桁は息を連れてくる
クソプライベート
余白に心拍を
点滴の滴下音と、心拍モニタのピッという音がずれるたび、俺は十円玉を親指で弾いた。
チン。二短一長。
息子の手首には青いリストバンド。名前とバーコード。すべての時間が、あの細い手のためにある。
「本当に全額で?」受付の男が茶封筒をゆすった。
「全額です」
「……これは?」
「予備のバンド。返却不要で」
男は怪訝そうにうなずき、参加証を差し出した。ガラスの向こうでは超伝導冷凍機が低い唸りを上げ、配線の森にKIRI-9と呼ばれる量子プロセッサが眠っている。
司会が叫ぶ。「全財産ベット・量子対人計算チャレンジ、開始!」
観客がざわめく。俺は古いそろばんを膝に立て、珠の位置を見た。四級。誇れる段位ではない。でも桁は、裏切らない。
第一ラウンド。巨大行列の乗算。
「逐次出力、誤差±0で!」
KIRI-9が一気に吐く横で、俺は桁ごとに“割る・持つ・渡す”の手順を珠に割り当てる。
カチ、カチ。息を合わせる。二分の勝負で、差は紙一重。観客席がどよめく。
第二ラウンド。真の乱数を見抜け。
スクリーンに0と1が雨のように落ちる。俺は十円玉を弾いた。
チン。
……わずかな伸び。五十ビットごとに1の群れが長い。隣の冷凍機の圧縮機が周期を外している。振動が読み出しに“乗っている”。
「偏りあり。周期五十前後、位相は二十でずれる」
会場が息を呑む。白衣のエンジニアが俺を見る。
「どうして分かるの?」
「珠が教えてくれる。1が続くと、指の皮が少しだけ熱い」
冗談に聞こえる言い回しで、核心を隠す。制度の盲点は、言葉の盲点でもある。
控え室に戻ると、エンジニアが紙コップを差し出した。
「勝てるかもね」
「勝たないと意味がない」
「賞金が目的?」
俺は首を振る。青いリストバンドを見せた。
「時間が目的。治療枠は金で買える。でも、計算資源の先取りは金で動かないことがある」
「……あなた、本気で全額を?」
「全額より重いものを、賭けに入れてる」
静寂。
最終ラウンドの課題が示される。
〈フェルマーの最終定理を、自力で証明せよ(200字以内)〉
会場がざわつき、司会が笑う。「量子でも無理なら、人間も無理、ですよね?」
俺はそろばんを立て、珠を零(クリア)に戻す。十円玉を弾く。
チン。二短一長。
「条項七。『証明は新規でなくとも、自力で再構成し、要点を論理的に提示すれば可』」
司会が目を白黒させる。ルールは公開情報だ。
KIRI-9は神速の計算はできても、短い論証を組むのが苦手だ。単語の重みづけは、いまはまだ人の手のほうが旨い。
俺はホワイトボードに書く。
「仮に ()があると仮定。そこからフライ型の楕円曲線 を立てる。リベットの定理により、そんな はモジュラーであり得ない。一方で、(セミステーブルな)楕円曲線はすべてモジュラー――ワイルズの結果。矛盾。ゆえに解なし。」
日本語に直し、200字に収める。
珠が一度だけ鳴る。
カチ。
審判団が顔を寄せ合う。表示が「検証中」に変わる。
司会が取り繕う。「ええと、これは……」
エンジニアが小さく頷く。「有効。条項七に適合」
会場のざわめきが歓声に転じる。KIRI-9は黙って冷えている。
「優勝は――そろばん四級!」
紙吹雪。俺は深く息を吐いた。その瞬間、審判が俺を呼び止める。
「賞金の受け取りは銀行口座で……」
「現金じゃなくて、計算資源の譲渡にできますか。病院の名義で、遺伝子パターンの最適化計算に。今日、今から」
司会が言葉を失う。エンジニアがうなずく。
「スポンサー規約の特例条項。社会的必要と医療目的なら可。やります」
病院に戻るタクシーの中で、俺は十円玉を弾いた。
チン。
病室。モニタのピッという音が、さっきより安定している気がする。
「ただいま」
息子は眠っている。青いリストバンドが光を返す。
看護師が入ってきて、タブレットを見せた。
「計算枠、取れました。すごいコネですね」
「コネじゃない。桁の、位取りです」
「え?」
「世界の位取りを、少しだけ直した」
椅子に座り、そろばんを膝に置く。珠をそっと撫でる。
俺が賭けたのは金じゃない。
息だ。
そして、息を運ぶための、桁だ。
桁は息を連れてくる クソプライベート @1232INMN
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