第7話:再び森へ

 ――数日後。


 リディアの空は快晴だった。

 石畳の通りには市場の喧騒が戻り、人々の笑い声が響く。


「ずいぶん街にも慣れましたね。」

 ルナがパンを抱えながら笑う。


「ああ。最初は全部が異世界すぎて目が回ったけどな。」


「最初の日なんて、果物の値段を倍で払ってましたもんね。」


「……あれは情報料込みだ。異国税みたいなもんだ。」


「ふふっ、まだ言い訳してる。」


 笑い合いながら街を歩く。

 いつの間にか、ルナとこうして並んで歩くのが自然になっていた。


 しかし、そんな穏やかな時間の中でも――俺の胸の奥では、あのマスターの言葉が何度も繰り返されていた。


「Zは、世界を終わらせる者。」

「だが、仲間と共にあれば始まりになる。」


(……世界を終わらせる、ね。)


 笑うには、あまりに現実的な言葉だった。

 それでも、ルナの笑顔を見ると少しだけ救われる気がした。



 昼過ぎ。

 俺たちは再びギルドを訪れていた。


「今回は少し遠出になりますね。」

 ルナが手にした依頼書を見つめる。


「“北の森・奥地にて、薬草セリア草の異常発光を確認。調査依頼”……だと。」


「異常発光……?」


「前回と同じ薬草だ。でも、“異常”ってのが気になるな。」


 受付嬢のレティシアが説明を加えた。


「報告によると、夜になると森の奥で《セリア草》が青白く光り、魔獣が群れるようになったそうです。

 ただ、調査隊が近づくと光が消えてしまうとか……。」


「まるで、何かを“誘っている”みたいですね。」

 ルナの声がわずかに震える。


「報酬は銀貨三枚か。手頃な危険報酬だな。」


「また危ないこと言って……。」


「大丈夫だ。今回はちゃんと準備していく。」


 そう言いながらも、胸の奥に引っかかるものがあった。

 異常発光、魔獣の集まり、誘い――

 嫌な予感がする。



 夕刻。

 俺とルナは北の森の入り口に立っていた。


「……やっぱり、前より静かですね。」


 昼の森とは違い、空気が冷たい。

 木々の隙間を吹く風が、笛のような音を立てる。


「行くぞ。無理はするなよ。」


「はい。」


 二人で森に入る。

 前回と同じ道を進むが、どこか違って見えた。

 光が少なく、影が濃い。森そのものが“息を潜めている”ようだ。



 しばらく歩いたときだった。


「……あれ、見てください。」


 ルナが指さす。

 地面に、淡い青い光。

 だがそれは草ではなかった。


 人の形――いや、“祈るような姿”をした光の影。


「……これは、幻?」


 近づこうとすると、ルナが俺の腕を掴んだ。


「待ってください。何か……声がします。」


「声?」


 耳を澄ませる。

 風の音の奥で、微かに囁きが混じっている。


『ルナ……』

『ルナ……こちらへ……』


 ――確かに、呼んでいる。


「ルナ、離れろ!」


 反射的に叫んだ瞬間、光の影が弾けた。

 風圧と共に、冷たい魔力の波が森全体に広がる。


「きゃっ――!」


 ルナの身体が浮き上がり、後方に吹き飛ぶ。


「ルナ!」


 俺は走り寄り、地面を滑るように彼女を受け止めた。


「だ、大丈夫か!」


「……はい。でも、頭の中に……何かが、響いて……。」


 ルナの目が虚ろに揺れる。

 その瞳の奥、金の光がちらついた。


「やっぱり……お前、何か“繋がって”るな。」


「わかりません……でも、神様が……“目覚めの時が来る”って……!」


 その瞬間、森の奥から低い唸り声が響いた。


 闇の中から、黒い影がゆっくりと姿を現す。


 体中に無数の光る紋章。

 だが、前に見た《ダークウルフ》とは違う。

 それはまるで、光と闇を混ぜ合わせたような――異形の存在だった。


「……何だ、あれ。」


「魔獣じゃない……“形を持たない祈り”が、実体化してます。」


「祈りが……魔獣に?」


「はい。神殿で、昔一度だけ記録が……。

 “祈りが絶望に変わる時、それは災いを生む”と。」


 獣が咆哮した。

 その声はまるで、人間の悲鳴だった。



「ルナ、下がれ!」


「でも――」


「下がれッ!」


 俺は剣を抜いた。

 光を反射する刃先に、紋章の光が映る。


 ――そのとき、胸の奥で何かが脈打った。


《ゼロ・コード:干渉領域、展開可能》


(また来た……!)


「朔夜さん!」


 ルナの声を聞くと同時に、獣が飛びかかってきた。

 牙が迫る。だが俺は、一歩も動かない。


 脳裏に浮かぶ、マスターの言葉。


「力に呑まれるな。無はお前を喰う。」


 だが、今は違う。

 俺は“誰かを守るため”にこの力を使う。


「――《ゼロ・コード:反転出力》!」


 光が炸裂した。

 空間が歪み、獣の動きが反転する。

 突進してきた体が、逆方向に弾き飛ばされた。


「……くっ、はぁっ!」


 全身の魔力が一気に削られていく。

 けれど、確かに――俺は“制御できた”。


 ルナが駆け寄る。


「朔夜さん、大丈夫ですか!?」


「……なんとか。だが、まだ消えてねぇ。」


 吹き飛ばされた獣が立ち上がる。

 光の紋章が、黒く濁り始めていた。


「……もう一度、やるしかねぇな。」


「待ってください!」


 ルナが俺の腕を掴む。


「私も……やります。」


「お前、まだ魔力が――」


「祈りは、信じる心で繋がるんです。

 あなたの力が“無”なら、私の祈りが“始まり”になります。」


 その言葉に、俺は目を見張った。


(……ゼロと祈り、無と始まり。)


「いいだろ。じゃあ――一緒に終わらせるぞ!」


「はいっ!」


 二人の声が重なった瞬間、光と闇が衝突した。

 爆風が森を駆け抜け、夜が一瞬だけ“白く”染まる。



 数分後。

 光が収まると、そこには静けさだけが残っていた。

 地面には砕け散った紋章の破片が光り、やがて霧のように消えていく。


「……やった、のか。」


「はい……きっと。」


 ルナは膝をつき、そっと手を合わせた。

 その姿は、まるで森に祈りを捧げる巫女のようだった。


「これで、また静かに眠れますように……。」


 風が吹き抜け、木々がざわめく。

 森が再び、穏やかに息をしているようだった。



 街へ戻る道すがら、俺は小さく呟いた。


「……やっぱり、お前はただの神官じゃないな。」


「え?」


「神の声が聞こえるって言ってたけど……お前自身が、神に近いんじゃねぇか。」


 ルナは少し驚いて、それから笑った。


「私はただ、誰かのために祈ってるだけです。

 でも――もしその祈りが、あなたを守れるなら……私は、それでいい。」


 月明かりの下、ルナの笑顔はどこまでも澄んでいた。


 だが、その光の裏で。

 遠く離れた場所から、再び仮面の声が響く。


「……神の声、確認。祈りが反応を始めた。」


「“器”と“声”が共鳴したか。」


「計画、第二段階へ移行。」


 黒い羽が夜空に散った。

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