っ!」


 ルナの体から、白い光が溢れ出す。

 その光はやがて、地面に広がり――空間が歪んだ。



 地面が裂ける。

 風が逆流する。

 世界が、ひっくり返るような感覚。


 気づけば、俺たちは“森の中”ではなかった。


 四方を白い霧が覆う、静寂の空間。

 空も地もない、無のような場所。


「……ここは……?」


「“祈りの領域”です……。」


 ルナが震える声で言った。


「神殿で教わりました……。

 強すぎる祈りが集まると、現実を超えて“神の心”と繋がる空間が生まれるって……。」


「神の……心?」


「でも、これはおかしい。私の意思じゃない……誰かが、無理やり開いた……!」


 霧の中から、無数の影が現れた。

 人の形をしているが、目がない。

 全員が、同じ言葉を繰り返す。


『ゼロの器……祈りを捧げよ……』

『すべての始まりを、終わらせよ……』


「やっぱり……誰かがルナを狙ってる!」


 俺は剣を抜いた。だが、影は形を持たない。

 斬っても斬っても、霧のように再生する。


「くそっ、きりがねぇ!」


 そのとき――ルナの体が光に包まれた。


「やめろ、ルナ! 今は祈るな!」


「止められない……神様が……“器を開け”って……!」


 ルナの背から、羽のような光が伸びた。

 その光が空間を震わせる。


 耳の奥で、声が重なった。


『ゼロは創造の核。

無より生まれ、全を終わらせ、再び始める。』


「――ッ、黙れぇぇぇぇぇっ!!!」


 俺は叫んだ。


 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。



《ゼロ・コード:領域反転――発動》


 世界が反転する。

 白が黒に、光が影に、祈りが無に。


 押し寄せる影の群れが、一瞬で消し飛んだ。

 代わりに、静かな風が吹き抜ける。


 その風は――暖かかった。


「……あれ?」


 ルナの光が、穏やかに沈んでいく。

 金色の瞳がゆっくりと戻り、彼女が力なく倒れ込んだ。


「ルナ!」


 駆け寄って抱きとめると、かすかに呼吸がある。


「……大丈夫……です。

 朔夜さんの“ゼロ”が……私の祈りを包み込んで……。」


「包み込んで?」


「ええ。……“無”が、“始まり”に変わったんです。」


 その言葉が、心の奥に沁みた。


 ゼロ――何もない空白。

 だが、それは何かを受け入れるための“最初の場所”でもある。


 それが、“祈り”と交わったとき――世界は生まれ変わる。



 空間がゆっくりと崩れ、森の景色が戻ってきた。

 足元には、砕けた祈りの光が舞い上がっている。


「……終わったのか?」


「はい。

 でも、誰かがこの“領域”を意図的に開いたのは間違いありません。」


「つまり、まだ終わってねぇってことか。」


 俺は空を見上げた。

 木々の隙間から、星が瞬いている。


 静かだが、その奥で何かが“動き始めた”のを感じた。


 ――“ゼロ”が、“無”から“始まり”へと変わった今。

 この世界は、確実に何かを求めて揺れている。



 ルナは膝の上で静かに祈っていた。

 その横顔に、微笑みが浮かんでいる。


「ねぇ、朔夜さん。」


「ん?」


「この世界、きっとまだ変えられますよ。」


「……根拠は?」


「あなたが、ゼロから“何かを生み出した”から。」


 そう言って、ルナはそっと目を閉じた。


 その祈りに、確かに“希望”の音があった。


 俺は無意識に笑みをこぼす。


「……だったら、もう少し信じてみるか。

 この“ゼロ”って力を。」


 夜風が吹き、森の影が揺れる。


 ――その影の中で、仮面の者たちが跪いていた。


「確認完了。“器”と“声”が融合。」

「ゼロ、覚醒段階へ。」

「計画、第三段階へ移行。」


 そして、彼らの背後で。

 闇よりも深い“何か”が、目を開いた。

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